21日の日曜日のミサの朗読聖書は「ぶどう園の労働者」の話(マタイ20章1〜16節)だった。
このたとえ話は「神の国とはこういうところだ」と説明されたイエスのたとえ話である。
いちおう全文を引用してみよう。聖書にはこんな話が載っているという、もっともイエスらしい「たとえ話」であると思う。
天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
さてこのたとえ話を読んでどのように感じられただろうか?
「朝から働いた労働者と夕方から働きだした労働者との賃金が同じだなんて、なんて不公平な話なんだ」と思われたに違いない。普通はそう思うものである。
この話は「放蕩息子」の話とともに、イエスの教えのなかでもっとも逆説的なそしてもっとも理解しにくい所かもしれない。だからこそ、ここにイエスの教えの真髄が表れる。
このたとえ話ほど、これを読んでいる読者の視点が問題となるところはないのではないかと思う。
私たちは知らず知らずのうちに、ある立場,ある視点からこの話を読んでいる。このたとえ話では私たちの視点はたぶん朝から働きだした労働者の視点に立つであろう。だから夕方から働きだした労働者に同じ賃金が与えられたことに不公平だと思う。
もしこのたとえ話を、夕方から働いた労働者の視点に立って読んでみたら、何を感じるだろうか?
今日も仕事からあぶれてしまった。家で待っている家族や子どもたちのために食べものも満足に買ってやれないと途方に暮れていたはずである。そこにぶどう園で働きなさいと言われ、そして一日分の賃金が支払われた。そのときの安堵の気持ちはいかばかりであったのか。
この話を釜が崎の労働者とともに読むとかれらは「イエスさんはオレたちのことをよくわかってくれる」と涙を流さんばかりに喜んだという話を聞いたことがある。
中学3年の生徒とともに「放蕩息子」の話(ルカ15章11〜32節)を読んだことがある。その話を読んだあとに生徒たちに「この話の中の登場人物のひとりになって、その日の日記を書いてごらん」という課題を出した。
すると3分の2近い生徒が「兄の日記」を書く。
「じゃあ、今度は弟の日記を書いてみて。もし書きにくかったら父親の日記でもいい。それも書けなかったら、召使いの日記でもいいよ」
つまり、ここでも「視点」の違いによって感じ方がこのように違ってくるということが如実に表れる。
前に視覚障害を持った教育実習生の「よきサマリア人」の聖書の授業を紹介したことがある。あれもこの「視点」の違いによる読み方の違いがよくあらわれていた。
私たちは知らず知らずのうちに「ある視点」にたってこの話を読むものである。その話の登場人物の誰かに自分の視点を同一化してみるか、あるいは傍観者的に見るであろう。自分の感じ方も、そのちらず知らずのうちにその「視点」によって異なってくるのである。
あえて「視点」を変えて読んでみて初めてその話の言わんとすることがわかってくる、聖書にはこういう話がけっこう多いのである。
ところで。「ぶどう園の労働者」の話の最後の「遅く来たものが先になり………」という例を考えてみてほしい。こういう例はけっこう見つかるものである。
たとえば、日曜日の教会の席は後ろの方から埋まってていく。ミサに遅れてきた人は前の方の列しかあいていないということが多い。
コンピューターの世界にはじつは「あとのものが先になる」という例はけっこう多い。古いコンピューターを使っている人が苦労してできたことを最新のコンピューターはいとも簡単にやってのけることも多い。これなんかその最たる例であろう。
教会ではこんな例がよく挙げられる。生まれてすぐに洗礼を受けたものも、死ぬ直前に臨終洗礼を受けたものも、神さまの前では平等であるということになぞらえる。むしろ臨終洗礼の方が洗礼によって罪が清められているから天国に早く行けるのである。こういうのを教会では「天国どろぼう」などとあしざまに言う人もいる。
posted by mrgoodnews at 22:48|
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