2008年07月27日

母とDHAとEPA

 私の母は89歳で、目と耳はいいのですが、物忘れ能力が高くて5分前のことを忘れてしまうといったら、保健所の食品担当をしている友人が、ある Good News を教えてくれました。

 それはDHAとEPAを摂取させなさいというのです。「サバやイワシやサンマの缶詰がいいから、これを毎日食べさせなさい、これにはかならずDHAとEPAがどのくらい含まれているかを書いてあります。DHAもEPAも血液をさらさらにさせたり、脳を活性化するはたらきがあります。」と教えてくれました。とくにDHAは人間の脳の記憶を蓄えておく海馬を活性化するはたらきがあるのだそうです。

 これはいいことを聞いたと、さっそく買ってきて、本日サンマの味付け缶詰を食べました。これらはいずれも100円くらいで安価だし、けっこうおいしいのです。
 食べ終わったあとに、「母に今日なにをしたっけ?」って聞いてみました。
 いつもだったら、「何も覚えていない。やだ」ってあたまを抱え込んでしまうのですが、この日はちょっと違ったのです。「教会に行ってスーパーに買い物に行ったでしょう?」っていうと「そんなような気もする」といいだしたのです。
 これがサンマのDHAのはたらきだとはとうてい思えないのですが、これから毎日食べさせて、この質問をしてみることにしましょう。
 少しは変化が出るかもしれない、と期待しています。

 この結果については継続的に報告することにします。

 DHAとEPAについては検索するとけっこう出てきます。たとえばここを見てみてください。
 これは「物忘れ能力抜群」の母だけでなく、私たちにも効果がありそうです。
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2008年07月26日

キリの木の実


キリの実 キリの木をようく見ていたら、実が付いています。しかもその木の実は緑色のと茶色のと2種類あるのです。

 つまり、これは緑のものは今年つけたもので、茶色のものは昨年の実なのですね。枯れおちずにそのまま残っているのです。

 さらにようく見ると来年花になるであろう花芽もつけています。一つの木に「3世代」の花や実が付いているということなのでしょうか。
 ひょっとすると今茶色のものは、来年も残るかもしれません。
 要継続観察です。
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オニユリがみごとです。


オニユリ オニユリがみごとに咲いていました。
 こんなかれんな花がなんで「オニユリ」なのか?

 ちょっと調べてみました。
 百合根として食用にするのが、ヤマユリ、オニユリ、コオニユリなのだそうです。
 オニユリとコオニユリとは区別が付きにくいのですが、ムカゴができるのがオニユリでタネができるのがコオニユリなのだということです。

 日本名のユリは、風にそよいで揺れているというところからきた言葉で、漢字の「百合」は中国名で球根の鱗片が薬草とされていてその生薬が「百合(ひゃくごう)」とよばれているという由来があると書かれていました。
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2008年07月25日

カサブランカ昨年と今年

 わがやのカサブランカです。前にも紹介しましたが、昨年の写真が見つかったので、あらためて紹介します。


カサブランカ07 一昨年の秋に6個球根の植えたのですが、昨年の7月は全部で8つの花をつけました。





カサブランカ ほとんど手入れもせずにいたのですが、今年は全部で15個の花をつけました。

 来年はいくつ花をつけるでしょうか?
 こういうのを「定点観測」するのも楽しいものです。


 
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鶴見いちご地下路(ちかみち)

 
いちご地下路鶴見駅東口から市役所の方にでた、国道15号線(京浜第一国道・いちこく)の地下道に「鶴見いちご地下路」という表札が出ていました。

 先ず疑問に思ったことは「なんで『いちご』なのか」でした。いったい誰がいつこんな命名をしたのか、そういう説明も必要ではないかと思ったのです。

 でもこの疑問はすぐに解けました。ここは国道15号線だから「いちご」なんだと。
 
 それから「地下道」を「地下路(ちかみち)」とあえて名付けるセンスも悪くないかなと思いました。

 で、家に帰って検索したら、ここにでていました。 
 この命名は、昨年10月に応募者数429名のアイディアの中から選ばれたということです。
 そうならばそうとどこかで説明しておけばいいのにと思ったしだいです。
 
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2008年07月24日

新渡戸稲造の読んだ歌

 「新渡戸記念館」にて新渡戸稲造が作った歌がいくつか紹介されていた。
 手帳にメモしていたものなので、自分で書いたものなのに読めないところがあったりして、一部不正確かもしれないが、そこはあしからず……………。

見んひとのためにはあらで
奥山におのが誠を咲く桜かな

雲よりも上なる空に出でぬれば
雨の降る世も月をこそ見れ

見るたびに皆そのままの姿かな
柳は緑花は紅

「柳は緑花は紅」という句は新渡戸のオリジナルだったっけ?という疑問を持ったので、調べてみた。
 するとこれは、宋時代の詩人、蘇東坡のしにある言葉だそうである。春の景色を「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」と詠み、色とりどりに咲く花が、自然の営みにゆだね、あるがままに生きている姿を見て「真の面目」と賛嘆して読んだ言葉であった。
 「ごらんよ、空の鳥。野の白百合を。蒔きもせず紬もせずに鮮やかに生きる」というマタイの福音書を元にした典礼聖歌を思い出すことばである。。

元旦は年経るごとにあらたなり
松に緑を霜は添えつつ

わずかなる庭の小草の
白露を求めて宿る秋の夜の月

見る人のこころごころにまかせおきし
たかねにすめる秋の夜の月


 けっしてうまい歌というわけではないが、日本人新渡戸稲造の気概が伺われる歌だと思う。

 新渡戸稲造の歌についてのデータベースがここにあった。
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唐人お吉と新渡戸稲造

 私の父の実家は、伊豆の下田であった。
 前にも書いたことがあったと思うが、私が小学生だったころ、夏休みや春休みによく田舎に行った。まだ伊豆急も開通していなかったので、下田へは、伊東から東海岸ぞいにいく東海岸コース、修善寺から天城越えで行くコース、沼津から土肥、松崎を経て西海岸を行くコースのいずれも3時間近くかけて東海バスでいったものである。
 東海バスの中では、いつもバスガイドさんが観光案内をしてくれた。そのはなしは、曾我兄弟物語、伊豆の踊子、源頼朝と北條政子、吉田松陰と黒船の物語、そして唐人お吉物語であった。伊豆半島にまつわる物語を時に歌をまじえながら、案内をしてくれたものである。

 「新渡戸記念館」には、その「唐人お吉」のために新渡戸稲造がこんな歌を詠っていたことが紹介されていた。
 からくさの浮き名のもとに枯れはてし
 君が心は大和撫子

 新渡戸稲造が下田に来て、お吉の話を聞いて、お吉が身投げをしたという「お吉が淵」と呼ばれていたところにお地蔵さんをおき、この歌を読んだという。

 下田に黒船がやってきて、アメリカの総領事館が置かれた。お吉は総領事ハリスに仕えた女性であったが、ハリスの帰国後、まわりの人からの中傷をあびて、身を持ち崩してしまい、最後は稲生沢川に身を投げて世を去ってしまった女性である。
 新渡戸稲造は、お吉の話を聞いて、この女性こそ「大和撫子」だとほめあげて、そこにお地蔵さんをすえたのである。
 考えてみたら、新渡戸はクリスチャンだから、お地蔵さんというのはちょっと宗旨がちがうのではないかと思わないわけではないが、でもこんな所に新渡戸稲造という人の人柄が偲ばれるであろう。

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2008年07月21日

ノアサガオ(オーシャンブルー)とカサブランカ

 わがやのノアサガオ(オーシャンブルー)とカサブランカが今を盛りと咲いています。


ノアサガオ080721 6月20日頃から花をつけだしたノアサガオ(オーシャンブルー)は、一日に花を100くらいつけています。
 家の前をとおるひとは「これはすごい!」って感嘆して通っていきます。
 一年間にいったいどれくらいの花をつけるのでしょうか? 3000とか4000くらいの数になるでしょう。

ノアサガオ蔓 すごい繁殖力で、地面を這って蔓を伸ばし10メートルくらい離れたところのネットにも絡み出しました。
 おおもとの茎は直径5センチくらいの「大木」となっています。
 また、挿し木をしたものも蔓を伸ばしています。まだ花をつけていないけれど、これらが花をつけ出すのも時間の問題のようです。
 どんどん挿し木して株を増やして、多くの人に分けられたらいいなと思って、精出して挿し木をしています。


カサブランカ それから、炎天下の元でもうひとつの花がたくさん咲き出しました。カサブランカです。これはたぶん3年前にスーパーで6戸入りの球根を980円で買った記憶があります。
 昨年より倍くらいの花をつけたようです。球根はそのままでした。茎はそんなに太くなくて、ひょろひょろとのびていったのですが、蕾はみるみるうちに大きくなり、こんなみごとな花をつけました。そんなに面倒を見ているわけではないのですが……………。
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Bishop Dready Mannig "What Was I Doing, When the Saints of God Found Me."

6月2日の NHK-FM「トーキング ウィズ 松尾堂」でこんな歌が紹介されていた。こういう歌が紹介されているところが、この番組が気に入っている理由なのです。

Bishop Dready Mannig "What Was I Doing, When the Saints of God Found Me."

 「え、現役の Bishop(司教)がブルースを歌っているのか」とびっくりしてちょっと調べてみました。

 このBishop Dready Mannigは、アフロアメリカンのブルースシンガーで、この名前は自称の芸名のようでした。
 でもこの歌がなかなかいい。
 この歌を探してみたら、ここにありました。歌詞がどういうものかは聞き取れないのですが、なかなか福音的なメッセージを持っているようです。歌詞が手に入ったら、また紹介しましょう。

 この人にはこういう歌もありました。


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2008年07月18日

「われ太平洋の架け橋とならん」新渡戸稲造物語その2


nitobe1 新渡戸稲造は1875年15歳の時に、札幌農学校に入学します。同期生に内村鑑三がいました。札幌農学校には、あの "Boys be ambitious!" で有名なクラークがいましたが、新渡戸が入学したときにはすでにクラークはアメリカに帰っていました。内村も新渡戸もクラークには直接教わっていなかったのです。
 クラークをアメリカから招聘したのは北海道開発庁間だった黒田清隆でした。クラークはその条件として「聖書を教える」ことを黒田に認めさせます。国立大学では宗教教育はできなかったのですが、クラークは堂々とそれをするのです。そのクラークのもたらしたキリスト教精神は1期生の中に根付き、その先輩からの強い影響で新渡戸も内村も洗礼を受けてクリスチャンになるのです。

 農学校を卒業した新渡戸は1883年東京大学に入学します。その面接の時に新渡戸は有名な言葉を熱っぽく語りました。
「願わくはわれ太平洋の架け橋とならん」

 ただ外国の学問や文化を導入するだけにとどまらずに、日本の文化や伝統を外国に紹介するという使命をこのときから自覚していたわけです。この言葉は新渡戸の生涯をつらぬく生き方となりました。

 1884年新渡戸は私費でアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学します。
 内村もアメリカに留学していました。アメリカに留学した二人は、しかしクラークとアメリカに失望します。クラークは日本にいた1年足らずが教育者としてもっとも輝いていたときで、アメリカに帰ったクラークは実業に失敗してみる影もなく落ちぶれていました。クラークが語っていたキリスト教の国アメリカは、人種差別の国でした。
 そのかわりに彼らは目覚めたのです。「大和魂」や「武士道」などの日本精神に。彼らはその日本精神をアメリカに伝えようとします。1900年に新渡戸は「武士道(Bushidou)」をアメリカで出版し、これはベストセラーになっていろいろな国の言葉に翻訳されます。


nitobe3 ドイツ留学をへて、メリー・エルキントンと出会い結婚して日本に帰国したのは1891年、彼は母校の札幌農学校で教鞭をとります。
 札幌時代にメリー夫人とともに力を注いだことは、遠友夜学校の創立でした。これは1894年に設立した貧しい子供や勤労青年が無料で学べる学校でした。
 遠友夜学校では「リンカーンに学べ」を校是に札幌農学校(現・北海道大学)の学生が無報酬で講師をつとめ、1944年まで数千人が学びました。メリー夫人が受け取った遺産がその運営資金にあてられたといわれています。

 1901年台湾総督府民政部殖産課長として、台湾の殖産興業に尽力します。特に製糖産業の基礎を築いたといわれます。彼は単なる学問の徒ではなく、実践の人でもありました。
 1903年には京都帝国大学教授、1906年には第一高等学校長に就任、東京帝国大学教授も兼任します。
 1918年には東京女子大学の初代学長になります。


nitobe4 そして1920年、国際連盟事務次長に就任。6年間の任期を勤めます。彼が力を入れたのは、ユネスコの前進となる「知的協力委員会」でした。
 彼が国際連盟を去ってから、日本は急速に軍国主義の道を歩むことになります。
 彼の晩年は「憂国と愛国の間で」苦悩の連続でした。このころについてはここに詳しく書かれています。このことについてはいずれまた書きたいと思います。

 1933年、第5回太平洋会議に出席するためにカナダのヴィクトリア市にて客死します。71歳でした。
 
 

 


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2008年07月17日

「永遠の青年」新渡戸稲造 その1

 花巻で「花巻新渡戸記念館」を訪れました。
 これは新渡戸稲造の先祖、新渡戸家の歴史を新渡戸稲造の生涯とともに紹介した記念館です。
 新渡戸家は8代228年間にわたり高松・安野の地に居住し、新田開発など地域開発に貢献しました。

 旧五千円札の人新渡戸稲造について、賀川豊彦の次のような詩が目にとまりました。

   永遠の青年
      カガワ・トヨヒコ

大きかったね
 その輪廓は――
  すっきりしてゐたね
   その肌合は
    武士道に
     世界魂を注人した
      その気魂は
       日本の島に容れるのには
        少し大き過ぎたね

年と共に
 若くなる
  あの気持のよい
   霊魂――
    どこからあゝした
     若々しさが湧くだらうかと
      いつも感心させられた
       永遠の青年!

解りの善い賢人
 博識なる善人
  弱者にも 貴人にも
   何等隔てなき尊者
    明徹朗麗
     花辮の如き魂であったよ
      新渡戸稲造は――

私は 日本の七賢人は
 誰かと聞かれたら
  新渡戸稲造を先づ
   第一にあげたであらう――

誠に彼はギリシヤの
 ターレスにも ソロンにも
  劣らざる賢人であつたよ
   凡俗を抜いて――
    然し この賢人は
     至高の純愛の持主であったよ
      彼ニイトベは――

祖父の血を継いで
 開拓精神に生き
  國境を越えて
   人間を愛し得る
    宇宙精神の持主であつたよ
     おゝ 尊き存在――

彼が
 曽子 荀子 孟子に比較しても
  決してひけ目のない
   霊魂であつたことを 私は考へてゐる
    彼は
     聖賢に属する存在であつた

彼の名は
 彼は 魂の彫刻者として
  自己の姿を
   不朽の霊に刻んだよー
    おゝ 優れたる彫刻者
     おゝ エキセルショア!
      親しむべき師父
       巨大なる世界人――・
        ニイトベ!

年経つと共に
 彼の名は
  花園の薫の如く
   日本に愛せらるゝであらう
    徳愛の人――日本人
     おゝ 日本人中の日本人よ!

(『新渡戸稲造博士追憶集』昭和十一年刊より)


 彼の生涯ならびに功績を挙げてみよう。

国際人として
 世界の平和と協力を目的とした、国際連盟の事務局次長を務め、草創期の国連の基礎確立に貢献し「ジュネーブの星」と称せられた。
 ユネスコの前進である「知的協力委員会」の創設に尽力した。

教育者として
 札幌農学校、京都帝国大学、東京帝国大学などで教鞭をとり、第一高等学校長、東京女子大学学長を歴任した。万人に等しく学びの場を、との願いのもとに私立「遠友夜学校」を開校し、運営・指導した。

農政学者として
 佐藤昌介(花巻出身、北海道帝国大学初代学長)らと友に日本初の農学博士の学位を受ける。
 日本統治下にあった台湾の財政的自立のために、技術者・指導者としてサトウキビ栽培や製糖工場の基礎を築いた。

著述家として
 代表的な著書「武士道」は日本文化の伝統の中に人類共通の道徳があることを世界に紹介したいと願っている。
 農学・歴史・法学などの学術専門書から人生訓、講義録など。多方面にわたっての著書を、英語日本語で著している。

 


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日本の夜明けを告げた幕末の蘭学者高野長英のすさまじい生き方


高野長英 水沢で高野長英記念館を訪れました。
 この人物は驚くべき生き方をした蘭学者で、今回の旅で出会いたい人物のひとりでした。
 記念館のパンフレットにあった高野長英の生涯を紹介しましょう。

 
高野長英は1804年水沢で生まれ、世界に目を開き日本の夜明けのため生涯をささげました。
 17歳で江戸に出てオランダ医学を学び、さらに長崎に行きシーボルトの鳴滝塾において、医学と蘭学を学びました。
 その後、江戸に戻り、開業医をしながら翻訳を続け、庶民の要求に応える学問を続けました。
 1838年「戊戌夢物語」を書き、これが幕府を批判したとして投獄されました。1844年に脱獄し、数多くの門人や宇和島・薩摩藩主に守られ、潜行千里、その間も医療や天文学、兵学などの著訳に力を傾けました。
 そして、薬品で顔を焼き、人相を変えて医療を続け、1850年10月30日江戸青山百人町で英雄的な最期を遂げました。47歳でした。


 長英は後藤家の生まれだが、9歳の時母の実家である高野家の養子となった。高野家は蘭学の素養を持った祖父や養父がいて、彼らを通じて蘭学を学んだ。この少年時代の環境が長英の生涯を切り開いたわけである。
 しかし、水沢で蘭学医をするにとどまらず、彼の目は世界に開かれていく。17歳で江戸、さらに22歳の時に長崎のシーボルトを訪ねて鳴滝塾で学び続ける。

 鳴滝塾におけるシーボルトの教育方針は、弟子たちに日本研究をさせて発表させるというものであった。シーボルトが持ち帰った弟子たちのオランダ語論文43点のうち11点は長英の論文であった。
長英の論文は、「活花の技法について」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」、「小野蘭山『飲膳摘要』(日本人の食べ物の百科全集)」、「日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法」(2)、「日本古代史断片」、「都における寺と神社の記述」、「琉球に関する記述(新井白石『南島志』抄訳)などで、日本の歴史、地理、風俗、産業などシーボルトの日本研究の基礎資料となるものであった。
 長英は「鯨油および捕鯨について」という博士論文を書きシーボルトよりドクトルの称号を受ける。
 シーボルトはドイツ人であったが、オランダ人になりすまして日本に滞在した。日本地図を持ち出そうとして幕府の禁に触れ、スパイ容疑で国外追放となる。いわゆる「シーボルト事件」である。
 弟子たちはシーボルトのスパイ行為を助けたとしてこの事件に連座する。
 たまたま旅行中で難を逃れた長英は、長崎を離れ江戸に行く。途中大分県の日田の儒学者広瀬淡窓を尋ねたとされている。広瀬淡窓の塾「咸宜園」を出て世に名をなした人及び門人の名簿に高野長英の名が載っている。

 水沢の高野家は、養父が亡くなったために、長英に跡を継がせようとしたが、長英は江戸にいて学業を継続したいという意が強く、高野家と絶縁するしかなかった。
 江戸において、長英は町医者を開業する傍ら、著述をおこない日本初の生理学書「医原枢要」や飢餓対策の書「救荒二物考」流行病対策の書「避疫要法」を著した。
「救荒二物考」は天保の凶作に際して、庶民の窮乏を救うため、早ソバと馬鈴薯(じゃがいも)の栽培をすすめたものである。長英の学問的態度がこれらの書によく表現されている。

 またかれは「尚歯会」に加わった。田原藩の家老渡辺崋山、岸和田藩医小関三英、江川太郎左右衛門らの洋学者とともに、内外の情勢を研究しようとしたグループの歴史的呼称である。
 そのはじまりは、天保3年(1832)ごろ、崋山、長英、三英らの交友にはじまり、その後、当時打ち続いた大飢饉の応急対策を練ったりした。
 このグループは単に洋学の研究にとどまらずに、その当時の世界と日本の将来を考える政治結社であった。

尚歯会 この尚歯会の集まりの様子を渡辺崋山が描いている。「尚歯会」の集まりの後、仲間で囲碁をうつ風景を描いた図。立っているのが渡辺崋山で、その前で碁石を持っているのが高野長英であると伝えられる。
 日本人漂流民を日本に届けるべく江戸湾に現れたアメリカ商船モリソン号を浦賀奉行は砲撃を加え追い払う、いわゆる「モリソン号事件」に対する幕府の対応を批判した、長英の「戊戌夢物語」、渡辺崋山の「慎機論」を口実に「蛮社の獄」が起きた。長英は「永牢(終身刑)」となる。

 長英は、1844年江戸小伝馬町の牢屋敷が火災に乗じて脱獄し「天下のお尋ね者」となるのである。
 逃亡中、長英は諸国の弟子たちを訪ね、また故郷水沢にもたちよる。さらに宇和島の開明的藩主伊達宗城や薩摩藩主を訪れるが追跡の手が回った。
 逃亡中金比羅神社で心情を記した詩が紹介されていた。
 暦日春に入って未だ春を見ず
 ただ看る満眼の菜花新たなるを
 問うや君 拝廟果たして何の意ぞ
 これより東方の第一人たらん

 彼の目は「アジアの第一人者」として世界をながめていたのである。
 また門人に送った手紙に、西洋のことわざを歌にしたものがある。
 たえねばや はてはいしとも うがつらん
   かよわきつゆの ちからなれども

 大阪に滞在したときに彼は顔を硝酸で焼き、顔を変装して江戸にもどることを決意する。

 江戸では「沢三伯」と名前を変え、江戸青山百人町に町医者を開業し、翻訳や著述を継続する。
 しかしついに追捕の役人の手がまわり、1840年自害する。47歳の生涯であった。ペリーが浦賀に来日し日本が開国する四年前のことであった。

 顔を変装してまで江戸に帰ろうとしたのはなぜだったのか。国家の危機を感じ取り、それに対する自らの使命を感じ取ったからなのだろうか。
 長英の死を悼んで詠った江川担庵の句があった。
 
里はまだ夜ふかし富士の朝ぼらけ



 


 

 

 
 

 

 

 
 

 
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2008年07月16日

スグリの実を千厩で買いました。

 7月14日に岩手県一関市千厩(せんまや)という町の「町の駅」で「スグリ」の実を買いました。

 50粒くらい入って250円だったか。
 とてもかわいい実なのです。直径1センチくらいの球形で赤や緑に色づき、半透明の実に白い筋がとてもおしゃれなのです。宝石かあめ玉のような感じなのです。
 「赤い実から食べてね。その方が甘いから。」とお店の人にいわれました。
 で、宿に帰って食べてみました。確かに青い実は酸っぱいのですが、素朴でけっこうおいしい実でした。
 デジカメで写真を撮っておこうと思ったのですが、その前に妻が全部食べてしまいました。

 その写真はここここここにあります。

 家に帰ってからネットで「スグリ」を調べてみました。
 ユキノシタ科で「酸塊」と書きます。
 4種類あります。
1.ただのスグリ。英語でGooseberry
2.赤スグリ。英語でRed Currant
3.白スグリ。英語でWhite Currant
4. 黒スグリ。英語でBlack Currant。フランス語でいうとカシス。あの有名なリキュールの原料。
 カシスがクロスグリなのですね。
 
 
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4泊5日の岩手県 Good News 探しの旅

 この11日から15日まで東北岩手県の旅行に行きました。私の旅はどこへ行ってもつねに Good News を探しに行くたびです。
 今回もステキな Good News をたくさん見つけて「おみやげ」にもってきました。それを少しずつ報告できたらと思っています。

 今回訪れたところは以下のような所でした。詳しい報告は改めてしたいと思います。今日は訪れたところをざっと紹介しましょう。

●宮城県秋保温泉

磐司岩 
これは前から行きたかったところです。本当は麓の磐司山荘に泊まって温泉に入り、登山したかったのですが、あいにく遠くから眺めただけでした。

秋保大滝 
この滝は華厳の滝、那智の滝とならんだ日本3大瀑布なのだそうです。ここでメグスリノキを煎じた飲み物を試飲しました。不思議な味だった。本当は買ってきたかったのですが、妻に反対されてしまいました。

磊々峡 
宿泊したホテルの裏がすぐにこの渓谷でした。

秋保工芸の里御独楽處廣井 
江戸独楽の作家廣井道顕氏の工房です。いろいろなおもしろい独楽を手に入れてきました。

●平泉
毛越寺浄土庭園
モウツウジと呼ぶのだそうです。

中尊寺
金色堂は金ぴかでした。

達谷窟毘沙門堂
坂上田村麻呂がつくったとか。岩窟から突き出るようにつくられた寺で、西の絶壁には大日如来が掘られていました。

厳美渓
前の日の夜にふった雨のために水が濁っていたのが残念です。地震のために吊り橋は渡れませんでした。

●水沢
高野長英記念館
日本の夜明けに生涯をささげた幕末の蘭学者高野長英も水沢の人なのです。

カトリック水沢教会
「奥州キリシタンの父」後藤寿庵の像があります。ここで日曜日のミサにあずかりました。
ペトロ岐部も水沢で捕まるのですが、残念ながらその足跡は残っていないのだそうです。

後藤寿庵廟
後藤寿庵は近代農業の先駆者といわれます。胆沢川の水を引いた「寿庵堰」をつくり、福原の地の潅漑に供しました。

後藤新平記念館
のちに東京市長になって関東大震災後の東京復興に貢献した「大風呂敷」後藤新平は水沢の人です。

●花巻
花ごころの宿「渡り」
花ごころが満ちたステキなホテルでした。こんな宿泊料でこんなステキなホテルに泊まれたことが夢みたいでした。「南部美人」というお酒にすっかり酔ってしまいました。

新渡戸記念館
5000円札の人新渡戸稲造父祖ゆかりの地に立てられた美しい記念館です。

宮澤賢治記念館
「イーハトヴ」というのは、銀河の空間、四次元宇宙であり、田園の風と光りに満ちあふれたドリームランド岩手のことをいうのですね。

花巻では高村光太郎にも会いたかったのですが、今回は残念ながらできませんでした。

●一関・登米市東和町
猊鼻渓
ここの渓谷美は他に類例を見ないものです。120メートルの絶壁に囲まれた川の流れを舟でゆったりと堪能しました。ガイドの船頭さんのトークと「げいび追分け」の歌に魅せられました。

東山町幽玄洞
3億5千年前の地層に属する日本最古の鍾乳洞なのだそうです。ウミユリや三葉虫などの化石が洞内から発見されています。

藤沢町大籠キリシタン殉教公園
ここで300人ものキリシタンが殉教しました。ここの資料館の展示もとても美しい。

東和町カトリック米川教会と三経塚殉教公園
藤沢町隣町の宮城県東和町米川でも殉教がありました。

スモークハウス道楽亭
藤沢町で燻製づくりにはげんでおられる佐藤さんから話を聞き、おいしい燻製を買いました。わたしも「燻製鍋」を買って「燻製づくり」を試みているので………。

どうですか?
充実した旅だったことがおわかりだと思います。
今回の旅は、わたしの「昭和の車」日産パルサーでの旅でした。カーナビが大いに役立ちました。
土産話の Good News は、少しずつ紹介していこうと思っています。




 

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2008年07月09日

いよのぼろぼろ本

 私の母は読書好きで、とくに吉川英治や司馬遼太郎がすきでした。私も本好きですが、それは母から受け継いだものなのでしょう。もっとも弟のほうが私よりはるかに読書量が多いのですが………。
 もう20年以上前になります。その年のクリスマスプレゼントは「池波正太郎 真田太平記 全15(?)巻」でした。古本屋で全巻セットを購入して贈ったらとても喜んでいました。
 しかもそれは、母だけでなく、教会の本好きのおばさんたち数人と私も含めて、先を争ってまわし読みをしていました。

 目はよいのですが、何せ「物忘れ能力抜群」なので、話の筋がちっとも覚えられずに「わけわかんない」はずなのです。それでも必ず寝る前には本を読みます。
 その本は、司馬遼太郎の「龍馬が行く」と吉川英治の「三国志」と決まっています。
 いずれも実はぼろぼろでばらばら寸前、ページもかなり脱落していますが、それでも読んでいます。
 母の入眠儀式なのですね。

 母を寝かしつけるときに、枕元に必ず「いよ(母の名前です)のぼろぼろ本」をセットし、「ぼろぼろ本を読んで寝ましょうね。おやすみ」と挨拶をしていくと、ものの三分とかからないうちに眼鏡をかけながら眠ってしまいます。
 そんな母を見るとますますいとおしさがつのってくるのです。
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2008年07月08日

「人力発電機」の話 その2

 7月7日に「アスレチックジムを発電所に」という提案を書いて「人力発電」についての提案をしましたが、今日のNHKの夕方6時台のニュースを見ていたら、すでに次のようなものは開発されているのだそうです。

1 人の足踏みから電気エネルギーを取り出そうとする装置
 これは駅の階段などの人通りの多いところの床に埋め込んで振動によって発電する装置です。
 靴底に埋め込んだらもっといいのではないかと思いました。あまり重いものだと足かせになってしまうけれど………。
 そういえば前にこのブログで紹介した電子ライターの発火装置の「ピエゾ効果」というのは、衝撃を与えると電気放電する装置だった。これも利用できるかもしれません。

2 声の振動から電気エネルギーを取り出す装置
 ケイタイ電話に埋め込んだら、充電する必要がなくなるでしょう。

3 太陽光発電装置を組み込んだプラスティック板
 今の太陽光発電板よりもずっと安価で変形可能なプラスティック板で、これならもっと簡単に安くいろいろなものに取り付けられる。服や帽子や日傘に組み込むこともできるのだそうである。

 こういう人の自然な動きから電気エネルギーをとり出すといってもそれはごく微量なのかもしれません。それを小さな充電池に蓄え、その充電池をつなぐと電気エネルギーをそこから吸い上げていくことができるシステムというのも必要になりますね。

 ずっと前にある本で、電気料金を変動相場制にして、みなが電気を使用するときには高くし、使用しないときには安くするというのを徹底したら、夏ピークは乗り越えられるという提案を読んだことがあります。
 電気を売るときにもこの変動相場にしたら、きっと電気料金が最も高いときに、人力発電システムが電気を売ろうとするはずです。

 

 
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新シリーズ 母の「介護」体験記 その1

 私の母は89歳。「母の『介護』体験記」という新カテゴリーを起こして、このシリーズを立ち上げることにした。これがけっこう「福音的な体験」なのである。

「要介護3」であるが、けっこう元気である。この年で薬は何も飲んでいない。医者嫌いの薬嫌いなのである。
 目もいいし、耳も悪くない。心臓が少し弱っているらしく、ちょっと動くとすぐに「苦しい」と言い出す。
 笑顔のかわいい明るいおばあちゃんである。外へ出て行くと、愛嬌と笑顔を振りまき、けっこう人気者でいつもまわりから「ちやほや」されている。息子としてはこの「かわいいおばあちゃん」が少々誇らしい。「自慢の母」なのである。

 私は仕事を辞めて今は晴れて自由の身になって、その「自由」を謳歌しているが、その自由時間のほぼ半分を使ってこの母とつきあうようになった。
 そしてその母とつきあえばつきあうほど、母がいとおしくなるのである。もうこれは「いとおしい」という感情以外の何ものでもない。

 目も耳もいい母だが、物忘れははげしい。5分前のことをすっかり忘れるのである。脳が萎縮して最近のことを記憶する領域が失われてしまっている。
 父を亡くした4年くらい前からの記憶はまったくない。だから父はまだ生きていると思うことが多く、しばしば「お父さんはいつ帰ってくるの?」と聞いてくる。そのたびに私は「お父さんは4年前に死んだんだよ。ほらあそこに書いてあるでしょう。写真もあるし」と笑いながら答える。もう何百回と答えたか。
 ただし、私は母に「お母さんはしあわせだよね。目も耳もいいし、それに物忘れ能力が抜群だし………」と誉める。

 母は、私の隣の家で寝起きしている。食事はいつも一緒で母を寝かしつけてから、自分の家に帰ってくるのだが、そう簡単に母は寝ない。
 寝かしつけたと思ったら、パジャマ姿で私の家のドアフォンを「ピンポン」と鳴らしてやってくる。
「どうしたの?」ときくと「明日の朝は何時に起きたらいいの? 朝食は別々にするの?」と聞く。
「朝は7時半に起きるんだよ。7時半にそちらに行っておこしてあげるから。朝食の準備は私たちがするから、ごはんを炊かないで待っていてね。」と丁寧に答えて母を寝床につれていく。
 ごはんを炊かれると大変なのである。鍋は焦がすし、水加減はいいかげんだし、火災の危険はあるし……。3人で食事をすると3合を必ず炊いてしまう。私たちが子どものときの感覚でいるのだ。
 また5分後にピンポンとやってくる。「わかんなくなっちゃった。わたしはどうすればいいの? 明日は何時に起きるの?」と前と同じことを聞く。
 今までの記録では「12ピンポン」というのが一番多い。平均すると「5ピンポン」くらいか。いつも9時半から10時くらいに寝かしつけるのだが、おそくなると11時半になることもある。
 ただしけっして、「もう何度目だと思っているの」とか「今何時だと思っているの」とかきつく詰問調でいってはならない。そういうとかならず母の「嘆きのサイクル」がまわりだす。
「すっかり頭がバカになって、もうこんなじゃ生きていてもしょうがない。死んじゃいたいよ。」といいだすのである。
 その「嘆きのサイクル」に入ってしまったときは、いすに座らせて母の好物のお菓子やキャンディーを与える。
 そしてこういう。
「ね、おいしいでしょ。こういうおいしいものを食べると生きててよかったと思うでしょ。もう死にたいなんて思わないでしょ。」ということにしている。
 だいたい5分たてば忘れて、再びニコニコし出すから、ことはそう深刻にはならない。「物忘れ能力が抜群」ということは幸いなことであるのだ。
 「これで6ピンポンだけど、何度きてもいいよ。」といってそのつど母の手を引いて、寝床に案内する。
 母はちょっと足元がおぼつかない。しばしばよろけたり、よたよたする。そういうときは「よたいよ(よろいよ)さんなんだから気をつけてね。」(母の名前は依代(いよ)さんなのだ。実にいい名前だと思うのだが、母はこの名前を気に入っていない)
 ともかく、この母の「パジャマ姿のピンポン」をどうしたら少なくできるか、どうしたら母を早く寝かしつけるか、その『試行錯誤』を楽しんでいるのである。もちまえの「こーしたらどーなる?の実験精神」がこんな所にも現れる。

 年老いた母を受け入れるということはこういうことなのだと思う。

 夜寝る前に限らず、食事を食べるときには「どうおいしい?」と聞く。「おいしい」と答えたら、「ね、生きていてよかったでしょ。こんなにおいしいものが食べられて」と確認をする。
 しばしばこうも言う。「お母さんはしあわせものだよね。こんなにいい孝行息子と嫁と孝行娘を持って。こんなに親孝行な子どもはそうめったにいないよ。こんなにいい息子と娘がいるのに、死んじゃいたいなんていう『息子不孝』なこと思わないよね」
 
 妹は、秦野の農家に嫁いでいるが、この妹も実によくできた嫁であり、また娘である。嫁ぎ先で母と同じ歳の義理の母を「介護」しているのだが、1週間に1回は2時間近くをかけて実家に帰ってきて、実母の相手をする。長男の私は実に大助かりなのである。
 なんとよくできた妹なのだと惚れ込んでしまう。嫁ぎ先でも「とてもよい嫁さんで」と誉められるので鼻高々で「自慢の妹」なのである。
 もっとも最近は妹が帰ってくると、母をそっちのけで
「数独パズル」のときくらべをしているのだが……。

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2008年07月07日

「ひめゆり」上映会の柴田監督の話

 「カトリック映画賞」受賞作「ひめゆり」の上映会が7月4日に行われました。
 この映画は沖縄戦の「ひめゆり部隊」の生存者たちの証言をつづったドキュメンタリー映画です。

 私は、映画賞選定のときに見たので2度目になります。でも1度目に見たよりも2度目に見た方が感動がずっと大きかったのです。
 1度目に見たときは、上映時間の2時間10分が長くて、終わりの方では「まだ続くのか」という気持ちを抑えられなかったくらいでした。
 でも2度目はそうではなかったのです。むしろ「もう終わりか」という感じでした。そして感動も2度目の方がずっと大きかったのです。これは、大きなホールでたくさんの人と見たというのがあるかもしれませんが、それだけではないようです。ある人は「私は3度目だけれど、3度目が一番良かった」という人もいたくらいでしたから。

 この映画のあと「ひめゆり」の映画監督の柴田昌平氏の講演がありました。そのなかで印象に残った話を紹介しましょう。

 このドキュメンタリーを撮影編集するに際して、心がけたことが2つあります。
 ひとつは、「ひめゆり」生存者のかたがたに、できるだけ現場に行って語ってもらうことにしたことです。映画にはナレーションも解説もバックグランドミュージックも入りません。語りたいことを語りたいだけ語ってもらい、カメラを止めませんでした。誘導尋問みたいなことはせずに語られたことをそのまま受けとめるようにしました。
 もうひとつは、この証言には「うらみぶし」がないのです。日本軍やアメリカ軍を告発するような証言がなかったということです。恨みや告発よりも、自分が生き残ってしまったことに後ろめたさをかかえていて、それが次の世代に託す想いとなって暗い過去に立ち向かっている姿は、むしろ「人間の尊厳や美しさ」を感じさせます。これは希望の映画なんですね。


 今回の「カトリック映画賞」の候補作は「夕凪の街 桜の国」「日本の青空」「陸に上がった軍艦」「花の夢」でした。いずれも戦争物で、いずれもそれぞれに感動的でいい映画だったと思います。
 でも、この監督の話を聞いて、この「ひめゆり」をカトリック映画賞として選んだのは正しかったと確信を持つようになりました。

 お近くで上映会が開かれたおりには、ぜひご覧ください。この監督の話を聞いて見るとまた感慨も異なってくると思います。 

 


 

 
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アスレチックジムを発電所にするというのはいかが。

 クリーンなバイオ発電システムとして「人力発電所」というのはいかがでしょうか。

 人間は、えらく熱効率のよいエネルギーを生み出します。これだけの食べ物でこれだけのエネルギーとパワーをつくりだすのです。
 これを利用するとしたら、アスレチックジムですね。ここでは走ったり筋力トレーニングをしたりしています。これがただ単にダイエットや自分の運動能力を高めるためだけに使われているのは、もったいないことです。
 それぞれのトレーニング装置に発電機をつけて発電すれば、けっこう発電量があるのではないでしょうか。
 学校の体育館にもこういう装置があるといいかもしれません。もっとも発電量の多いトレーニングを工夫するのがいいでしょう。

 運動不足でメタボになっている方には、運動不足解消、メタボ防止にもなるし……………。メタボと診断された人には一定程度の運動発電を義務づけたら、生活習慣病予防にも役立つし、一石二鳥だと思うのですが……………。

 ただ、夏には空調をつけないといけないので、これはどうなるのだろう。空調で使用する電力の方が発電量よりも多くなってしまったら、意味がない。
 冬は暖房なしでもいいでしょう。動かないと凍死してしまうくらい寒い方が必死になる。

 これってよく考えると、古代のガレー船かピラミッド建設の時のような奴隷労働に似ているような気もするのですが……………。
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2008年07月05日

カトリック映画賞「ひめゆり」上映会は「おんのじ」でした。

 以前ご案内した「カトリック映画賞」作「ひめゆり」の授賞式及び上映会が昨日(7月4日)に中野ゼロ小ホールにて行われました。

 この内容については改めて報告することにしまして、先ずはその成果から報告することにいたします。

 今回はチケットの売れ行き具合がいまひとつで、どのくらいの方が入場していただけるか危ぶまれました。
 わたしが、上映会の前に
「200名入場したら『おんのじ』で250名入ったら『万々歳』だ」
といったら、だれかが、
「その『おんのじ』とはいったいどういうことばだ。その語源が知りたい。これはブログネタですね」
と言われました。
 またまた誰かが言いました。
「きっとそれは『恩を仇で返す』の『恩』からくるのだ。つまり『感謝すべきこと』の意味でしょう」
というのです。

 それでその期待に応えて、帰ったらさっそく調べてみました。

 御の字とは、非常に結構な物・こと。きわめて満足なこと。ありがたいこと。
 御の字の「御」は、尊敬の意を表したり、名詞の頭に付けて丁寧に言うときに用いる。
その「御」の字を付けたくなるほどありがたいという意味で、「御の字」という言葉が生まれた。
もとは遊里から出た言葉で、江戸時代初期から見られる。


 結果的には「おんのじ」だったのです。「万々歳」までには至らなかったようです。
 参加者の一人の方のこういう反応が耳に入りました。
「もっと友だちを誘えばよかったね」
 中野ゼロホールは550名入れるのだそうです。だから今回は空席が目立ちました。
 きっとその方は、このようないい映画をこんなに空席を残してしまうのがもったいないという気持ちがこもっていたのかもしれません。
 それくらい「いい映画だった」ということだったと思います。
 
 私ももっとたくさんの友人たちを誘えばよかったと後悔することしきりでした。

 特に、監督の柴田昌平氏の講演がまたよかったと思いますが、これについてはまた改めて書くことにしたいと思います。
 この映画はまた各地で上映会があると思います。お近くで開かれるチャンスがありましたならば、ぜひお見逃しなきように願っております。
 

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