かれは昭和9年満州で生まれる。戦後引き揚げてきて、貧困と病弱の中で育ち、母とも死別する。学校に行ってもいじめられ、さげすまれ、次第に不良化し、犯罪を繰り返し、少年院に送られたりする。
そしてついに、餓えのあまり押し入った家であやまって殺人を犯し、死刑の判決を受ける。昭和37年のことである。
彼の少年時代は何一ついいことがなかったが、ただ一度だけ図画の先生にほめられたことを思い出し、その先生に獄中から手紙を書く。その先生の妻が短歌を詠む人であった。それから8年間の獄中の死刑囚と先生夫妻との手紙と短歌のやりとりが始まる。
死刑が確定した日の歌である。
わが死にてつぐない得るや被害者の
みたまに詫びぬ確定の日に
その先生に宛てた手紙の中に次のような文がある。
教師はすべての生徒を平等に愛して欲しいものです。一人だけを暖かくしても、一人だけを冷たくしてもこまります。目立たない少年少女も等しく愛される権利があります。むしろ目立った成績の優れた生徒よりも、目立たなくて覚えていなかったような生徒の中にこそ、いつまでも教えられたことの優しさを忘れないでいる者が多いと思います。忘れられていた子供の心の中には、一つだけでもほめられたというそのことが一生涯繰り返して思い出され、なつかしいもの、楽しいものとして、いつまでも残っているものです。私がそうです。
そして昭和42年死刑が執行される。その前日に彼は次のような歌を残している。
ふきあがるさびしさありて
許されぬクレヨン欲しき死刑囚のわれ
世のためになりて死にたし
死刑囚の眼はもらひ手もなきかも知れぬ
助からぬ生命と思へば
一日のちひさなよろこび大切にせむ
愛に飢ゑし死刑囚
われの賜ひし菓子地に置きて蟻を待ちたり
にくまるる死刑囚
われが夜の冴えにほめられし思ひ出を指折り数ふ
死刑囚のわれを養子にしたまひし
未婚の母よ若く優しき
さらに処刑の日に、被害者の夫Sさんに宛てた手紙荷は次のような思いが表現されている。
長い間お詫びも申し上げずに過ごしていました。申し訳ありません。本日処刑を受けることになり、深くお詫びします。最後まで犯した罪を悔いていました。亡き奥様に御報告して下さい。私は詫びても詫びても詫びが足らず,ひたすら悔を深めるだけでございます。私の死によって、いくらかでもお心の癒やされますことをお願い申し上げます。申し訳ないことでありました。ここに記してお詫びの事に代えます。皆様の御幸福をお祈り申し上げます。
そしてさらに続ける。
僕は気の弱い人間でしかない者だったと思う。でも生きることがとても尊いことだけは解ります。僕の犯した罪に対しては、『死刑だから仕方なしに受ける』というのではなくて、『死刑を賜った』と思って刑に服したいと思います。罪は罪、生きたい思いとは又別なことだと思わなければならない。
これほど、自分の罪深さを悔い、ゆるしを求め、いのちの尊厳を自覚しているのに、彼を死刑にせざるを得ない「法の厳しさ」というものは、いったい何なのだろうか。