2007年11月28日

近江聖人中江藤樹物語


藤樹 日本人の中に「聖人」と呼ばれる人はきわめて少ない。聖徳太子、26聖人、そしてこのひと近江聖人といわれた中江藤樹くらいではないか。
 荻生徂徠は「熊沢蕃山の知、伊藤仁斎の行、これに加うるに自分の学をもってしたならば、日本ははじめてひとりの聖人を出すことになろう。」といっている。荻生徂徠は中江藤樹を聖人とは認めていなかったことになる。

 わたしの家には、中江藤樹の伝記があって、小学生の時になんども読んだ記憶がある。戦前の本で旧仮名遣いではあったが、子ども向けに書かれていて、何とか読めた。

 そのなかで大野了佐との話しが今でも記憶に残っている。了佐は大洲藩時代の同僚の次男であったが、知能がきわめて低かった。父親はとうてい武士としてはやっていけないと見切りをつけ、何か身に職をつけさせようと考えた。了佐は武士に家に生まれながらも武士になれない自分を恥ずかしくおもい、せめて医者になって人の役に立ちたいと願い、藤樹を訪ねてその門弟に加わった。
 藤樹も了佐の熱意に応えてなんとか医者にしてあげたいと了佐の医学を学ぶことを助けようとする。
 しかし知的能力の低かった了佐に医学を教えることは大変だった。文章が読めない、読んでもすぐに忘れてしまう。同じことを何百回と繰り返し教えることに精も根もつきはてるばかりであったという。

 しかし、それでも了佐はあきらめなかった。その了佐の熱意に動かされ、藤樹は自ら了佐ひとりのために筆を執って「捷径医筌」という教科書をつくる。「捷径」は近道、「医筌」とは医学の手引きを意味する。
 これを何度も繰り返し、読み、覚え、質問をし、とにかく身に付くまで徹底して教えた。「捷径医筌」は6巻もの大部となる。了佐一人に教えるために、自らも医学を学び、それをいかにして了佐に理解させるか、精根尽き果てるような努力の積み重ねであった。
 それがみのり、了佐も医者になることができ、藤樹自らも医学を学ぶことができた。
 藤樹は、後でふり返って次のように述べている。
「わたしがいくら一生懸命に教えても、了佐に学ぶ意欲がなかったら、とうていできなかったことである。彼は非常に愚鈍であったけれども、医術を身につけようとする熱意たるや並大抵のものではなかった。」
 自分は、了佐の熱意に応えただけのことであるというわけである。

 藤樹にとって大切なことは、よく生きることに全力を尽くすことであった。彼は才能の有無も、貧富も、身分の違いも問題にはしなかった。了佐が全力を尽くそうとしている限り、自分も全力を尽くさなければならないと考えたのである。
 このような藤樹の生き方は弟子たちだけでなく、小川村の人びとを動かした。


蕃山1 藤樹の弟子になった中でもっとも有名なのが熊沢蕃山である。蕃山が学問の志を持ちながらよき師を求めて旅をしていたとき、京都の宿で同宿人から藤樹のうわさを聞き、自分の師となるべき人物はこの人だと心に決めた。その藤樹のうわさとはこういう話しであった。

 その同宿人は加賀の飛脚であった。彼は大名の公金200両をあずかって京都に運ぶ役を仰せつかっていたのだが、宿に着いたときにその大金を紛失していることに気づく。その飛脚は色を失い、悲嘆にくれていた。そこへその飛脚を乗せた馬方がたずねてきて、馬の鞍に忘れてあった包みに大金が入っていたのであわてて届けにきたという。
 飛脚は喜びのあまり、苦境を救われたお礼に15両をとりだして渡そうとしたところ、その馬方はびっくりしてその礼を受け取ろうとしない。それでは自分の気が済まないと言ってなんとかうけとってもらいたいと懇願したところ、やっと200文だけいただきますと言って受け取った。それを受け取ると馬方は、その金で酒を買い、宿の人たちと一緒に飲み、よい機嫌になって帰ろうとした。
 飛脚はつくづく感心して、馬方に一体どこのどなたなのですかと尋ねると、馬方は自分は取るに足りない馬方で学問もありませんが、わたしの近くの小川村で中江藤樹という先生の講話をよく聞いております。その藤樹先生が言われるとおりのことをしたまでですと応えたというのである。

 蕃山はこの飛脚の話を聞いて、この人こそわたしが求めていたまことの学者であると、翌日直ちに小川村の藤樹を訪ねたのである。蕃山23歳のことである。
 しかし、藤樹はこの蕃山の申し出をことわる。しかし蕃山はあきらめずに、門前で二夜を過ごすに至って、その熱意に動かされた母のすすめでともかく会うことだけはしてもらえるが、それでも弟子となることを許されなかった。
 しかし、蕃山は屈しなかった。これはきっと母親を一人国元に残していることが藤樹先生にとって気に入らないにちがいないと推測し、いったん国に帰り、今度は母親とともに小川村に移り住んだ後にあらためて藤樹を訪ね、ついに入門を認められたという。

 蕃山が藤樹から学ぶことができたのは、わずかに八か月であった。しかしこの八ヵ月の間に、藤樹と蕃山は師弟の関係を越え、「性命の友」「輔仁・莫逆の間柄」となった。互いに教えあい、学びあう対等な関係になったというわけである。
 吉田松陰はこの藤樹と蕃山の関係を次のように述べている。
「みだりに人の師になってはいけない。またみだりに人を師としてはいけない。必ず真に教えるべきことがあってこそ師となり、真に学ぶべきことがあってこそ師とすべきである。熊沢了介(蕃山)が中江藤樹を師とした例は、師弟ともにそれぞれの道理を得ているということができる。」
 実にうらやましい師弟関係である。

 蕃山についてはまたいずれ調べて書くことにしよう。
 

 

 
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2007年11月27日

ローマ人の死生観

「ローマ人の物語6」にこんなことも紹介されていた。

 ローマ人の死生観は、死生観などという大仰な文字で表すのがはばかられるほど。非宗教的で非哲学的で、ということはすこぶる健全な死生観であったとわたしは思う。死を忌み嫌ったりはしなかった。「人間」というところを「死すべきもの」という言い方をするのが普通の民族だったのである。

 墓も死者だけを集めて生者の生きる場所から隔離した墓地を作るということはしなかった。校外の一戸建てのヴィラの庭の一面に葬る人もいたが、庭に恵まれたヴィラの持ち主でもわざわざ、墓所は街道沿いに立てる方を好んだ。………アッピア街道でもフラミニア街道でも。ローマ式の街道ということになれば都市をでたとたんに、街道の両脇はさまざまな社会階層に属する人びとの墓が並び立つのが通常の景観であったのだ。街道とは生者が行き交うところである。それで死んだあとも、なるべく生者に近いところにいたいからだった。

 とくに、行き交う生者の数がどこよりも多い都市に近い街道沿いは、両側に並び立つ墓の間を歩いていくようなものだった。これらの墓所は、各種各様のデザインを競った造りであり、墓碑に刻まれた文の中にも愉快なものが少なくなく、ローマ人の健全な死生観を表してあまりある。
「おお、そこを通り過ぎていくあなた、ここに来て一休みしていかないか。頭を横に振っている。なに休みたくない? と言ったって、いずれはあなたもここに入る身ですよ」
「幸運の女神は、すべての人にすべてを約束する。と言って、約束が守られたためしはない。だから一日一日を生きることだ。一時間一時間を生きることだ。何ごとも永遠でない生者の世界では。」
「これを読む人に告ぐ。健康で人を愛して生きよ。あなたがここにはいるまでのすべての日々を。」


 日本の「なになに家累代の墓」とかいうあじけないものではない。しかも人の通らない奥まったところにあるのでもない。
 明るく楽しく生きてきたことへのあかしを多くの人に見てもらいたいというローマ人の現実的で健全な死生観ということになるであろうか。
 惜しむらくは、それらの墓碑銘の写真がほしかった。
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皇帝アウグストゥスの現実主義

 塩野七生著「ローマ人の物語6」を読み終えた。共和制から帝政へと移行するときの初代皇帝の話しである。でも4巻や5巻のカエサルのときのようには、ここに紹介する話しが多くない。
 せめてと思って、この書の最後に紹介されていたアウグストゥスのエピソードを一つ紹介しよう。

 死の少し前のアウグストゥスが、ナポリ湾の周遊中に立ち寄ったポッツォーリでの出来事である。
 エジプトのアレクサンドリアから着いたばかりの商船の乗客や船乗りたちが、近くに錨を降ろしている船の上で休んでいた老皇帝を認めたのだった。戦場から人びとは、まるで合唱でもするかのように、声をそろえて皇帝に向かって叫んだ。
「あなたのおかげです。われわれの生活が成り立つのも。
 あなたのおかげです。私たちが安全に旅をできるのも。
 あなたのおかげです。われわれが自由に平和に生きていけるのも」
 予期しなかった人びとから捧げられたこの讃辞は、老いたアウグストゥスを心の底から幸福にした。彼の指示で、その人びと全員に、金貨10枚ずつが贈られた。ただし、金貨の使い道に条件が付いていた。エジプトの物産を購入して他の地で売ること、である。老いてもなおアウグストゥスは、現実的な男であり続けたのである。物産が自由に流通してこそ、帝国全体の経済力も向上し、生活水準も向上するのである。そしてそれを可能にするのが「平和(Pax)」なのであった。


 いかにもアウグストゥスらしいエピソードである。かれはいくさこそうまくなかったが、産業を興し、経済を活発にすることが「ローマの平和(Pax Romana」の現実的な礎であることをよく知っていたということである。
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2007年11月25日

「メセナ」の語源はマエケナス

 企業が文化・芸術などを支援することによって社会貢献の活動をすることを「メセナ」というが、この言葉はフランス語の mecenat から来ている。
 さらにこのフランス語の語源をたどっていくと、ローマ帝政最初の皇帝アウグストゥスの片腕となって活躍したマエケナスに由来するというと塩野七生著「ローマ人の物語Y」に書かれていた。

 マエケナスは、アウグストゥスによって、今でいうなら文化・広報担当の役を与えられた。彼はこの役について、私財を投じて文化の助成に費やした。彼の周囲には多くの文化人が集まった。中でも詩人が多く。ヴェルギリウスとホラティウスの二人は有名である。

 ヴェルギリウスは、ダンテの「神曲」において、地獄と煉獄まわりの案内者とされたことでも知られている。

 一方の詩人ホラティウスは、解放奴隷の子で財産もない貧しい詩人であったが、マエケナスは最初、アウグストゥスのもとで官吏の仕事を紹介するが、彼はそれを断る。それならとマエケナスは、ホラティウスに、24室もの部屋を持つ山荘の管理人とした。当時山荘を送るということは,住まいと仕事場と生活の糧を送ると同じことであった。

 イタリアのルネッサンス時代にも「マエケナスする」人がいた。フィレンツェのメディチ家の当主コシモである。彫刻家のドナテッロ、ミケランジェロなどはいずれも、コシモ・デ・メディチの世話になった芸術家である。

 その語源がこんな所にあると知って少々驚きであった。
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2007年11月23日

黒板消しの達人を目指して修行中

 学校での教員の仕事に掃除監督というのがある。本当は生徒たちが掃除を終わったときに、呼ばれて掃除が行き届いているかをチェックする仕事なのであるが、わたしは生徒と一緒に掃除をする。終礼がながびいて、掃除当番の生徒が来るのが遅くなると、一人で掃除を始めてしまう。時には生徒が来るころには掃除があらかた終わっていたりする。
 家ではあまり掃除をする時間がないので、掃除することは少ないのだが学校ではよく掃除をしている。掃除をするのが好きになったのである。

 中でも好きなのは、黒板拭きである。黒板拭きは学校中で一番うまいと自負している。もはや達人の域に達しているのではないかと思う。生徒からもときどきほめられる。
 わたしが担任をしていたクラスに、黒板拭きがやたら好きな生徒がいた。そしてめっぽううまかった。黒板拭きは本当はその日の日直の仕事なのだが、彼女は授業が終わると、かならず黒板をふく。そのためにその教室はいつも黒板がきれいだった。その教室に行くのが楽しみにしていた先生も多かったくらいである。彼女は黒板消しにいのちを懸けているといっていた。

 その生徒からも教わったのだが、黒板拭きのコツがいくつかある。
 まず、黒板クリーナーをきれいにして、黒板消しのチョークの粉をよく吸い取るようにしておき。こまめにクリーナーで黒板消しをきれいにしておくこと。これが第一である。
 つぎに、消すときは横一筋に消すこと。わたしの場合には右から左へ同じ方向に消す。帰りも消せば効率的でいいではないかと言われるが、なぜかそれではあまりきれいにならない。
 黒板消しは斜めにもち、辺に力を入れて消す。同方向に消していき、2回目は少し角度をたてる。これは図解して示さないとわかりにくいかもしれない。この方法だと粉が飛び散るということが少ない。

 黒板は乾燥している方が消しにくい。適度に湿気が必要である。
 一度ではきれいにならないときは、今度は上から下へ縦一筋に消していく。

 ともかくきれいな黒板はとても気持ちがいい。
 そしてそれをするほうも気持ちがいい。ちょっと工夫して丁寧にすればすぐにきれいになるので、精神衛生上もとてもよいように思える。何よりもその教室の生徒やその黒板を使う先生に喜ばれるところがとてもいい。
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2007年11月22日

カントの規則正しい生活

 黒崎政男著「デジタルを哲学する」(PHP新書)の「カントは面白い」というところに、「カントの生涯」(ヤハマン著、木場深定訳、理想社)の書評が載っていた。これがまたおもしろかった。

 哲学者カントは、バルト海にのぞむケーニヒスベルクの町(現在のカリーニングラード、なぜかここはロシアの飛び地である)を生涯離れなかった。せいぜい数マイルの行動範囲で80年の生涯を終えた。
 にもかかわらず、彼の思想がグローバルなスケールをもっていることにおどろく。


カント1 彼の規則正しい生活は有名である。朝5時に起き、睡眠は必ず7時間をとり、夜10時には床につく。食事は一日1食、毎夕定期的に散歩を欠かさなかった。町の人は彼の散歩を時計がわりにしていた。
 ただ一度、その散歩を忘れてしまったことがあった。それはルソーの「エミール」という本を読んだときであったという。

 かれは一日1回の食事を、友人たちを家に招いてゆっくりと談話を楽しみつつ楽しんだ。その人数は「9人より多くなく3人より少なくない」と決めていた。
 カントの昼食のテーブルでは、哲学論議などの堅苦しい議論は嫌っていた。


カント2
 カントの家で食事を共にした日は、その友人にとっても祭日であった。カントは少しも教師らしいふうをしないが、愉快な幾多の教訓で食事に香味を添えた。そうして1時から4時までの時間を短く感じさせ、しかも非常に有益で少しも退屈させなかった。彼は会話が活気を養う突然の瞬間を「無風」と名付け、これに我慢できなかった。彼はいつも一般的な話題を持ち出し、人びとの好みを察して共感を持ってそれを話し合うことができた。(「晩年におけるカント」バジャンスキー著 芝丞訳)


 食事中の談話は偉大な芸術である。臨席の人とだけではなく、同席者のすべてと談話することができなければならない。重苦しい長い沈黙の時があってはならない。また談話の対象を一遍に別の対象に飛躍してはならない。談話中に激情が燃え上がることがないようにしなければならない。食卓での会話は遊戯であって、仕事ではない。…………討論を終わらせる最良の方法は冗談である。冗談は対立する意見を仲裁するだけではなく、笑いを呼び起こして消化作用を助ける。


 一体どんな話が出たのか、その話の内容は記録に残っていないのが残念である。
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2007年11月21日

カエサルの「寛容(クレメンティア)」

 カエサルの魅力の一つとして、彼がかなり徹底した「寛容」の精神の持ち主であることがあげられる。
 かれが政敵との抗争に勝利して樹立した新秩序のモットーはこの「寛容(クレメンティア)」であった。凱旋式挙行を記念してつくられた記念銀貨にはこの「クレメンティア」の文字が彫り込まれていた。

 カエサルの政敵との戦いは、できる限り血を流さないやり方で成し遂げようとした。同胞同士が血を流し合う内戦の悲惨さを可能な限り回避しようとしたのである。
 また彼は自分と立場をともにしない人びとは抹殺されてしかるべきだとは考えなかった。殺そうと思えば殺すことのできた捕虜や投降してきた敵兵に対しても「勝利者の権利」を行使せずに釈放した。その人が再び彼に敵対するであろうことも充分に予測しながらも放免したのである。
「わたしが自由にした人びとが再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心を煩わせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自分の考えに忠実に生きることである。だから他の人もそうあって当然と思っている」
 これは人権宣言にも等しい。個人の人権を尊重する考えは、後代の啓蒙主義の専売特許ではないのである。


 この時代は、戦争で負けて捕虜になったり、降服してきた兵や住民は、殺されるか、あるいは奴隷として売り飛ばされたり、略奪されるのが「勝利者の権利」として当然のこととされていた時代である。
 カエサルはその「勝利者の権利」を行使しなかった。
 そのもっともよい例は、政敵であることを貫き通したキケロとの関係であっただろう。カエサルとキケロについてはまた改めて書きたいと思っている。
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「禿で女たらし」のカエサルの魅力

 塩野七生著「ローマ人の物語」を5巻まで読み終えた。4巻と5巻はカエサルの物語である。これがまたおもしろかった。
 カエサルという人物が話しが面白く、文章もうまく、政治家としても軍略家としても天才的な能力を持っているということが、実によく描かれている。
 カエサルが殺されたときは、だから悲しかった。こういう気持ちは司馬遼太郎の「龍馬がいく」で坂本龍馬が暗殺されたとき、吉川英治の「三国志」で孔明が死んでしまったときに味わったものと同じであろう。

 カエサルは女性にもてた。彼と対立していた元老院派のなかで妻を寝取られたのが実に3分の1もいたとかいう。

 カエサルがポンペイウスとの戦いで凱旋したときの軍団兵の行進で、彼らは一斉に大声で、その日のためにと決めておいたシュプレヒコールを唱和した。それは「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」というものであった。
 それではあんまりではないかと、カエサルは抗議したのだが、カエサルと12年間も苦楽をともにしてきたベテラン兵たちは、敬愛する最高司令官の抗議でも聞き入れなかった。凱旋式に何を唱和しようとも、それは軍団兵の権利だというのである。確かにそうでいい気になりがちの凱旋将軍の威光に水をかけるシュプレヒコールは、神々が凱旋将軍に嫉妬しないようにとの理由で、ローマの凱旋式の伝統でもあった。人並み以上にユーモアのあるカエサルだけに、このときの抗議も、いつものヒューマン・コメディの一例であったかと思われる、ただし、禿、というのだけは気にかかったらしい。このころには額の後退のとどまるところを知らなかったカエサルの、唯一の泣き所であったからだった。元老院は、カエサルの10年間の独裁官就任を可決した際に、カエサルだけは特別に、凱旋式以外の場所でも月桂冠をつけることを許している、これはカエサルが大変に喜んで受けた栄誉だった。月桂冠をつけていれば後退いちじるしい額も隠すことができたからである。


 こんなにもてたカエサルでも、女に関するもめ事がなく、訴えられたこともないところが不思議である。
 なぜそんなにもてたのだろうか。
 この書によると、先ず彼の女性へのプレゼントが実にうまく女心をとらえたのだそうである。
 そして会話が実にうまかった。ユーモアに溢れ、機知に富み……とある。
 そんなにハンサムでもなかった。禿げてもいた。ハンサムといえば少年時代のアウグストスは実に美少年だった。それがカエサルがオクタビアヌスを養子にした理由の一つだったともいわれている。カエサルが持っていなかったものを持っていたこの少年に対するあこがれを物語っていたのであろう。  
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2007年11月17日

「あし(葦)」はなぜ「よし」というのか

 「人間は風にそよぐ葦である。しかも考える葦である」こういったのはパスカルでした。

 葦はイネ科の多年生草で川辺に生えるススキによく似た植物です。ところがこれは「ヨシ」ともいいます。「ヨシの随から天のぞく」は「見識が狭いこと」をいいますがあれです。
 辞書を引くと「ヨシ」は「アシ(葦)」の忌み言葉と書かれています。「あし」が「悪い」の「あし」に通ずるとしてこれを嫌いあえて正反対の言葉を使っているのです。

 こういう忌み言葉って結構ありますね。
「するめ」のことを「あたりめ」、「すりこぎ、すりばち」のことを「あたりばち、あたりこぎ」といって「する」という「忌み言葉」をさけて「あたる」をよく使います。ばくちの「する」は「損をする」ということできらっていました。
 そういえばわたしが印刷工だった時に、「紙を刷る」というのを嫌い「紙を通す」とか「紙に当たる」とか言いかえていました。

 結婚式の時に「切る」とか「分かれる」とか「終わる」という言葉を禁句としていたから、「お開きにする」とか「ケーキの入刀」とか言いかえています。

 また受験生には「落ちる」とか「滑る」とかいうことばは禁句でした。

 まだまだありそうです。気がついたら教えてください。
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2007年11月14日

映画「マリア」12月ロードショウ

 同僚の先生が映画館で12月に全国で上映される映画「マリア」の予告編をみたと言っていました。

 さっそく検索して調べてみました。


mary1 公式ページには「世界でもっとも美しい愛の物語」「すべての始まりがここにある これはキリスト誕生までの物語」とあります。


 どうやら、マリアへの「お告げ」からベトレヘムでの誕生までのマリアとヨゼフの物語のようです。
 内容についてはここに紹介されています。

 まだあまり話題にはなっていないようですが、興味のある映画です。あまり映画には詳しい方ではないので、マリアやヨセフを演じる俳優も知らないのですが、興味をそそられました、公開を楽しみにしています。

 ちょっと気になるのは、この映画のキャンペーンを大々的にしているのが「いのちのことば社」であることです。プロテスタントはあまりマリアを描かないとおもっていたのですが、これに関する限りそうでもないようです。


mary2 ノベライズ版の小説もありました。注文して見ようかと思っています。
「ストーリー オブ マリア」アンジェラ・ハント 訳:内田みずえ
書籍 四六判 / 336 頁 1575 円(税込)
発行:フォレストブックス

 
 
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2007年11月13日

琉球朝顔(オーシャンブルー)の今日昨日


琉球朝顔3 わがやの琉球朝顔(オーシャンブルー)はますます盛んに1日に50以上の花をつけています。

 夏だとこの花は朝、濃い青紫の花が咲き、夕方になるとピンクになって花をすぼめるのですが、最近咲いているものは、朝からピンクの色の花が多くなってきたようです。

 いつ頃まで花をつけているのでしょうか?

 そして、この花は宿根草なので、冬になっても枯れずに残ります。来年はどのくらい花をつけるのでしょうか? ちょっと楽しみです。
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「先生、おんなっぽ〜い」という生徒と先生の会話から

 今日放課後、廊下で生徒と先生の会話が聞こえてきました。

「先生、今日はおんなっぽ〜い」
「女の先生が女っぽくしていたらいけないわけ」

 どうやら、体育の女の先生と生徒とのやりとりです。体育の先生だから、いつもはジャージ姿ですし、どちらかというと男っぽいカッコしているあの先生のようです。

 壁を隔ててその会話を聞いてしまった社会科の男の先生と女の先生、それにわたしもこのやりとりを聞いていて、おもわず、その「おんなっぽい」カッコをしているその先生を見に部屋から廊下に出て行ってしまいました。
 そして、おもわず「お〜」と納得してしまいました。
 確かに生徒のいうとおり、どことなく「おんなっぽ〜い」スタイルです。それがよく似合っているんです。

 この先生と生徒のやりとりも、ここはやはり女子校だと思わせるものだし、またそれを聞いてわざわざ見に行く私たちもまた私たちなのかもしれません。

 そういえば、こんなこともありました。
 同僚の若い男の先生が、とつぜん白衣を着だしたのです。チョークの粉でスーツが汚れるからといっていますが、にあうの、にあわないのって、もう大変。授業にいくとそのことでもちきり。廊下ですれ違っても生徒たちの質問攻めにあって、ヘキエキぎみのようです。
 「すぐなれるよ」っていっていますが……………。

 まさに女子校だなって、思ってしまう毎日です。
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2007年11月12日

フランクリン「貧しいリチャードの暦」

 ベンジャミン・フランクリンという人は実に人生をエンジョイして生きた人だと思う。彼の生き方も good News の宝庫だと思う。

 彼は1733年にリチャード・ソンダースという名前で、はじめてカレンダーを出版した。以後25年間出していたが、そのカレンダーは一般に「貧しいリチャードの暦」といわれていた。わたしはそれを面白くてかつ役に立つものにしようとして一生懸命につくったので、次第に需要が増え、年々1万部近くも売れるようになり、ずいぶん儲かった。
 これが、この地方の周囲で暦のない所がないくらい普及していき、みんなに読まれるようになったのを見て、わたしは、暦はほかの本をほとんど買わない一般の人にも、教訓を与えるのにちょうどよい手段となると考え、暦の中の特殊な日と日との間にできる小さな余白をことわざのような文章で埋めた。その文章は主に富を売る手段として、勤勉と節約を説き、そうすることによって徳も身に付くようになるのだ、と説いた。というのは一例として「空の袋はまっすぐには立ちにくい」ということわざも使われているように、貧乏な人間ほど常に正直に暮らすのは難しいのである。
  「フランクリン自伝」鶴見俊輔役 旺文社文庫



Frankulin つまり、格言入りのカレンダーを一番最初につくったのはフランクリンの発明だというのである。
 その格言にどんなものが載っていたか、英語訳をつけながら紹介しよう。

『貧しいリチャードの暦』から
From "poor Richard's Almanac", 1733~1758

人とメロンは中味がわからぬ。
Men and melons are hard to know.

見くびってもよい敵はない。
There is no little enemy.

恋愛のない結婚があるところに、結婚のない恋愛もあるだろう。
Where there's marriage without love, there will be love without marriage.

金持ちがつつましく暮らす必要がないように、つつましく暮らせるものは金持ちになる必要がない。
He that is rich need not live sparingly need not be rich.

彼は富を所有しているのではなく、富が彼を所有しているのである。
He does not possess wealth,it possess him.

3人の間の秘密は、そのうち2人が死んで初めて守れる。
There may keep a secret, if two of them are dead.

結婚前には目を大きく開けよ。結婚したら、半分閉じよ。
keep your eyes wide open before marriage, half shut afterwards.

貧乏だったことは恥ではない。しかし、これを恥じることは恥である。
Having been poor is no shame, but being shamed of it is.

とこんなところがあげられる。「時は金なり」といったのもフランクリンではないか。すべてがフランクリンの創作というわけではないが、古いことわざにヒントを得たばあいにも、彼の工夫が加わっているという。
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2007年11月07日

人間到るところ青山あり

 この言葉はどこかで聞いたことがある人が多いのではないかと思います。いい言葉です。
 ちなみに「青山」とは「木の青々と茂った山(で自分の墓を作るところ」(新明解)「樹木の青々と茂ったところ」と「骨を埋めるところ。墳墓の地」(広辞苑)とありました。広辞苑には蘇軾詩の「是処青山可埋骨」を出典として紹介しています。

 「人間」は「にんげん」ではなく「人間の住む世界」を意味しているので「じんかん」と読むのだそうです。人間はどこで死んでも、骨を埋める場所ぐらいはあるということ。大望を達するため、郷里を出て大いに活動すべきであるということがこの言葉の意味でしょう。
 人間の世界にはどこに行ってもその場が骨を埋める価値のある青山があるものだと私は解釈します。

 この言葉の出典は、漢籍にあるのではなく日本人のつくった漢詩にあります。作者は幕末の尊王攘夷派の僧月性です。1817〜58。字は知円。号清狂。周防の妙円寺の住職。仏道、詩文を学び、京都、江戸に出て吉田松陰、梅田雲浜ら多くの志士とまじわる。海防を論じ、尊王攘夷論を主張。

「男児立志出郷関」の詩のなかにこの一句があります。

將東遊題壁
              釋月性

男兒立志出郷關,
學若無成不復還。
埋骨何期墳墓地,
人間到處有�山。

将(まさ)に東遊せんとして 壁に題す
           
男児 志を立てて 郷関を出(い)づ
学 若(も)し成る無くんば 復(ま)た還(かへ)らず
骨を埋むる 何ぞ期せん 墳墓の地
人間(じんかん) 到る処 青山(せいざん)有り。


 「月性」という名を聞いて思い当たる人もいるかもしれません。しかし、西郷隆盛と入水し、隆盛は助かるのですが、死んでしまったひと「月照」は別人です。月照も月性もともに幕末の尊王攘夷派の僧で、西郷隆盛は友人でありました。

 ちなみに僧「月照」は、幕末の勤王僧忍向の字。1854年大老井伊直弼が勅許を得ないままに日米修好条約の締結に対し、朝廷より水戸藩に密勅が下り、忍向らは諸藩に伝達した。これを機に京都を中心に各地の反幕運動が激化して、忍向は西郷隆盛と京都を脱出し、薩摩藩主島津斉彬をたよって大阪より船出をする。しかし、藩主既になく、幕府の追求きびしく、一夜隆盛らと月下船上に小宴をはり、歌を詠じ、相擁し、錦江湾に入水す。隆盛は命をとどめるが、忍向は寂した。ときに安政5年11月16日。年46歳。

ついでに僧月照の辞世の歌。
「大君のためには何か惜しからむ薩摩の瀬戸に身を沈むとも」
「曇りなき心の月の薩摩潟沖の浪間にやがて入りぬる」

絶望して身投げをしてしまうひとが「人間到るところ青山あり」と歌うのは矛盾していると思うのですね。
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2007年11月05日

カメムシ・ハットウジ・ジョウサン

 妻の姪の結婚式のために、妻の実家に帰りました。そこで聴いた話です。

 今年はなぜかカメムシが大発生したのだそうで、障子や白いカーテンにカメムシの姿が多数見られました。
 カメムシといえば、興奮するといやな匂いを発生する六角形のあれです。
 
 このあたりの人はカメムシのことをハットウジ、とかジョウサンとか呼んでいます。この出雲地方独特の呼び名であるようです。ウェブ上にはこの名前の呼び方の方言地図がありました。

 妻の弟君は、子どのときに、このハットウジをビンに入れて、ふってあのいやな匂いを発生させ、ハットウジがどうなるかを実験したのだそうです。別にどうにもならなかったそうですが……………。弟君は、あの匂いで自分が中毒死するのではないかと思って実験したとか。

 また「ジョウサン、ジョウサン」といいながらつまむと匂いを出さないともいわれています。

 全国的にもこのムシはいろいろな名前を持っているムシのようです。嫌われものは名前をたくさん持っていることのようです。
posted by mrgoodnews at 23:39| Comment(0) | 植物・鳥・小動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

稲田姫神社 稲田姫生誕の地奥出雲町稲田

 前のページに八重垣神社と櫛名田比売の話しを書きました。この話しにはつづきがあります。

 古事記では櫛名田比売ですが、日本書紀では奇稲田姫と書かれています。
 この稲田姫誕生の地が、実は妻の実家の奥出雲町(旧町名横田町)稲田だと伝わっています。ここには稲田姫をまつってある稲田姫神社があります。


産湯の池 稲田姫の両親はアシナヅチ・テナヅチといい、8人の娘がいました。ところが娘たちはつぎつぎにヤマタノオロチに食われてしまい、一番下の稲田姫だけがスサノオに救われました。
 その稲田姫の母親のテナヅチがこの地を訪れたときに、急に産気づいて稲田姫を生んだのです。

笹の宮 近くには生まれた稚児を産湯に使わせた「産湯の池(稚児が池)」があり、またあかんぼうの「へその緒」切るために近くにあった竹をつかったといわれ、その竹藪には「笹の宮」という名が付けられています。
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八雲立つ出雲八重垣………

 姪の結婚式のために妻の実家の奥出雲町に行きました。
 結婚式場は松江の「グランラセーレ八重垣」とかいうところでした。すぐ隣が八重垣神社だったので、そこにも行ってみました。

 八重垣と聞いて、つぎの歌を思い出す人も多いでしょう。
 
 八雲立つ 出雲八重垣 
     妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を


八重垣 この歌は最初につくられた和歌として国語の教科書にも載っています。スサノオノミコト(須佐之男命)の作として古事記に紹介されている歌です。
 この歌の作られたところがこの八重垣神社でした。

 高天原から追放されたスサノオノミコトは、この地でヤマタノオロチと戦ったときに、櫛名田比売(くしなだひめ)を守るために、八重垣をつくり姫をその中に囲ったところがこの八重垣神社であると書かれていました。
 近くには、櫛名田比売が姿や顔を映していたという「鏡の池」もありました。


夫婦椿1 だからこの神社は、縁結びの神であり、夫婦和合の神をまつった神社でした。境内には夫婦椿が植えられていました。これは根元が二つあって、それが途中で一本の木になっているというものでした。連理の枝というわけです。




夫婦椿2その夫婦椿が3本もあったのです。









夫婦椿3
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