
水沢で高野長英記念館を訪れました。
この人物は驚くべき生き方をした蘭学者で、今回の旅で出会いたい人物のひとりでした。
記念館のパンフレットにあった高野長英の生涯を紹介しましょう。
高野長英は1804年水沢で生まれ、世界に目を開き日本の夜明けのため生涯をささげました。
17歳で江戸に出てオランダ医学を学び、さらに長崎に行きシーボルトの鳴滝塾において、医学と蘭学を学びました。
その後、江戸に戻り、開業医をしながら翻訳を続け、庶民の要求に応える学問を続けました。
1838年「戊戌夢物語」を書き、これが幕府を批判したとして投獄されました。1844年に脱獄し、数多くの門人や宇和島・薩摩藩主に守られ、潜行千里、その間も医療や天文学、兵学などの著訳に力を傾けました。
そして、薬品で顔を焼き、人相を変えて医療を続け、1850年10月30日江戸青山百人町で英雄的な最期を遂げました。47歳でした。
長英は後藤家の生まれだが、9歳の時母の実家である高野家の養子となった。高野家は蘭学の素養を持った祖父や養父がいて、彼らを通じて蘭学を学んだ。この少年時代の環境が長英の生涯を切り開いたわけである。
しかし、水沢で蘭学医をするにとどまらず、彼の目は世界に開かれていく。17歳で江戸、さらに22歳の時に長崎のシーボルトを訪ねて鳴滝塾で学び続ける。
鳴滝塾におけるシーボルトの教育方針は、弟子たちに日本研究をさせて発表させるというものであった。シーボルトが持ち帰った弟子たちのオランダ語論文43点のうち11点は長英の論文であった。
長英の論文は、「活花の技法について」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」、「小野蘭山『飲膳摘要』(日本人の食べ物の百科全集)」、「日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法」(2)、「日本古代史断片」、「都における寺と神社の記述」、「琉球に関する記述(新井白石『南島志』抄訳)などで、日本の歴史、地理、風俗、産業などシーボルトの日本研究の基礎資料となるものであった。
長英は「鯨油および捕鯨について」という博士論文を書きシーボルトよりドクトルの称号を受ける。
シーボルトはドイツ人であったが、オランダ人になりすまして日本に滞在した。日本地図を持ち出そうとして幕府の禁に触れ、スパイ容疑で国外追放となる。いわゆる「シーボルト事件」である。
弟子たちはシーボルトのスパイ行為を助けたとしてこの事件に連座する。
たまたま旅行中で難を逃れた長英は、長崎を離れ江戸に行く。途中大分県の日田の儒学者広瀬淡窓を尋ねたとされている。広瀬淡窓の塾「咸宜園」を出て世に名をなした人及び門人の名簿に高野長英の名が載っている。
水沢の高野家は、養父が亡くなったために、長英に跡を継がせようとしたが、長英は江戸にいて学業を継続したいという意が強く、高野家と絶縁するしかなかった。
江戸において、長英は町医者を開業する傍ら、著述をおこない日本初の生理学書「医原枢要」や飢餓対策の書「救荒二物考」流行病対策の書「避疫要法」を著した。
「救荒二物考」は天保の凶作に際して、庶民の窮乏を救うため、早ソバと馬鈴薯(じゃがいも)の栽培をすすめたものである。長英の学問的態度がこれらの書によく表現されている。
またかれは「尚歯会」に加わった。田原藩の家老渡辺崋山、岸和田藩医小関三英、江川太郎左右衛門らの洋学者とともに、内外の情勢を研究しようとしたグループの歴史的呼称である。
そのはじまりは、天保3年(1832)ごろ、崋山、長英、三英らの交友にはじまり、その後、当時打ち続いた大飢饉の応急対策を練ったりした。
このグループは単に洋学の研究にとどまらずに、その当時の世界と日本の将来を考える政治結社であった。

この尚歯会の集まりの様子を渡辺崋山が描いている。「尚歯会」の集まりの後、仲間で囲碁をうつ風景を描いた図。立っているのが渡辺崋山で、その前で碁石を持っているのが高野長英であると伝えられる。
日本人漂流民を日本に届けるべく江戸湾に現れたアメリカ商船モリソン号を浦賀奉行は砲撃を加え追い払う、いわゆる「モリソン号事件」に対する幕府の対応を批判した、長英の「戊戌夢物語」、渡辺崋山の「慎機論」を口実に「蛮社の獄」が起きた。長英は「永牢(終身刑)」となる。
長英は、1844年江戸小伝馬町の牢屋敷が火災に乗じて脱獄し「天下のお尋ね者」となるのである。
逃亡中、長英は諸国の弟子たちを訪ね、また故郷水沢にもたちよる。さらに宇和島の開明的藩主伊達宗城や薩摩藩主を訪れるが追跡の手が回った。
逃亡中金比羅神社で心情を記した詩が紹介されていた。
暦日春に入って未だ春を見ず
ただ看る満眼の菜花新たなるを
問うや君 拝廟果たして何の意ぞ
これより東方の第一人たらん
彼の目は「アジアの第一人者」として世界をながめていたのである。
また門人に送った手紙に、西洋のことわざを歌にしたものがある。
たえねばや はてはいしとも うがつらん
かよわきつゆの ちからなれども
大阪に滞在したときに彼は顔を硝酸で焼き、顔を変装して江戸にもどることを決意する。
江戸では「沢三伯」と名前を変え、江戸青山百人町に町医者を開業し、翻訳や著述を継続する。
しかしついに追捕の役人の手がまわり、1840年自害する。47歳の生涯であった。ペリーが浦賀に来日し日本が開国する四年前のことであった。
顔を変装してまで江戸に帰ろうとしたのはなぜだったのか。国家の危機を感じ取り、それに対する自らの使命を感じ取ったからなのだろうか。
長英の死を悼んで詠った江川担庵の句があった。
里はまだ夜ふかし富士の朝ぼらけ
posted by mrgoodnews at 12:11|
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