2008年03月31日

「拝啓パウロ様」(コリン・モリス著)

「拝啓パウロ様」(コリン・モリス著 石川重俊訳 ヨルダン社刊)はなかなかおもしろい。

 パウロは、あちこちの教会宛にたくさんの手紙を出した。その手紙は教会の中ではどのように扱われたのだろうか? 会堂で読み上げられたり、あるいは掲示されたりしたことだろう。それに対してその教会のメンバーはどのように感じたのであろうか? なかにはその手紙に返事を書いたものもけっして少なくないのではないか。その手紙に賛意を表するものだけではなく、反論するものや、その手紙に対する教会の人びとの反応を報告するものもあったであろう。

 この書は、パウロの手紙に対する返事を想像して書き、それに対するパウロの応答が書かれ、さらにそれに対するやりとりが書かれている。パウロの応答は彼の手紙の中からそれに関係する文をつなぎ合わせて書かれている。

 たとえばこんな話がある。

 婦人たちは教会では黙っていなさい。彼らは語ることがゆるされていない。律法も命じているようにこの規則に従うべきである。もし質問して聞きたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは,婦人にとって上品なことではない。

 ブルネラからパウロへ
 パウロ様
 あなたはほんとうは偽善者です。わたしは、イエスの生涯や、教え、特に、彼に従った婦人たちに対する態度のことを聞いてクリスチャンになりました。それらの婦人たちは、いわゆる使徒たちと称する、ある人びとよりは、ずっとよくイエスを理解していたように思えます。冒涜も同然のことだとはわかっていますが、ほんとうのことだと思います。
 あなたがガラテアの教会宛に「キリストにある」ものたちの間では男女の差別はないと書かれたと聞いたときに、私もとても勇気づけられました。ところが、今聞くところによると、あなたは婦人たちに、教会では黙っているように命じたということです。そして、もし、質問があれば家に帰ってその夫に尋ねるまで、じっと待たなければならないとのこと、なんとバカげたこと! 教会では大半の男性は説教中にぐっすりと眠っています。
 さらに、私たち婦人は、ベールで顔を覆うという、あの時代遅れのオリエントの風習を守らなければならないのです。なんということですか。わたしたちは、まだ暗黒時代にいるのですか?……………。
 パウロ様、どちらということになるのでしょうか。私たちはほんとうに、男性と女性との差別のない火事わりに属しているのですか。それともあれはただの大風呂敷にすぎないのですか。
                    ブルネラ
 追伸 私には夫はありません。誰に説教の説明を聞けばいいのですか。

 《わたしの教えの影にある意味は、こうだ》
 男が女のかしらであり、神がキリストのかしらであることと同じように、キリストはすべての男一人一人の頭である。従って祈りをしたり、説教をしたりするときにかしらにものをかぶる男は、象徴としてその真のかしらたるものをはずかしめるのである。……………。
 男は、かしらに物をかぶるべきではない。男は神の人格と栄光を表すからである。なぜなら女が存在するから男が存在するのではなく、その逆だからである。男はもともと女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。こういう理由から、女はかしらに外から見える男の権威のしるしをかぶるべきである。それはすべての天使が見るためである。

 ブルネラから再びパウロへ
 パウロ先生、バカを言うのはやめてください。「女が存在するから男が存在するのではなく、その逆だからである」ですって? 先生は男が何かを産んだなどと言うことをいつきいたのですか。男が産むのはそんな生半可の考えくらいです。あなたにもお母さんはあったと思います。あなたのお母さんがいたからあなたがいるのですか。それともその逆なのですか。
             納得いかず ブルネラ

《あなたはわたしの言うことを文字通りにとっている》
 もちろん、神の目には「男」も「女」も別々に存在するものではない。女がもともと男のために造られたとしても女以外から産まれている男はいない。そして男も女もすべてのものが生きているのは神によるのである。しかし、あなた自身の判断を用いてみるがよい、女のかしらにおおいをかけずに神に祈るのはただしくふさわしいことだろうか。自然の教えがあるではないか。長い髪は男には恥になり、女には栄光の美しさになるように感じさせられる。こう感じるのは、女には長い髪は自然によって備えられたおおいなのである。しかし、もしこのことについて議論をかまえたいならば、わたしたちと諸教会とは一般にこのきまりを大切なこととして保っていると言えるだけである。

 ブルネラからパウロへ
 すみませんが、これは神のしもべの言葉ではなく、タルソの老ユダヤ人の言っている言葉だと思います。納得できません。あなたにはまったく失望しました。
              さようなら ブルネラ

 もちろんブルネラの言っていることは正しいことであった。まさにパウロはタルソのユダヤ人として言っていることなのだ。パウロはこのオリエントの町で育ったが、そこでは、婦人たちは公の場でいつもベールをつけていた。中東の多くの所では今日に至るまでそうなのだが、ベールは婦人の尊厳と名誉のしるしである。ベールなしで公の場に出ることは、少なくても侮辱を招くことであり、売春婦と非難を招くことにもなりかねないのである。
 パウロは時代の人であった。……………。パウロは最初のクリスチャンたちの中で多くの女性たちを深く尊敬していた。だからクリスチャンの集会で聖霊が女性をとらえたときに誰も黙らせる権利はないという彼の主張ははっきりと述べられている。彼はそういう女性預言者たちはベールをつけるべきだと思った。それは永年の風習を彼女が破ったがゆえに、集まった人びとが怒り出して彼女の言うことに耳を貸さないということがないようにするためであった。……………。

 著者は、イギリスのメソジスト教会の牧師だが、まえがきのなかでこのように述べている。

 キリスト教の牧師としては恐ろしい告白になるだろうが、比較的最近までのことであるが、わたしにとってパウロはその全部が魅力に乏しかった。いつ果てるとも思えない綿密な推論。現代には何の関連もないような割礼のような問題。明らかな自己顕示。非難癖。ただ救われるのは、時たま見えるすばらしく抒情的な美しい散文がぬかるみの山で見つけるダイヤモンドのように見えるときだけであった。

 ここに、少なくとも何通かのパウロの初代教会宛ての書簡がある。だが、パウロが受け取った返書の記録というものはどこにもない。ただ、幾つかの書簡の中にはところどころの聖句でパウロに向けられた質問や非難を受けて書いたと思われるところはある。しかし、そういう質問や問題そのものは跡形もなく消滅している。…そこでわたしは、パウロ宛の手紙を幾つかこしらえてみた。


 パウロの手紙は聖書にまつりあげられる前は、具体的な状況の中にある教会への手紙なのである。その時代のその教会の具体的な問題にふれたメッセージであった。だからこのように鋭くつっこまれることも多数あったに違いないのである。
 著者はそこをイギリス人特有のユーモアを交え、さらに現代に当てはめて、時には現代を風刺する意味も込めてこの書を書いている。
 ローマ帝国の支配下にあった人びとの政治的なことに対する質問や、奴隷からの手紙、割礼というユダヤ人の習慣についてなどなど、私たちもパウロに書きたくなるような返事をパウロに寄せていて、さすがのパウロのたじたじとなっている様子がよくわかる。

 この本を出版したヨルダン社はバークレイの聖書注解などを出版したユニークな出版社であるが、今はもう倒産して存在しないので、古書を探すしかないのが悲しい。


 

 
   
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2008年03月27日

学校にカリンとオガタマの木の退職記念植樹をしました。


記念2 私の退職を記念して、そっと誰にも知られずに、記念植樹をしました。
 場所はソフトボールグランドを見下ろすところと、歩いていくときにいつも通る聖堂横の「ナカザワ花壇」(勝手にこう呼んでいます)のコーナーです。

 植えた木はカリンの木とオガタマの木です。日曜日に園芸店をまわって捜しました。


記念1 カリンの木は盆栽用の小さなものしか見つからなかったので、花が咲き実がなるようになるまではちょっと年月がかかりそうです。
 私の家にもカリンの木があって秋になると実をつけます。でも実がなるようになるまでに10年くらいかかった。
 カリンの実の香りは最高です。



カリンの幹 それから太くなったカリンの木の幹はとても美しい色をしています。おそらく幹の美しさではこの木の右に出るものはないように思います。

 オガタマの木は、別名バナナツリーとも言われ、花は実に甘いいい匂いを発します。買ってきた木にもつぼみが付いていました。4月半ば頃に花を開くようです。花が開き、匂いをかぐのが楽しみです。
 といってもそのころには私は学校にはいない………。
 オガタマは「招魂」という漢字を当てるように、魂を招く木ということでよく神社に植えられています。縁起のよい木らしいです。

 この二つの木は、よい匂いをつくりだすという共通点があります。
 このブログを見ている生徒のみなさんが捜し出してくれることを期待しています。
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ヒサカキの木の花


ヒサカキ 学校のソフトボールグランドをランニングすると、ある一角にいくと異様なあまりいい匂いとは言えない匂いがするのです。
 この匂いのもとは何だろうかと不思議に思っていました。カメムシかなとかも思ったのですが、それにはまだ早い。
 その匂いのもとがわかりました。
 ヒサカキの花です。

 ヒサカキはツバキ科ヒサカキ属。雌雄異種なのだそうです。雄しべの花と雌しべの花が異なっていて、雄しべは10本くらいあり、雌しべは3本なのですぐ区別が付きそうです。
 匂うのは雄花みたいです。学校のグランドで匂っているのは雄花です。
 今度雌花も捜して、匂いを確認してみます。

 晩秋に黒い実をつけると書いてありましたが、これも匂いそうです。この匂いは花の咲くこの時期だけではないようにも思うのです。
 花の時期と実の時期がずいぶんずれている感じです。

 名前の由来は、サカキの小さいのという意味から「姫サカキ→ヒサカキ」になったという説と、サカキに似ているがサカキにあらずというので「非サカキ」というところから来たとか。
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2008年03月20日

「カラシダネ」の木が教会にありました。

 イースターもまもなくです。今日は「聖木曜日」の典礼がありました。


カラシダネ 先日、教会のある人から「教会にカラシダネの木(草?)があるのをご存知ですか?」と言われました。
 「知りません」と応えたら、その木の前に行って「これなんですよ」って教えてくれました。

 6月になると花をつけるのだそうです。そしてそのあと1ミリにも満たない小さなタネをつける。

 ルカ福音書17章に
 主は言われた。「もしあなたにカラシダネひとつぶほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言ってもいうことを聞くであろう」

 とあるあのカラシダネである。

 誰が植えたのだか、なかなか味のあることをする人がいるものである。
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2008年03月18日

春を迎える黄色の花4種

 早春の花はなぜか黄色のものが多い。今日見かけた黄色の花4種。


黄梅 まずは「黄梅」。学校の諏訪段下に咲いている。この花の名は生物の先生に教わった。「梅」とあるが、梅とは別物で、木犀科ジャスミン属。ただしジャスミンのようには匂わない。中国ではこの花のことを「迎春花」と呼んでいる。この花も葉がでる前に花が咲く。



ミモザ 次は「ミモザ」 フサアカシアの別名がある。
 mimosa はラテン語で本来は豆科オジギソウの仲間のことを言う。葉に刺激を与えると古代ギリシアの身振り劇ミモス"mimos"(マイム、パントマイムの前身)のように動くことからこの名がついた。
 ところが日本でいうミモザは、豆科アカシア属のフサアカシアのことをいう。

トサミズキ トサミズキ。学校の中庭に咲いている。
 名前のようにミズキの仲間に似ているが、実はマンサク科である。早春に葉の展開に先立って、穂状の花序を出し、春の到来を告げる。
 よく見ると、昨年の花の実と種が茶色く残っている。この種をまいたら、芽が出るのだろうか?


菜の花 最後は「菜の花」
 早春の黄色い花の代表である。これはいうまでもない。この写真は学校に来る途中の七曲(ななまがり)にて撮影。ここは最近「玉縄城趾まちづくり会議」の人たちが整備して、写真のようにお花畑になった。それまではササとカミヤツデがこの部分をおおう藪となっていた。



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2008年03月17日

「セレンディピティ」という魅力ある言葉

 今日の例会の「分かち合い」でこういう話に心ときめいた。

 今日のミサの司祭の説教を聞いていたときに、その司祭はこんな話をされていた。
「幸福には2種類ある。一つは幸運に恵まれて得た幸福であり、他の一つは何気ないごく普通のありふれたことの中に見つけた幸福である。」
 この話を聞きながら、彼は「セレンディピティ(serendipity)」という言葉を思い出したのだそうである。「セレンディピティ」というのは WIKIPEDIA によると
何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。(平たく云えば、ふとした偶然をきっかけに、幸運を掴む事。)

とある。
 英英辞典には次のようにある。
Serendipity: the natural ability to make interesting or valuable discoveries by accident (Longman Dictionary of contemporary English)


 この言葉の由来は「セレンディップの3人の皇子たち」というスリランカの王子の話なのだそうである。
かつて私は『セレンディップの三人の王子』という童話を読んだことがあるのですが、そのお話において、王子たちは旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです。例えば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。何故分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためなのです。さあ、これで「セレンディピティ」がどのようなものか理解していただけたでしょう?


 ここにもあるように、これは「偶然な荷かを発見すること」という意味合いが強いが、本来はむしろ日常的な出来事の中に「新しさを発見すること」にある、つまり「2種類の幸福」のなかの後者の「幸福」に結びつくものではないかと、彼は分かち合ってくれたのである。

 私はこの彼の意見に共鳴して
「そうそうそれこそ『福音(Good News)』の極意だよ」
と思わずいってしまった。
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2008年03月13日

私の学校の卒業式とロッシーニの「信仰」「希望」「愛」

今日は、私の学校の卒業式についてお話ししましょう。
ことしは3月10日に卒業式がありました。

卒業式自体は、何の変哲もない普通の「厳粛」なものです。
卒業証書授与式にはじまり、皆勤賞の表彰、聖書朗読、校長による卒業生への言葉、来賓祝辞、卒業生の歌「信仰」、卒業生を送る歌「愛」という式次第です。

変わっているといえば、卒業生、在校生の歌でしょうか。ロッシーニの「信仰」「愛」が歌われます。ロッシーニにはもうひとつ「希望」という歌がありますが、これは入学式の時に在校生が歌います。

これがけっこううまいのですね。
なにせ、合唱祭は高校、中学別にあるし、中学音楽部は合唱連盟のコンクールで、全国大会の文部科学大臣賞をもらうくらいだし、高校音楽部も関東大会金賞ものです。
クリスマスミサでは、管弦学部の伴奏付きの「ハレルヤコーラス」が全校生によって歌われるくらいだし、本校の合唱のレベルはきわめて高いと思います。
しかも全校での練習は、わずかに1時間くらいの練習が2回しかないのに、3パートに分かれて歌うのですね。
いつもなかなかみごとだと感心していますが、これもいよいよ聴き納めとなりました。

もう20年前になりますが、卒業生が「あおげばとおとし」を歌わせてほしいといってきたときがありました。でも当時の校長は「あおげばとおとし」の「身を立て名をあげいざ励めや」というセリフが、本校の精神と合わないとかいう理由で、これをきっぱりと拒否していました。仕方なくその時の卒業生たちは祝賀会でロック調にアレンジして歌っていましたが……………。
あの歌のほうが「泣ける」という理由だったようです。
卒業生にはみなで涙を流しておいおいと泣きたいという欲求があるようです。
「卒業生の言葉」や「歌」の間には、目頭を押さえている生徒も多いし、学年によっては「卒業生の歌信仰」が歌えなくなってしまう学年もありますが、おおむね静かで厳粛な卒業式になります。

そこで、ロッシーニの「信仰」「愛」「希望」の歌詞を以下に紹介しておきましょう。

信仰

心悩みて苦しむ時
寄る辺無き身の 頽るる時
煌めく光 地の果てより
輝き照らす、我が心を。
この光こそ 神の賜える信仰の火よ
み神の賜える 信仰の火よ。
疑いは去り 我が行く手には
喜びの宴 我を待てり。
光はいづる。地の果てより。
ほとばしるごと 我に迫りぬ。
光の光、知恵の知恵よ。
光の光、知恵の知恵よ。




愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん

愛に宿る主なる神
貧しき者に望みを与とう
愛に満てる心は
世に光をもたらさん

愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん

汝が光覆う所
憎み争い後を絶ちて
永久に知らす主の愛
戦いをうち沈め

憎み争い後を絶たん
愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん

愛に宿る主なる神
貧しき者に望みを与とう


希望

聖なるかな 我を守る
望みよ わが主よ
悩める我を救いたまえ
涙にみてる 悲しみの心をば
ぬぐい去りて 喜び満たしたまえ
心をば 喜びに満たしたまえ

よろずのもの なれを仰ぎ
いのりまつる わが主よ
聖なるかな わが魂の光なる
我を守る望みよ
涙に打ち沈む心より
憂いをば取り去り
喜びを与えたまえ


けっこう「宗教臭い」歌詞のうたですが、カトリック学校ではよく歌われている歌のようです。
この歌を歌っている学校がありましたら、お教えください。
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2008年03月11日

柏尾川のボラ

 柏尾川にたくさんボラがいるということは前に書いたことがあります。


ボラ あのときは4月頃から9月頃までに見られて、秋になるといつのまにか姿を消すと書いているのですが、最近はどうも違うのです。冬にも見るのです。しかもかなり大きく育っていて、大きいのは体長40センチくらいあります。

 ボラは周縁性淡水魚といって、本来は海水魚でありながら汽水域(淡水と海水が混じる水域)で生活したり、一次的に淡水域に進入する魚だと書かれているのですが、どうもそうではなくなっているようで、淡水域に住みついてしまっているようです。
 下流に堰みたいなものができて回遊しなくなったのではないかと推測されるのですが、実際はどうなのでしょうか?

 ボラの卵巣を塩漬けにして天日で乾燥したものが「からすみ」で珍味とされています。
 しかし、ボラの産卵場所は不明で謎に包まれているのだそうです。ときどき対馬海峡などの流れの速い暖流の沖で群をなして泳いでいる姿が確認されるとのことです。

 河や浅瀬に棲むボラは、海藻や藻を泥と一緒に食べているので、泥臭くておいしくないらしいです。しかし、刺身で食べているところもあるようです。
posted by mrgoodnews at 01:45| Comment(0) | 植物・鳥・小動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月06日

「アレッポの石鹸」を使ってみた


アレッポ 「アレッポの石鹸」なるものを買って使ってみた。
 入浴時に使うと肌がすべすべする感じである。ちょうど単純アルカリ泉の温泉に入った時みたいである。風呂から出たときの香りもいいと妻から言われた。
 使っているときには石鹸特有の匂いがする。

 能書きによると、この石鹸の原産地はシリアなのだそうである。そしてこの石鹸はオリーブ油とローレル油(月桂樹の実からつくった天然素材の石鹸である。このオリーブ油とローレル油の配合加減でお値段が違うらしい。
 私の買ったのは駅ビルの天然素材を扱う店においてあった。


ロリエ そういえば、ローレル(月桂樹)は今頃小さな実をたくさんつけている。実の部分をつぶして匂いをかぐと月桂樹の葉と同じようにいい匂いがする。
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2008年03月05日

学校でやり続けたこと デジタル写真館

 私はもうじき23年間勤めてきた今の学校をひきます。

 私は学校では「しなければならないこと」はほどほどにして、「しなくてもよかったこと」を一生懸命にやり続けてきたような気がします。
 その「しなくてもよかったこと」で5年くらい続けてきたことの一つに、コンピューター教室の前の掲示板に、おもに学校内外の植物のデジタル写真を掲示し続けてきたことがあります。だいたい1か月に1回くらい更新して、ちょっとしたメッセージを添えてA4判にプリントした4枚の組写真を紹介してきました。
 はじめはこの掲示板が、だれかに傷つけられてしまい、それを隠すところから始まりました。
 これらの多くは学校の中や通勤途上に撮影した花や木、草の写真です。4枚組写真になっていて、どこか共通の特徴を持った写真です。そのいくつかはこのブログでも紹介しています。


掲示板 たとえば、このブログでも「冬の樹木」シリーズがいくつかありますが、2月のそれはその「冬の樹木」シリーズでした。
 生徒からはほとんど反応がないのですが、職員からはいろいろと花や木についてのことを教えてもらったり、感想があったりして、励まされました。

 私がいなくなるとこれはなくなるかなと思うとちょっと寂しいですが、どなたか受け継いでくれるといいなと思うのですがね。

 
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2008年03月03日

プラスティック消しゴムの話

 学校には名前がその実態とそぐわないものがけっこう多い。

 たとえば「ゲタ箱」。今時学校に下駄を履いてくるものはめったにいない。

 たとえば「筆箱」。エンピツやシャーペン、ボールペンは筆箱に入っているが、筆の入っている筆箱は皆無ではないか。
 
 たとえば「黒板」。ほとんどの学校の黒板は今は「黒」ではない。おそらく「緑」であるだろう。

 そして「消しゴム」。これもゴムでできていない。今の趨勢はプラスチック消しゴムである。

 ところで今回の話題はその「プラスチック消しゴム」
。物理を教えている女の先生がこんなことを教えてくれた。
「プラスティックのケースの上にプラスティック消しゴムを裸のままで置くのはよくない。」
「じつはプラスティック消しゴムにはそれ自体をやわらかくするための軟化剤が含まれていて、これがプラスティックのケースに置いてあると、接しているプラスティックを溶かしてしまう」
「だからプラスティック消しゴムは紙に巻いてあるのであって、あれは意味があることなのだ」
posted by mrgoodnews at 23:57| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月02日

ペットボトル・ロケット発射成功!これは「すごーいっ!」


PBR2 高1ゼミの「飛行物体の研究」の最後は「ペットボトル・ロケット」でした。

 5人の生徒たちと、タンサン入りのサイダーなどの2リットル入りペットボトルを持ち寄って制作しました。発射台などはキットがあるので、それを使いました。


PBR3 写真のようなペットボトルを使ってロケットを組み立て、3分の1くらい水を入れ、発射台に設置して、自転車の空気入れで40回くらいポンプを動かして圧縮空気を送り込みました。
 リモートのスイッチを使い、10からカウントダウンして「発射!」です。




PBR4 ロケットは「シューッ」と音を立ててみごとに飛び出しました。飛距離は80メートルくらいで、ソフトボールグランドのセンター奥の木にひっかかりました。
 みんな「すごーいっ」といって成功を喜びました。

 確かにこれは「すごーいっ」でした。キットをつかえばわりと簡単に制作できます。ただ発射するのに広い場所が必要で。これはなかなか見つけるのが大変ですが、それさえクリアできれば、これは感動します。


PBR1 空気だけではダメで、水を入れるところがミソなのです。なんでも作用・反作用の法則で、水がないと反作用が生じないらしいのです。
 やってみてください。

 キットは、東急ハンズで手に入れましたが、ここでも手に入ります。
posted by mrgoodnews at 15:43| Comment(1) | おもちゃ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「柞(ははそ)の森音楽会」


ははそ 同僚の音楽の先生が、わたしの送別会の宴の席で「柞の森音楽会」の話をしてくれた。

 鎌倉市の西鎌倉地区で3月23日(教会ではイースターの日、彼は藤沢教会の聖歌隊の指揮者でもある。)に、子どもたちと地域の人たちが初めての総合音楽祭を、鎌倉市芸術館で午後1時半から行う。同僚の音楽の先生がそれの音楽監督をしているという。
 これは鎌倉市立手広中学校が、保護者、小学生、幼稚園、地元自治会、商店街と地域の人々の100名以上の参加を得て企画する音楽会であるという。つまり、幼稚園児から高齢者まで実に幅広い人たちが一緒にコーラスをするというのだ。

 「柞(ははそ)」とはケヤキ、ナラ、クヌギなどの落葉広葉樹の総称だという。聞き慣れないけれどなかなかステキな言葉である。このあたりは昔それらの木々の森が豊かにあったところだという。自然と人との共生を祈願して付けた名前だそうだ。

 こんなステキな音楽会の総監督をうちの音楽の先生がしているというところがすごい。学校の自慢のタネがまた増えた。
 私も行ってみることにするか。ステキなイースターになりそうだ。
posted by mrgoodnews at 15:16| Comment(1) | 町・風景・自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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