2008年01月29日

左投げに変身とまではいかないが、左投げ(サウスポー)に挑戦中!

 高校時代にこんなことがあった。

 あのころ、休み時間になると外でテニスボールを使ったキャッチボールがはやっていた。フォークボールやらナックルボールやらの変化球を投げることを競いあっていた。
 なかなかマスターできなかったのが浮くボール、いまでいえばライズボールである。それを投げられるようになったのが何人かいたが、私にはできなかった。
 そのかわり、私はある落ちるボールの投げ方を開発して得意になっていた。

 あのころ南海ホークス(今のソフトバンク・ホークス)に杉浦という下手投げの美しいフォームのピッチャーがいて、みなでそれをまねして下手投げにチャレンジしていた。

 なかにI少年がいた。
 彼は「右利き」だったのだが、夏休みを過ぎてなんと「左投げ」それも「左下手投げ(アンダースロー)」をマスターしていたのである。
 左の下手投げ(アンダースロー)はプロのピッチャーでも少なくて、私の知る限りでは中日に中山というピッチャーがいたくらいである。
 夏休み中に、どれくらいそしてどんな練習をしたのか、彼は多くを語らなかったが、それがどのくらい大変なことかは私たちはわかっていた。それを彼は夏休みという短期間でやってのけたのである。
 一挙に彼に対する尊敬の念をいだくようになって、彼の株が急騰した。
 こんなことでみなの注目を浴びることができるんだと私は思った。

 私は現在ソフトボール部の顧問をしているので、部員の生徒相手にキャッチボールをすることも多い。右利きなのでふだんはもちろん右投げであるが、壁を相手に左投げの練習をするようになって5年くらいたった。
 スピードも飛距離もコントロールも右投げにはまだまだ及ばないが、それでも少しは投げられるようになった。
 少しずつでも続けてやり続ければできないことではないということを部員生徒に示したかったのだが、あいにく期待に反して生徒からの尊敬を集めるには至っていない。これくらいではまだ注目には値しないと思っているのであろうか。

 中1の新入部員で初めてバットを握る生徒には「左打ちのバッター」になることをすすめているので、右投げ左打ちの選手は少なくないが、右利きで左投げをするのはめったにいない。

 
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2008年01月25日

冬の樹木の樹形の美しさ

 冬の落葉樹は葉が落ちて樹木が裸になります。その時になって気づくことは鳥の巣ですね。こんな所に鳥の巣がかかっていると気づくのです。ホントは鳥の巣の形状からその鳥がなんであるかをわかるようになりたいと思って今度研究してみることにしましょう。

 裸になった落葉樹でもよくみると樹形がそれぞれに違っていて、結構面白いと思うようになりました。20年以上おなじ所を歩き続けるとこの木が何の木であるのかがわかってきます。
 そんな私にとても参考になる本がありました。「冬の樹木」(村田源監修 平野弘二著 保育社刊)です。
 この本は冬の落葉樹を検索するための本です。これによると「冬の樹木」を検索する手がかりは3つあるそうです。一つは樹木の芽、そして幹の木肌、さらに樹形なのだそうです。

 今回は先ず「樹形」というところからアプローチしてみましょう。


ケヤキ 樹形の美しい木といえばまず「ケヤキ」があります。これはわかりやすいですね。何が特徴かといえばとても表現しにくいのですが、枝の先がとても細くなっていることも特徴の一つではないかと思います。




メタセコイヤ メタセコイヤも樹形の美しい木です。これはカラ松と並んで落葉針葉樹です。この針葉はある日一斉に落葉するので、その木の下が落葉だらけになります。この木も成長が早く巨木になります。たぶん世界で一番の巨木はこの木ではなかったか。「生きた化石」ともいわれています。





カラスザンショウ 次に出てくるのが「カラスザンショウ」これは逆に枝の先がとても太いのです。これは木肌に特徴があるのでわかりやすい木でもあります。日当たりのよいところに育ちます。真鶴半島に理科の野外実習にいったときに、スダジイや楠の巨木の自然林で木が倒れたりして日当たりがよくなるとこの木が生え出すという説明がありました。


アオギリ 「アオギリ」も木肌が緑なのでよくわかります。これも樹形に特徴があります。言葉で説明するよりも写真を見た方がわかりやすい。この木も成長の早い強い木です。私の家でも毎年大きな葉が落葉したあとに必ず選定をします。そうしないとどんどん伸びて葉を茂らせてしまう。





カキ 「カキ」の木は木肌からもわかりますが、樹形からもわかりやすい木です。実が落ちたあとのヘタが残っていたりします。この木はけっして登ってはいけないとよくいわれました。折れやすいのですね。




モミジ 学校の中庭にこんな木があります。奥のほうの木は「カエデ」の仲間だそうです。幹が赤くなってとてもきれいです。
 手前のほうは「トサミズキ」です。種の付いた実がなかなか落ちないのでよくわかります。



カシワ 逆に葉っぱは枯れているのにいつまでも落葉しない木もあります。「カシワ」です。「柏餅」にするあれです。いつまでも葉が落ちないところから、その生命力にあこがれて「柏餅」にするのだという話を聞いたことがあります。ただし「柏」という字の木は中国では別な木を示しているのだそうです。

 まだいろいろと樹形に特徴のある木がありますが、今日はこのくらいにしておきましょう。
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「困っている人がいたら助けてあげてください」という言葉のかっこよさ

 今日、学校から帰る途中、門のところで一人の生徒が困っているらしいところに出くわした。彼女は自転車通学なのだが、その自転車のチェーンがはずれてしまったという。
 「そういえば子どものときにそんなことがあったっけ」とおもいだしながら「ど〜れ、なおしてみよう」と試みた。何度か試しているうちにチェーンはうまくはまり、自転車は動くようになった。その生徒の喜んだ顔が忘れられない。
 人が困っているときに助けられたということはとても大きな喜びであるということを改めて実感したのである。

 私がコンピューター教室の管理をしていたころ、生徒が「コンピューターが動かなくなっちゃったのですけれど」とよく助けを求めてやってきた。私は喜々としてコンピューターの前に行き「ああ、これはこうすればいいんだよ」と生徒の前で即座に治してあげられたときのかっこよさ、わたしの教員生活のなかでもっとも得意になったときであった。
 自分が必要とされていること、役に立っていることを実感できることはいきがいとつながるものである。

 もう25年近く前、まだ教員になる前のことだった。その日私は次の日に廃車にする車を運転していた。それでガソリンをケチっていたら、案の定途中でガス欠になり、有料道路の出口をすぎたところの道路のまん中で止まってしまった。かなり車の通りの激しい幹線道路だったので、大変危険なところであり、途方に暮れてしまった。
 近くのガソリンスタンドへ行って、ガソリンを少し買ってくるしかないと思っていたら、あるトラックに乗っていた青年が「どうしたんすか?」と止まってくれた。
「いあや、ガス欠で立ち往生です。実はあした廃車にしようと思っていたので、ガソリンをケチっていたらこの始末です。おはずかしい。」
「そりゃ、お困りでしょう。ロープで近くのスタンドまで引っ張ってあげますから、車に結んでください」といって車を近くのスタンドまで引っ張っていってくれたのである。
「ほんとに助かりました。どんなにお礼をしたらいいか。ほんのお礼のつもりです。受け取ってください」といって幾ばくかのお金を出して渡そうとした。
 するとその青年「いやあ、いいっすよ。そんなことよりももし同じように誰か困っている人がいたら、助けてあげてください」と実にさわやかに言って、その場を立ち去っていった。その言葉のかっこよかったこと。私も「このかっこいい言葉を誰かに言ってやるぞ」とこころにきめ、牽引用のロープをいつも車に積んでおくことにしたのである。

 程なくしてそのチャンスがやってきた。若いカップルが車の前で困りはてて助けを求めているのを見つけた。パンクらしい。
 さっそく下りて、わたしもあのことばをはいた。
「どうしたんすか?」
「タイヤがパンクしてしまって」
「タイヤ交換くらい自分でできなくっちゃ。スペアタイヤはありますよね」
「さあ」となんとも頼りない声。
 私がその車のトランクを開けて探したら、スペアタイヤは見つかった。まだま新しい車である。
「じゃ私が交換してあげるから、よく見ていてくださいよ。今度は自分でできるようになってくださいね」
と、自分の車からジャッキを出して車を持ち上げてともかく交換できた。
「ありがとうございました。今度から自分でなおします。お礼としては何ですが、せめてこれを受け取ってください」と出してくれたのがミカン数個。
「え、ミカンかよ」思ったが、これをことわる理由がすぐに思い浮かばず、受け取ってしまったら、あの言葉を言い出せなかった。
 ホントはあのカッコイイ青年のように「いいっすよ。そんなことより今度パンクして困っている人がいたら、助けてあげてくださいね」と言いたかったのだが、ミカンじゃことわるわけにもいかず、言いそびれてしまった。残念!

 あれから何度かこういうケースで人を助けたことがあり、あの言葉を言うチャンスがあったのでそれはいいのだが、あの青年のようにカッコよくはいかなかった。

 助けようとして助けられなかったこともある。その時の情けなさ、ふがいなさも忘れられない。
 

 

 
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2008年01月24日

鵺(ヌエ)という異名を持つ鳥「トラツグミ」

 学校の図書館の窓に激突して死んでしまった鳥があったということで、調べたらトラツグミという鳥だった。かわいそうに。

 この鳥は胸に黄色と黒の模様を持っているのでこの名が付けられたようだ。主に広葉樹林の雑木林に住み、落ち葉をかき分けてミミズなどを好んで食べている。

 夜行性の鳥なんだそうで夜になると、口笛を吹いたような細い声で鳴くため鵺(ぬえ)または鵺鳥(ぬえどり)とも呼ばれ、気味悪がられることがあった。「鵺鳥の」は「うらなけ」「片恋づま」「のどよふ」という悲しげな言葉の枕詞となっている。トラツグミの声で鳴くとされた架空の動物はその名を奪って鵺と呼ばれ今ではそちらの方が有名となってしまった。

 「ヌエ」といえば平家物語の源頼政の「ヌエ退治」を思い出すだろう。近衛天皇の世、東三条の方より夜な夜な一陣の黒雲とともに怪物がやってきて寝所の天皇を悩ませた。そこで、頼政に退治させたところ、頭はサル、体はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラのような怪物でその声はヌエのようだったという。
 物語に登場する怪物には名前がないのだが、声がヌエのようだったということから怪物イコールヌエと思っている人が多いのです。また、この怪物のように正体のわからないものを「ヌエ的存在」などということもある。ヌエという言葉がいかにも怪物らしい響きを持っているためであろう。

 ここに写真と鳴き声があります。
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2008年01月22日

キリスト教一致祈祷週間のこと

 1月18日から25日までカトリック教会では「キリスト教一致祈祷週間」と定めて、教派を越えた合同祈祷集会が各地で行われております。私の教会でもこの間には特別な祈りが行われ、また20日には近くのプロテスタントの教会と合同祈祷集会が行われました。この合同祈祷集会はもう30年近く行われております。

 この運動は今から100年前の1908年に、聖公会の司祭であり、アトンメント会の共同創立者であったポール・ワトソン神父が、ニューヨーク州のグレイムアで始めた「キリスト教一致のための8日間の祈り」が起源となっております。
 実は私の教会はこのアトンメント会の本部修道院がある教会なので、この運動には強い関心をもっております。

 ポール・ワトソン神父は、教会典礼暦の「ペトロ使徒座の祝日」だった1月18日から「パウロの回心の祝日」である25日までを祈祷週間と位置づけました。
 最初は、「キリスト教一致」とは諸教会がローマ・カトリック教会に復帰することだと考えられていたようです。
 1930年代にフランス、リヨンの大修道院長であったポール・クトゥリール神父は、新しい方向付けを与え、名称を「普遍的なキリスト教一致祈祷集会」と改め、「キリストが望まれた仕方で」教会一致のために祈ることを促進しました。
 またアメリカ合衆国聖公会では1915年に「信仰と職制委員会によって「キリスト教一致祈祷の手引き」が刊行されております。

 カトリック教会では第2バチカン公会議において、エキュメニズムを推進すべく「エキュメニズムに関する教令」が採択され、2004年には「聖公会信仰と職制委員会」と「教皇庁キリスト教一致推進評議会」による合同の祈祷週間のパンフレットが作成されるようになり、現在に至っております。

 私の教会で行われる「合同祈祷会」はいつもなかなかいい集いとなっています。今年は残念ながら参加できなかったのですが……………。


 
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2008年01月18日

フランシスコの「平和の祈り」について

 私の学校ではいま「歌集」の改訂をしています。
 その「歌集」に載っているフランシスコの「平和の祈り」が問題となっています。この祈りはもっともすぐれた祈りの言葉として最近教会でも良く唱えられるようになりました。しかし、これにはいろいろな訳があるので、果たして今うちの学校で使っているものが一番いいものかどうかが問題となっているのです。

 うちの学校で唱えられている「平和の祈り」は次のようなものです。私の教会でもこの祈りが唱えられています。

神よ、わたしを、
あなたの平和のために用いてください。
憎しみのあるところに、愛を
争いのあるところに、和解を、
分裂のあるところに、一致を、
疑いのあるところに、真実を、
絶望のあるところに、希望を、
悲しみのあるところに、よろこびを、
暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、
助け、導いてください。

神よ、わたしに、
慰められることよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されることよりも、愛することを望ませてください。

わたしたちは、
与えることによって、与えられ、
すすんでゆるすことによって、ゆるされ、
人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。


英語では次のような文が一番多いようです。

LORD,
make me an instrument of Your peace.
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
and where there is sadness, joy.

O DIVINE MASTER,
grant that I may not so much seek to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love;
for it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that we are born to eternal life.

こんな訳もあります。

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することをわたしが求めますように 
わたしたちは与えるから受け 
ゆるすからゆるされ 
自分を捨てて死に 
永遠のいのちをいただくのですから



問題となっていることは

1.最初の部分の「平和の道具(instrument)」「平和の器」と訳されているこの言葉を生かすべきかどうかですね。
2.「争い→和解」とするか「いさかい→ゆるし」とするか 英語では「injury → pardon」です。
3.「疑い→真実」とするか「疑惑→信仰」とするか 英語では「doubt → faith 」です。
4.一番の問題は最後の部分です。
 英語では it is in dying that we are born to eternal life
 日本語では「人のために死ぬことによって永遠の命を得る」とあるものや「自分を捨てて死に永遠のいのちをいただく」とあるものもあります。
 この二つには、それぞれの解釈がふくまれています。
 英語文は「死において永遠のいのちに生まれる」だけです。
 わたしはこの部分はもっともシンプルにしていろいろな解釈があり得るようにするのがもっともいいのではないかと思います。
5.「与えることによって与えられ、ゆるすことによってゆるされ……………。」とすると与えること、ゆるすことが与えられること、ゆるすことの条件になってしまいかねない。むしろ「ゆるすことのうちにゆるされ、与えることのうちにあたえられ、死ぬことのうちに永遠のいのちに生きる」としたほうが英語の「in giving」「in pardoning 」「in dying 」の表現には忠実なような気もします。

 この祈りはフランシスコ自身の作った祈りではないとされています。しかしフランシスコの精神と生き方を実によく表現しているということで20世紀になってひろまったもののようです。あるところには次のように記載されていました。

 この詩は、1913年に、フランスのノルマンディー地方で、「信心会」の年報『平和の聖母』(1913年1月、第95号)に掲載された。さらに、 1916年1月、バチカン発行の『オッセルヴァトレ・ロマーノ』紙で公認された。そして、第一次世界大戦の中、人々に広まっていった。
 第二次世界大戦が終わった1945年10月、サンフランシスコで開かれた国連のある会議の場で、アメリカ上院議員トム・コナリーがこの「平和の祈り」を読み上げたという。それ以降、この詩が広く知れ渡るようになったらしい。

 皆さんはどの祈りがいいと思いますか?
 多少の訳の違いがあり、こめられた意味の違いもあったけれど、それでもこの祈りは「究極の祈り」といってもいいように思います。
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2008年01月17日

ゴーン道場から「企業文化の違い」から

 わたしは昭和63年製の日産パルサーという車を使っています。今年で20年にもなります。もっとも車は大きな荷物を運ぶとき以外は一人では乗らないという主義なのでまだ7万キロしか走っていません。そのせいかとても元気です。まだまだ乗ろうと思っています。
 日産のセールスには日産が燃料電池車かハイブリッド車を出したら考えてもいいと言っています。日産以外の車たとえばトヨタの車は買うつもりはまったくありません。

 朝日新聞の「be on Sunday」には、その日産のカルロス・ゴーン社長の「ゴーン道場」なる連載記事があります。これがなかなかおもしろい。

 1月12日の「ゴーン道場」には「日産とルノーの企業文化」のちがいについて次のように述べられていました。

 日本は世界で1.2を争う「プロセス重視(process-oriented)」の社会ですね。これは製造業やエンジニアリングの分野では大きな強みです。技術、製造、物流、すべてプロセスが要ですから。しかし、逆にプロセスをそれほど重視しない分野、たとえば非製造業では効率が低くなることがある。外国人ならだれでも銀行口座を開くのに膨大な書類を書かされ、うんざりした経験があると思います。強みは同時に弱みにもなる。

 日産とルノーの協議が始まって、エンジニアが一緒に働くようになると、多少の遠慮や行き違いが見受けられました。フランス人はコンセプトや戦略を重視します、それをどう具体的に運営していくかは二の次です。
 一方、日本人は抽象的なコンセプトより、実際に何をどう進めるかというプロセスを重視します。だからお互いに「どうなっているんだ」と思うわけですね。
 これは裏を返すと、自分の弱い部分を相手の強い部分で補ってもらえるということなんです。フランス人は日本人の同僚からプロセスと実践のための手法を学ぶことでコンセプトを現実の計画に反映させることができる。日本人はコンセプトや戦略を学ぶことで、仕事の幅を広げることができる。「考え方が違う」と割り切ったり、ちがいを批判するのではなく、何を学べるかを見るべきなんです。ルノーと日産が互いにとって最良の提携相手だと言えるのは、違いから学ぶものがそれだけ大きいからなんです。


 なるほど、なるほどと読んでいて感心しました。確かにそうなのかもしれません。
 こういう世界的な規模で人員の適正配置をできるというのは多国籍企業の強みなのでしょう。
 多国籍企業だけでなく、じつはカトリック教会もそれができるし、現にそれを実践しているのです。とくにイエズス会は心憎いほどそれをみごとに実践している世界的規模の国を超えた組織だと思っています。
 イエズス会の世界戦略についてはいずれまた言及することにしましょう。

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2008年01月16日

フロリダ州「セレブレーション」というディズニー社がつくった町

 2007年12月23日の毎日新聞「余録」にアメリカフロリダ州の「セレブレーション」という町についての紹介が載っていた。ここをたずねてみたくなった。

 セレブレーション(祝賀)。まるで1年中クリスマスを祝っているような名前の町が米フロリダ州にある。できてからまだ11年で人口1万人弱。半分は自然保護区域で近くにディズニー・ワールドがある。ディズニー社が作った住宅地なのだ。
 町の案内には「自分自身という感覚をもてるコミュニティ」とある。個人が砂のようにばらばらになる大都会に対抗し、中流階級が安心して住める古き良き町をめざしたらしい。
 町を歩いた文化人類学者・渡辺靖さんによると。交通信号がなく、道幅は狭く、昔ながらのポーチが軒先にある。ここをモデルにして建設された町は全米で100を越える。「ノスタルジアがコミュニティを作りあげるほどに力を持ちうるのは、速すぎる社会変動に対する反動だろうか」(「アメリカン・コミュニティ」新潮社)


 「余録」子はこのあと大統領選の幕開けであるアイオワ州の党員集会についての話に発展させている。

 文中の「自分自身という感覚をもてるコミュニティ」という表現が気になる。これはどういうことなのだろうか?

 いろいろと調べてみると、この町はシニアタウンなのである。町には公園がたくさんあり、散歩用の小径があり、道行く人たちが立ち話ができるように工夫されている。車を使わずに暮らせる町作りなのである。
 また1戸あたりの面積は狭く隣家と隣接して立てられているという。窓越し、垣根越しに対話ができる距離なのだ。

 ディズニー社とシニアというのは、なじみのないような関係に見えるがどっこいそうではない。となりのディズニー・ワールドに来るついでにおじいちゃんやおばあちゃんをを訪ねる孫たちをねらっているらしい。実に心憎い戦略である。
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2008年01月14日

矢祭町「もったいない文庫」

 以前「本の古里 福島県只見町 たもかく」の紹介をしたことがある。全国から「古本」の寄贈を呼びかけ、それを社有の山林と交換するというユニークな活動である。

 そうしたらそれと似たような活動があった。福島県矢祭町である。この町は2006年7月から全国に本の寄贈を呼びかけたところ、その1年間に43万冊を集め「もったいない文庫」を2007年7月に開設した。
 さらに毎月第3日曜日を「読書の日」とさだめ、「読書の町宣言」を発した。
 今は本の寄贈は辞退しているが、かわりにこの町のホームページには、本の寄贈を呼びかけている全国の自治体などの紹介がある。

 この町はなかなか「自主独立の気概」を感じさせる町で、「合併しない宣言」を発したり、住民基本ネットへの接続を拒否するような町のようです。

 只見町も福島なので、いつかこことともにたずねてみたいと思っています。

 
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「成人の日に」谷川俊太郎

 1月14日の朝日新聞の社説に「成人の日に」(谷川俊太郎)が紹介されていた。社説では一部抜粋であったが、ここでは全文を紹介しよう。

成人の日に 谷川俊太郎


人間とは常に人間になりつつある存在だ/かつて教えられたその言葉が
しこりのように胸の奥に残っている
成人とは人に成ること もしそうなら
私たちはみな日々成人の日を生きている
完全な人間はどこにもいない
人間とは何かを知りつくしている者もいない
だからみな問いかけるのだ
人間とはいったい何かを
そしてみな答えているのだ その問いに
毎日のささやかな行動で
人は人を傷つける 人は人を慰める
人は人を怖れ 人は人を求める
子どもとおとなの区別がどこにあるのか
子どもは生まれでたそのときから小さなおとな
おとなは一生大きな子ども
どんな美しい記念の晴着も
どんな華やかなお祝いの花束も
それだけではきみをおとなにはしてくれない
他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ
でき上がったどんな権威にもしばられず
流れ動く多数の意見にまどわされず
とらわれぬ子どもの魂で
いまあるものを組み なおしつくりかえる
それこそがおとなの始まり
永遠に終らないおとなへの出発点
人間が人間になりつづけるための
苦しみと喜びの方法論だ


 この詩の出典は「魂のいちばんおいしいところ」(谷川俊太郎詩集 谷川俊太郎/著 サンリオ 1990.12p.92-94)です。
 後半の10行ぐらいがいいですね。とくに「他人のうちに自分とおなじ美しさをみとめ/自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ」というところが好きです。
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2008年01月13日

「学力」について

 最近の朝日新聞を読んでいたら、けっこう「学力」について書かれた記事が目についた。めぼしいものを拾ってみよう。

『「人間力」の育て方』堀田力さん 「著者に会いたい」「自分の力で生きる」を応援 朝日新聞1月6日)
「堀田さんの言う「人間力」とは「自分の頭で考え、自分で目標を実現できる力」のことだ。」
「高度成長期の社会なら、国をリードする一握りのエリートを育てる教育でよかったかもしれないが、今の日本のように少子化が進む成熟社会で、昔のような知識詰め込み教育は意味がなく、むしろ数少ない子どもたち一人一人の能力を引き出すことが教育に求められている。そのためには総合的学習の時間のような取り組みがもっと必要なのに」
「本書の巻末に掲載されている堀田さんの詩の一節を紹介したい。
 子どもたちが、自分の力で
 思いきり育っていくのを 手伝おう。
 邪魔をしないで 歪めないで
 彼らが 自分で考え 自分で感じ
 いろんな人を交わりながら
 学んでいくのを手伝おう
 私たちの未来のために
(集英社新書 714円)」


 私も同感である。「総合的な学習の時間」こそ「未来型学力の育成」に役立つ画期的な試みであると思う。

 ところでその「未来型学力」についてこんな文章があった。これも朝日の1月7日の社説である。

「日本が低迷を続ける国際学習到達度調査(PISA)は「未来型学力」のテストと呼ばれている。いま何を知っているかではなく将来何ができるかを測る―
 調査をしている経済協力開発機構(OECD)の事務総長は、日本にこんな警告を発した。「知識を再現する学習ばかり続けていると、労働市場に出たときに必要とされる力が身に付かない。」
「学力世界一といわれるフィンランド。福田誠治・都留文化大教授は、その教育の真髄を二つあげた。
 第一に、正解を先回りして教えない。
 理科の授業では、先ず実験だ。さまざまな現象を見させて、各自が仮説を立てる。自分とは違う意見にも耳を傾け、もう一度考えてみる。教師が理論を説明するのは一番最後だ。正解を先に教えるとその時点で思考が止まってしまう。
 次に他人と競わせないことだ。
 競争させると、順位に関心が向いて、考えることへの興味がそがれる。テストは各自がどこでつまずいているかを確認し、補うためのものだ。考える力がつくとともに学力格差が少ないのは、この二つの理念と実践が成果をあげているからだ。福田教授はそう指摘する。
 「競争をさせて順位をつけて、何かいいことがありますか」フィンランドセンターのヘイッキ・マキーバー所長は話す。「下の子はやる気をなくし、上の子は自分が優秀だと思いこむ。どちらの人生にとってもいい影響は与えないでしょう。」
「学力低下は、PISA調査で勉強への意欲が際だって低いことと分かちがたく結びついている。単なる知識の量で成績や入試の合否が決まってしまう、そんな貧しい教育の姿に学力危機の核心があるのではないだろうか。」
「社会に出たら、教室で習った公式では解けない問題ばかりである。正解がわからない問いと向き合う力をつけることこそが未来を拓く教育の役割であろう。」

 これもまったく同感である。作今の「学力低下論」のゆくすえと今度の学習指導要領の改訂がこの考えと逆行していることは明白である。

「教育とは学校で習ったことを全て忘れたあとに残るものをいう」アインシュタインの言葉だ。学校教育の「頼りがい」は常に問われてきた。教師は不本意だろうが、答の一つが教育産業の隆盛である。
(1月9日「天声人語」)


 この「天声人語」ではこのあと「杉並区の区立中学が、大手進学塾の講師を招いた夜間授業を計画した」というニュースに「まずはやってみなはれ」と述べ、「国の将来がかかる人づくりで、公と私とをことさら分断しても無益だ。官民の知恵を合わせ、教育現場にようやく顔を出した試行錯誤の芽である。どう伸びるか、全国がみている」と結んでいる。
 この「天声人語」が、アインシュタインを引用するところはいいのだが、その後の論旨は前の「社説」と異なった結論のような気がするのが気になるところだが……………。

 私は、学校の授業時間と学ぶ内容を増やし、教師がていねいに教えようとする「教育」が進めば進むほど、ほんとうの「学力」は低下すると思っている。堀田さんの言う「自分の頭で考える」力は、丁寧に教えれば教えるほど低下するというおおいなる逆説が成り立ってしまう。「教育」の量と「学力」は皮肉にも反比例するのである。
 教える側が懇切丁寧でわかりやすいプリントを作り、補習をし、予備校に通い、家庭教師をつけて、人から教わることが多くなればなるほど、「自分の頭で考える」学力は落ちるのが当たり前である。
 自分でノートを作り、わからないところは自分で考え自分で調べ、学習の方法を自分で考え、どうしてもわからないところだけを先生に質問する。そうであってこそ「自分の頭で考える」ことになる。
 その意味で「教育とは学校で習ったことを全て忘れたあとに残るものをいう」アインシュタインの述べていることはまったく正しい。
 ところで「学校で習ったことを全て忘れたあとに残るもの」とは何なのか? そこが問題である。その問題を据えなおして「教育の質」を考える必要がある。

 哲学者カントは「私から哲学を学ぶな。哲学することを学べ」と述べたことがその問題を解くヒントになるのではないか。教育とはまさに「学ぶことを学ぶ」助けをすることにほかならないとしたら、その「助け方」についてもっともっと考えなければならない。

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2008年01月08日

春の七草と七草がゆ

 今日は「七草がゆ」の日でした。昨日の教会の新年会に「七草がゆ」がでておいしくいただきました。

 ところで「春の七草」いえますか?

 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ、春の七草

 という歌がありました。

 そういえば前にこのブログで「七草あえ」という料理を紹介しました。じつは教会の新年会にこれも自分で作ってもっていったら、けっこう好評でした。

 秦野の農家に嫁いだ妹が、七草がゆの日には、玄関に七草をならべてそれを包丁で叩きながら次のようなおまじないを唱えていると教えてくれました。

ななくさなずな とうどのとりが
にほんのくにへ わたらぬさきに
まだ見ぬうちに
すととのとん♪


この歌の意味は調べてみると、こんなことが書いてありました。

「唐土の鳥が日本の土地へ、渡らぬ先に、なずな七草はやしてほとと」で、唐土の鳥は鬼車鳥、隠飛鳥などと呼ばれる凶鳥だそうです。農耕に悪さをするこの鳥が海を越えて日本へ渡ってくる前に、まな板になずなを載せ、それを包丁、すりこ木、菜箸などの台所用品で叩いて追い払い、五穀豊穣を祈る「鳥追い」の儀式で唱えるのが問題のはやし言葉だそうです。それが七草粥に結びついたのだろうと見られています。


 なかなか意味の深いうたというかおまじないというか。
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2008年01月05日

「花であり、月であり、」花王の元旦の新聞広告


花と月 元旦の新聞の全面広告にはときどきはっとするようなものがあります。これもそうでした。こういうコピーをつくりだすコピーライターに敬意を表します。

さあ、あたらしい、朝へ


移り変わる時代、流れゆく時の中で
私たちの暮らしも、一日として同じ日はありません。

時には、心を痛めることも
思い通りいかないことも、あるでしょう

それでも、どんなときでも。
私たちは、あたらしい朝を迎えます。

空を仰いで、すくっと立つ「花」のように。
うつりゆく日々に、凛としたまなざしをたたえる「月」のように

自分をたいせつに、育んでいくこと。
毎日をていねいに、つづっていくこと。
それこそが、「こころ豊かな暮らし」を
支える力になるのだと、私たちは信じています。

私たちはそばにいて、わかちあいたい。
たとえば、あなたが、その髪、その肌に触れるとき、
お日さまの光をたっぷり浴びた衣類につつまれるとき、
安らかなよろこびや、笑顔で満ちていくことを。

あなたというたった一人の存在が
背筋をすっと伸ばし、あたらしい朝にむかって歩き出す瞬間を。

そう、花であり、月であり、
――――あなたです。

 でもこれって詩というよりもやはり広告のコピーなのですね。なんでそう感じるかというと、「着物の下から鎧が見えてしまう」のです。「花と月」というと「花王」ですものね。
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2008年01月04日

「祈り」と「宿題」谷川俊太郎

 谷川俊太郎の詩集「二十億光年の孤独」のなかに「祈り」という詩がありました。いかにもこの人らしい詩だなって思いました。

祈り


一つの大きな主張が
無限の時の突端に始まり
今もそれが続いているのに
僕等は無数の提案をもって
その主張にむかおうとする
( ああ 傲慢すぎる ホモサピエンス 傲慢すぎる)

主張の解明のためにこそ
僕らは学んできたのではなかったのか
主張の歓喜のためにこそ
僕らは営んできたのではなかったのか

稚い僕の心に
( こわれかけた複雑な機械の鋲の一つ)
今は祈りのみが信じられる
( 宇宙の中の無限小から
  宇宙の中の無限大への)

人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりのまえに僕は祈ろう

( ところはすべて地球上の一点だし
  みんなはすべて人間のひとり)
さびしさをたえて僕は祈ろう

一つの大きな主張が
無限の突端に始まり
今もなお続いている

そして
一つの小さな祈りは
暗くて巨きな時の中に
かすかながらもしっかり燃え続けようと
今 炎をあげる


 特に「稚い僕の心に(こわれかけた複雑な機械の鋲の一つ)今は祈りのみが信じられる( 宇宙の中の無限小から宇宙の中の無限大への)」という部分もいいと思うし、「人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりのまえに僕は祈ろう」というところもとてもいい。
 クリスチャンの祈りとは違うものを感じます。「宇宙の中の無限大」というのが「神さま」なのかな?

 ついでにおなじ詩集の中につぎのような詩もありました。

宿題


目をつぶっていると
神様が見えた

うす目をあいたら
神様は見えなくなった

はっきりと目をあいて
神様は見えるか見えないか
それが宿題


 やはり祈りは目をつぶってしなければいけないのですね。でもなんで「宿題」なのかな? この宿題はいつまでにしなければいけないのだろうか?
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2008年01月02日

山村暮鳥という詩人の詩と信仰 その1

 私がこのブログで紹介しようとしながら、なかなか書き出せないテーマの一つが、山村暮鳥という詩人である。かれは詩人であるとともに、聖公会の伝道師であった。彼の詩とともに彼の生き方と信仰に興味をひかれるのである。

 まず暮鳥の詩をいくつか紹介しよう。彼の詩は国語の教科書にもよく紹介されるから、その名前はよく知られているだろう。
 彼の代表作は「風景 ー純銀もざいく」という詩である。こういう詩である。きっとどこかで読んだことがあるに違いない。

風景

純銀もざいく  


いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな


「いちめんのなのはな」という言葉の繰り返しの詩である。最初に読んだときには「なんだこの詩は」と思われるだろう。「いちめんのなのはな」という言葉のリフレインの間に第1節には「かすかなるむぎぶえ」第2節には「ひばりのおしゃべり」第3節には「やめるはひるのつき」という句がそれぞれはさまれている。
 さらに菜の花ならば「純金もざいく」とするべきではないか、なぜ彼はこの詩を「純銀モザイク」としたのであろうか?

此の世界のはじめもこんなであったか


うすむらさきのもやのはれゆく
海をみろ
此のすきとおった海の感覚
おお此の黎明
此の世界のはじめもこんなであったか
さざなみのうちよせるなぎさから
ひろびろとした海にむかって
一人のとしよった漁夫がその掌をあわせている
渚につけた千鳥のあしあともはっきりと
けさ海は静穏かである

 早朝の穏やかな海の日が昇る前のとき、「此のせかいのはじめもこんなであったか」と「天地創造」について思いめぐらす。それに向かって「一人の漁夫が手を合わせて祈っている」。
 この詩を読むと暮鳥はやはりクリスチャンなのだと思わせる。

友におくる詩


何も言うことはありません。
よく生きなさい。
つよく
つよく
そして働くことです。
石工が石を割るように
左官が壁を塗るように
それでいい
手や足を動かしなさい
しっかりと働きなさい
それが人間の美しさです
仕事はあなたにあなたの欲する一切のものをあたえましょう


 「人間が美しく生きることの原点は手や足を動かして働くことにある」という言葉に共感を覚えます。ところがこういうように働く美しさを人間は忘れつつあるのも現実である。
 平易でわかりやすい詩だが、その奥に秘められている意味は奥深い。

 暮鳥の詩は晩年になるほど。平易で短くなり、ひらがなで書かれたものが多くなる。

 わたしは高校時代からこの詩人の詩が好きだった。山村暮鳥詩集という文庫本をよく読んでいた。特に好きだったのは次の「沼」という詩だった。



やまのうへにふるきぬまあり、
ぬまはいのれるひとのすがた、
そのみづのしづかなる
そのみづにうつれるそらの
くもは、かなしや、
みづとりのそよふくかぜにおどろき、
ほと、しづみぬるみづのそこ、
そらのくもこそゆらめける。
あはれ、いりひのかがやかに
みづとりは
かく、うきつしづみつ、
こころのごときぬまなれば
さみしきはなもにほふなれ。

やまのうへにふるきぬまあり
そのみづのまぼろし、
ただ、ひとつなるみづとり。

 しかし、暮鳥という詩人がより好きになったのは実は今から10年ほど前にこの文庫本に載っていない一つの長編詩に出会ったときからであった。その詩は「荘厳なる苦悩者の頌栄」という題の詩であった。
 この詩については改めて紹介したい。  
posted by mrgoodnews at 22:43| Comment(2) | 詩、歌、祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「民俗学とはどういう学問か」柳田国男

 佐野眞一著「だから、僕は書く。」(平凡社刊)を読んでいたら、こんなことばが紹介されていた。彼はこのことばを「非常に構えの大きな言葉」と評していた。

 民俗学とは「かつてこの国土に生まれたもの、現にこの国土に生活しているもの、さらに将来この国土に生まれるもののための学問である」
 つまり、もうすでにいない人、いま生きている人、まだいないけれども将来生まれる人、簡単に言えば、過去と現在と未来にわたる学問が民俗学だというのである。……。それぐらいの大きなスタンスでこの学問をやるんだという、ある種、非常に情熱的というか、希望に満ちた言葉だというんです。


 この言葉の紹介の前に著者はもうひとつの言葉も紹介していました。こちらは「歴史とは何か」(E.H.カー著 岩波新書)の言葉です。

 E.H.カーは「歴史とは何か」という問いに答えて「それは現代の光りを過去に当て、過去の光りで現代を見ることだ」という意味のことをいっています。………。歴史は過去の遺物ではありません。そこには必ず現在を照り返す光りが含まれています。


 塩野七生著「ローマ人の物語」を7巻まで読み終えてまさにそのとおりだなという意を強くしました。

 
posted by mrgoodnews at 21:33| Comment(0) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月01日

「いま始まる新しいいま」川崎洋の詩ではじまった二〇〇八年

 正月に毎年することは「初詣巡礼ツアー」の他に、元日の新聞を買い集めること。
 巡礼ツアーの途中、駅により、駅の売店で元日の新聞を買い集め、正月休みをかけてそれを読んでいくこと。このことは去年もまた一昨年も紹介したと思うが……………。

 今年の元日の毎日新聞「余録」に次のよう詩が紹介されていた。元旦にふさわしい詩であると思うので紹介したい。

いま始まる新しいいま
川崎洋  


     川崎洋詩集「海があるということは」より抜粋

心臓から送り出された新鮮な血液は
十数秒で全身をめぐる
わたしはさっきのわたしではない
そしてあなたも
わたしたちはいつも新しい

さなぎからかえったばかりの蝶が
うまれたばかりの陽炎の中で揺れる
あの花は
きのうはまだ蕾だった
海を渡ってきた新しい風がほら
踊りながら走ってくる
自然はいつも新しい

きのうは知らなかったことを
きょう知る喜び
きのうは気がつかなかったけど
きょうは見えてくるものがある
日々新しくなる世界
古代史の一部がまた塗り替えられる
過去でさえ新しくなる

きょうも新しいめぐり合いがあり
まっさらの愛が
次々に生まれ
いま初めて歌われる歌がある
いつも いつも
新しいいのちを生きよう
いま始まる新しいいま


{これは抜粋なので、ほんとうは全文を紹介したいところだが、これは学校が始まってから、調べてみることにしよう。


 
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「福徳のことば」大本山総持寺白字会


福徳 元旦の私の日課は、初詣ツアー(巡礼)。今日は妻と一緒だった。
 まず教会の元旦のミサ。そして総持寺にまわり、さらに鶴見神社、熊野神社とまわる。日本人が真剣に祈る姿を見て、私も祈る。
 総持寺では毎年、その年のことばを印刷したポスターをもらう。今年はこんなことばだった。

 福徳のことば お釈迦様

一、病なきは第一の利
一、満足を知るは第一の富
一、信頼を受くるは第一の安らぎ
一,信仰を得るは第一の楽しみ

 平成二〇年 
 大本山総持寺白字会


 「信仰を得るは第一の楽しみ」とするところがさすが仏教である。「信仰」は「楽しみ」でありたいと私も思う。信仰はけっして「重荷」ではない「楽しみ」なのである。
 これは仏教でもキリスト教でもおなじであると思う。

 おそまきながら二〇〇八年の「謹賀新年」。
posted by mrgoodnews at 21:18| Comment(0) | 詩、歌、祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする