2008年12月29日

白木屋で忘年会をしていたら。

 26日にあざみ野の白木屋で「おもしろ科学たんけん工房」横浜北地区の忘年会を8名でしていました。
 少し早めに6時ころから始めていたら、隣のボックスにやってきたのは、小学4〜5年くらいの子どもたち数人でした。
「え〜っ。ここはファミレスじゃなかったよな。子どもたちだけで来るところではないぞ」
「その隣のボックスにいるのが母親のグループらしい。親子連れで来ているんだ。父親はみな忘年会で楽しんでいるんで女どももという感じだな」
 なるほど、となりにいるのは母親らしい。お酒を飲んで勝手におしゃべりをしているが、時どきちらっと子どもの方を見ているので、それとわかる。

 席に着くとこどもたちはめいめい勝手に遊びだした。男の子たちは、ケイタイをいじったり、マンガを読んだり、ゲームをしたり、女の子たちは隣の女の子同士でおしゃべりをしている。
 子どもたちは同学年のように見えるので、これは学校か塾のつながりのように推測されるがどうだろうか。それともスポーツクラブの父兄か。

 居酒屋のファミレス化である。そういえば、札幌で行った庄屋では入口にゲーム機がおいてあったのを思い出した。改めて店内を見渡してみると、家族連れが若干いる。ファミレスだとお酒を飲む雰囲気ではないので、ちょっと飲みたい両親は子どもを連れて居酒屋に流れてくるようである。だから最近の居酒屋ではお子様メニューもそろえているらしい。
 たしかに居酒屋メニューの方がファミレスよりも変化に富んでいるし、おいしいと思う。

 ところでこういう雰囲気と両親のもとで育った子どもたちはその後どうなるのか、興味あるところである。
posted by mrgoodnews at 18:23| Comment(0) | 町・風景・自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

坪内稔典の俳句

 12月7日の「トーキング・ウィズ・松尾堂」で日本語学者の金田一秀穂さんが坪内稔典という人の俳句を紹介していた。これがまたおもしろい。川柳ではなく、俳句でこんな読み方もアリなんだと思った。このひとの俳句集を探して読んでみよう。

この番組で紹介されたのは

3月の甘納豆のウフフフフ

タンポポのポポのあたりが火事ですよ

たぶんだがイソギンチャクは義理がたい


という句でした。
 この人は、仏教大学の先生で、日本でたった一人の人間になりたいという思いから、日本中のカバに会うということを試みたのだそうだ。それで「カバに会う」という本を書いたという。
 さっそくこの人の本の予約を横浜市立図書館のネットワークにいれておいた。今度図書館に行くのが楽しみである。


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2008年12月25日

最高のクリスマス・プレゼント

 ドン・ボスコ社が毎年クリスマスに向けて、小さなパンフレットをつくっている。私の教会ではクリスマスに初めて教会に来た人にその美しいパンフレットを配布している。
 これは去年発行された「私の中のクリスマス」に載っていた詩である。

最高のクリスマス・プレゼント
         オーエン・アーノルド

あなたの敵には…………ゆるし
競争相手には……………ゆずる心

友人には…………………こころ
お客さんには……………サービス

すべての人に……………愛
すべての子どもに………よい手本

あなた自身に……………尊敬


 残念ながら、この詩の作者がどういう人物かはわからない。
 しかし、確かにこれらは最良のプレゼントだろう。とくに「あなた自身に……………尊敬」というのが最高だと思う。

posted by mrgoodnews at 00:49| Comment(0) | 福音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

クリスマス・ポスターをつくりました。

 クリスマス・ポスターをつくり、私の家の前にはりました。もしよろしかったら、コピーしてお使いください。
 ブログの容量制限にひっかかってしまったので、ちょっと小さくなってしまったのが残念です。

クリスマスポスター
 この中の詩は以前にも紹介したことがあります。

 背景の木の写真は、ヒイラギモチです。ヒイラギはモクセイ科で、黒い実をつけますが、ヒイラギモチはモチノキ科で、美しい赤い実をつけます。クリスマスに用いられるのは、このヒイラギモチです。

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2008年12月23日

クリスマス(キリスト降誕)の詩

 ドン・ボスコ社の「クリスマス 本当のはなし」という小冊子に次のような詩が載っていました。クリスマスの意味を考えるのにとてもよい詩だと思います。

キリスト降誕


彼は小さな赤子になられた、私たちを理解するために
彼は貧しくなられた、私たちの仲間になるために。
彼は来られた、支配するためではなく、意味をもたらすために
罪に定めるためにではなく、ゆるすために
抑圧するのでなく、魂を解放するために
屈服させるのではなく、真実の無私の愛を
私たちに教えるために。

He came as a tiny babe, to better understand us
He was born poor, to be one of us.
He came
not to dominate, but to motivate
not to condemn, but to forgive
not to oppress, but to free our souls
not to compel, but to teach us
the truest measure of unselfish love.

      (作者不詳/佐倉泉訳)


 こういう詩は、日本語への翻訳が難しい。英語の方がこういうのを表現するには適しているような気がします。
 たとえば
not to dominate, but to motivate
は韻を踏んでいるのでしょうが、motivate は動機づけるというのですね。「意味をもたらす」という表現が適当なのかどうか。といっても他によりふさわしい表現が見つからない………。
 また
not to compel, but to teach us
the truest measure of unselfish love.
の compel は「屈服させる」というよりも「押しつける」とか「強要する」とした方がよりいいのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
posted by mrgoodnews at 23:15| Comment(0) | 福音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月21日

いよさんと「くみくみスロープ」

 「くみくみスロープ」なるおもちゃを見つけました。59ピースのパーツを組み合わせて、上からボールを落とすとそのボールがあっちへ行ったりこっちへ行ったり、風車をまわしたりしながら落ちていくのを楽しむゲームです。

 kumon が開発したものです。さすが kumon ですね。大人がやっても結構楽しめます。うまく組み合わせないと途中で止まってしまったり、下に落ちてこなくなります。うまく組み合わせるといろいろとおもしろい落下のしかたをします。


こども宇宙科学館 そういえば横浜の子ども宇宙科学館にはこれの大規模なものがありました。結構これがおもしろくてなかなか飽きずにずっと見とれてしまいました。
 この「くみくみスロープ」はあれをパーツにして自分で組み合わせて楽しむことができるものでした。


くみくみ さっそくいよさんと楽しみました。いよさんには今のところ、それを自力で組み立てるということはできません。でもなんどもなんどもボールを落としては驚いて、楽しんでいます。
 なんとか簡単なものを自分で組み立てられるようにチャレンジしていますが、少し難しいようです。
 まあ、落下していくものを楽しむだけでもいいといえばいいのですが………。

 今度ボリュームアップセットを買ってきて、さらにおもしろい動きができるようにしようと思っています。
 いよさんと楽しめる、こども用のおもしろいおもちゃを紹介してください。
posted by mrgoodnews at 21:08| Comment(0) | 母の「介護」体験 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いよさんとジグソーパズル

 母のいよさんは、89歳。記憶障害(私たちふうにいえば「物忘れ名人」)で、3分前にしていたことを忘れてしまい、ときどき「わけわかんなくなり」「私はどうしてここにいるの? もうかえらなくちゃ」といい出す。
 わたしたちは「どこへかえるの? ここはいよさんのうちだよ。ほら、お父さんの写真もあるし、ここにあるものはみないよさんのものだよ。」というのだが、そういうと、いよさんはあたまをかかえて、ともすると「こんなに頭が悪くなってしまって、もう生きている意味がない。死んでしまいたい」みたいなことをいう。

 いよさんが、そういうサイクルに入らないように、そういい出しそうになると、私たちがすることはいくつかある。
 ひとつは、おいしいお菓子、特にいよさんの好物を出して、「そんなこといわずにこれでも食べて元気を出そうよ」と言う。
「ねえ、おいしいでしょう。こんなにおいしいものを食べられるなんて幸せだよね」というと、いよさんもすぐに「死にたい」なんて言おうとしていたことをわすれてくれるのである。
 いよさんのお菓子好きと食欲に救われるのである。

 もうひとつ有効な手だてがある、それはジグソーパズルである。
 10年ほど前には、よく父と母と子どもたちで400ピースとか600ピースほどのジグソーパズルを、夜を徹して完成させたものである。
 しかし、いまのいよさんにはそんな複雑なことをするだけの根気も集中力もない。100ピースほどのジグソーもほとんど子どもたちがやってしまって、いよさんはそれを見ているだけになってしまった。
 それで、いよさんが単独でできるジグソーパズルを探してきて、やらせることにした。

ジグソー 簡単そうなジグソーパズルを探してきてやらせているうちに、もっともシンプルな20ピースもので、文字と絵が入っているものは何とか自力で完成させることができるが、絵だけだとかなり難しいということがわかった。解説には3歳の子供用と書いてある。
 絵だけの20ピースものができるかどうかの分かれ目であることが、判明したので、あれこれと探してきてはいよさんとすることにした。

 完成すると「できた!」といって、単純に喜んでくれる。その喜び方がとてもかわいく、いとおしいのである。
posted by mrgoodnews at 20:35| Comment(0) | 母の「介護」体験 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こんな若い女性を観察してしまいました。

 今日、家に帰る途中、バスに乗っていました。
 私が座っている座席の前で、若い女性が柱につかまってたっていました。着ているものもきまっていて、スタイリッシュでとてもかわいい女性でした。年のころ、二十歳くらいと思われたその女性はとても疲れているらしく、柱につかまりながら、立っていねむりをしているのです。
 もうしわけないなと思いながら、その女性を観察してしまいました。

 彼女は、柱にもたれて寝ています。はじめはしっかりとは柱につかまって、しゃんと立っているのですが、そのうちに下を向いて寝てしまいます。だんだんと顔をが下を向いて、ときどきがっくりとなり、はっとおきてまわりを見渡すのですが、まだ降りるところではないと知るとまた目をつむって寝てしまいます。これを何度も繰り返しているのです。
 ほんとは席を譲って「おつかれでしょう、どうぞおすわりくださいな」と席を譲ってあげられたらかっこよかったのですが、いけないことと知りながらも観察してしまいました。
 見てはいけないものを見てしまったような、後ろめたさを感じているうちに、私の降りるバス停に近づいたので、私は降りました。彼女ははれて座席に座って眠ることができたようです。

 その後、彼女は寝過ごすことなく目的地でおりられたかどうかはわかりません。
 でも、おもわず彼女の幸せのために祈りつつ、わたしはバスを降りたのでした。

 なにげない一日のささやかな楽しみでありました。さすがの私も、デジカメには撮りませんでしたよ。
 
posted by mrgoodnews at 19:45| Comment(0) | 町・風景・自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月20日

「SWING!」という動く絵本のしかけ


swin7 私は、めったに本を買わないようにしていて、本は図書館で借りる主義なのだが、ついにこの絵本は買ってしまった。「SWING!」という動く絵本である。
 ページをめくると、あ〜ら不思議、スクリーンに映し出される絵が動き出す。


swing4 この本は「A Scanimation Picture Book」という説明がある。
 野球のバッティング、サッカーのキック、自転車乗り、ランニング、逆立ち横転、フィギアスケート、バスケットボールのシュート、バタフライ、そしてチアガールのシルエットがそれぞれ、ページをめくると動き出すのである。


swing3 格子状のスクリーンと下絵の組み合わせで、絵が動き出すというのはわかるのだが、どんな仕掛けになっているのか、絵本をバラして調べてみたくなった。






swing2 写真のようなスクリーンと下絵がある。下絵が細い縦線によって描かれている。ページをめくることによって下絵が引っ張られ、少しずつ移動していくと、動きがあるように見えてくるのである。

 なかなかよくできていると思う。コンピューターを使えば描けそうな気がする。いつか試みてみよう。
 それに何かに応用できそうな気もする。
posted by mrgoodnews at 00:45| Comment(1) | 本、映画など感動のメディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月19日

アフリカの言葉には「have(所有する)」にあたる言葉がない

 もうずっと前になるが、学校でサンガ・ンゴイ・カサディさんを呼んで中学3年生に講演をしてもらったことがあった。サンガさんはザイールの出身の気象学者、現在は立命館太平洋大学教授である。

 その話の中でもっとも印象に残ったことは、アフリカのほとんどの言葉には、ものを所有するという意味での英語の have にあたる言葉がないのだという。
 ということは私有の概念がないということである。アフリカのことばでは、それは「ものとともにいる」という表現になるのだそうである。

 土地も財産も個人のものであるという概念がなく、みんなのものという共有の概念になるとしたら、本来「持てるもの持たざるもの」という差別も階級も貧富の差も生まれない社会であるはずだったということであろう。
 これも西洋の植民地主義がもたらしたということなのか。
 考えさせる指摘であった。
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2008年12月17日

今ごろ見つけた黒い実のなる木や草

 前の学校にいたときに、例の生物の先生がこんなことを言っていた。
 秋から冬にかけて、鳥たちが食べる木の実は、最初は赤い実で、それがなくなると次が黄色の実で、それも食べつくしてしまうと最後に黒い実を食べるというのである。そうかなと思えないところもあるのだが、この話はもっともらしい。

 ここのところ黒い実がよく目につくので、今回はそれを集めてみた。


ムク3 まずムクノキ。これは前にも紹介したことがある。よく探してみるとこの木は結構あちこちにあり、その木の下を見ると黒い実がたくさん落ちている。この木の実は甘い味がして鳥もよく食べると見えて、あちこちにこの木が小さく芽生えているのを見る。



クスノキの実 クスノキ。この木は大木が多く、木の上の方で実をつけるのであまり目立たない。この写真は歩道橋の上から撮影したものである。こうやってみると緑と黒のコントラストも悪くない。ヤブニッケイもこれに似た黒い実をつける。


シャリンバイの実 シャリンバイ。私の家の垣根にある木である。花もつけていて、花期が長く、実と花が同時につく。この果実は熟すと多少白い粉をふいた黒色になり、樹木図鑑には食べられるとある。樹皮に多くのタンニンをふくみ、エキスは染料に使うとのこと。


イヌツゲ イヌツゲ。モチノキ科。枝の萌芽力が強く刈り込みがきくので庭木としてきれいに剪定することができる。ソロバンのたまや印章、櫛に使われるツゲはツゲ科で、石灰岩地に好んで生え、成長が遅く材質が堅い木である。


ヒメヤブラン ヒメヤブラン。ユリ科。この実は熟すと光沢のある美しい黒い実をつける。街路樹の下草として植えてあるのを見つけた。花は7〜8月にピンク色で半開きで上を向いてつける。
 オオバジャノヒゲとよく似ているが、こちらは、花が白く下向きに花をつけ、実もコバルト色の実をつけるので区別できる。
 

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2008年12月15日

白滝によったら黒曜石があった


黒曜石 テレビで黒曜石の話をしていた。この石は黒光りのする堅い石で、昔は弓矢の鏃やいろいろな道具に使われていたというものである。
 このテレビを見ていて、私の学生時代の北海道遊説旅行を思い出した。

 私は学生時代に弁論部というサークルにいた。その話はまたいずれ書きたいと思うのだが、大学1年の時に北海道遊説旅行なるものに参加し、北海道の各都市で遊説(駅頭で演説をする)をしてまわった。いまから40年ほど前のことで北海道の均一周遊券が学割で5000円だった時代である。
 その旅行の途中、時間調整か何かで石北本線の白滝という駅でたまたま降りて町に出た。さびしい町で何にもなかった。駅前のパチンコ屋が大音響で流していたバーブ佐竹の「女心のうた」が耳に残っている。
 町中を散歩していたら、道路の砂利が目に入った。黒光りのする黒曜石が一面に敷き詰められていたことを発見したのである。
 一緒に行った仲間たちにそれを指摘したら、彼らは別に何の興味も示さなかったが、わたしはそこからいくつかを拾っておみやげにしようともって帰った。あとで札幌のおみやげ店によったら、この黒曜石が土産物として売られていたのを発見した彼らはとても悔しがっていて、わたしは優越感に浸ったものである。

 あとで調べたところによると黒曜石は全国のいくつかの所に産地がある。信州の霧ヶ峰高原や和田峠、伊豆天城、箱根などにも産地があるという。北海道では十勝石といわれているそうである。

 だいたい黒曜石を砂利代わりの敷石にするなんて、堅くてとがっているので、車のタイヤにはいいはずがないと思い、あの記憶は単なる幻想だったのかもしれないと不安になった。
 そしてあれから30年たって旭川を訪れたときに、友人から車を借りてオホーツク海を見に行く途中、その思い出の白滝にたちよった。
 記憶にあった町とかなり様変わりがしていたのだが、わたしはさっそく駅前の駐車場にしかれていた砂利の中を探してみた。すると細かく砕いてあるが、たしかにその砂利の中に黒曜石が混じっていたのである。
 あの記憶はまちがっていなかったというわけである。
 今はこの町は黒曜石の産地として売り出そうとしていて、「白滝黒曜石ジオパーク構想」なるものを計画中であるという。
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2008年12月12日

哲学者アランの卒業試験

 「聞き上手話し上手」(草柳大蔵著 講談社現代新書)を読んでいたらこんな話しが紹介されていた。

 フランスの作家アンドレ・モロアの哲学の先生はアランだった。「幸福論」や「精神と情熱に関する81章」の著者で「神を信じるものも信じないものも」という「人民戦線によるレジスタンス」を呼びかけた人でもある。
 ルアンのリセの教授であったアランはモロワの卒業試験として次のような問題を出した。

「いま、ここに人生に絶望した一人の女性がその運命をはかなみ、セーヌ川に身を投じようとしている。君はなんと言って彼女の自殺を思いとどまらせるか?」


 たしかにこれは卒業試験にふさわしい哲学の「究極の問題」の一つであろう。

 これに対する一つの答は、アメリカの「いのちの電話」が持っている。アメリカの電話には数字のほかにアルファベットがふってあって、FRIENDとダイヤルするとこの「いのちの電話」につながる。
 ここにつなぐとボランティアの女性が受ける。
「どなた……」
 返事がない。彼女はすぐにこう応える。
「いま、どこにいるの? ええ、××橋のたもと、どちら側? 私はペパン、ミセス・ペパンよ。すぐにそこへいくわ。15分位よ。待っててね。」
 彼女はそこへいくと、すぐにそれとわかる女性が放心状態でたたずんでいる。
「ねえ、お茶でも飲まない」
二人は近くのレストランへ。
「おなかすいてるでしょう?」
温かいスープが運ばれてくる。おずおずと女がスープを口に運ぶ。
「どうしたの? どんな困ったことがあったの?」
 静かにやさしく問いかける。女がスープを飲み終えると、ポツリ。ポツリと身の上話をはじめる。ボランティアは熱心にあいづちをうちながら耳を傾ける。サンドイッチとコーヒーが運ばれてくる。女の口は前より少しばかり軽くなる。そしてそれを食べ終えるころには彼女の顔には生色がさしはじめる。
「元気を出してね。私、何かお仕事の世話をするわ」
 こういって別れるころには彼女はもう再起の決心はつけているのである。彼女は、自分の話を聞いてもらったことで悩みの大半は解消したのである。


 この問の答として、この本ではもうひとつの例を紹介していた。チャップリンの「ライムライト」という映画の一場面である。

 クレア・ブルームの扮する踊り子が、関節炎を患い絶望してガス自殺を図る。かつて盛名を誇り、今は落ちぶれた老喜劇俳優(チャップリン)が、それを見つけ、自分の部屋に運び込み、いろいろ手当てを加え、気を取り戻したところで、彼女の自殺の動機を親身になって聞いてやる。今や彼女にとって、彼はただひとり頼りになる人間である。何もかも話し終えて彼女の気分はすっかり落ち着く。するとチャップリンはここで彼の哲学を述べる。
「人生は、どんなにつらいことがあっても生きるに値する。そして、人が、この人生を生きていくためには3つのことが必要だ。希望という名の想像力と勇気、そしてサム・マネーだ」
 とうのである。希望と勇気という抽象的なものと、サム・マネーのとりあわせにいかにもチャップリンらしい人生哲学がにじみ出ている。


 このいずれの答えにも、先ず「聞くこと」がある。人の話をよく聞くことには、人を救う力があるというわけである。
 実はわたしにもこの問いへの答がある、それはまた改めて紹介することにしよう。

 

 
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2008年12月10日

巡察師ヴァリニャーノの「適応主義」

 列福式の翌日(11月25日)私は妻を浦上教会や永井隆の如己堂、原爆資料館、平和公園を案内したあとに長崎歴史文化博物館を訪れた。そこでは「バチカンの名宝とキリシタン文化」という列福式関連特別企画が開催されていた。
 そこを訪れて初めて知ったことだったが、その日26聖人記念館館長のレンゾ・デ・ルカ神父の講演会があるというのを聞いて参加することにした。レンゾ神父はアルゼンチン出身のイエズス会士、私は彼の叙階式にも参加した旧知の友人である。
 演題は「国際視野を持った巡察師ヴァリニャーノ」である。私はこの人物にも興味を持っていたので、とてもおもしろい講演であった。
 なんでもほんとうは「巡察師ヴァリニャーノと日本」という書を書いたヴィットリオ・ヴォルピ氏が講師として予定されていたが、かれが都合悪くなって急遽レンゾ神父が講師になったということである。

 ヴォルピ氏はイタリア系銀行の日本事務所を開設するために来日した金融マンで「宗教には深い関心がなかった」が、日本での仕事を進めていくなかで、16世紀に巡察師として日本に来たヴァリニャーノに興味を持ちついに本まで書くことになったという。
 ヴォルピ氏が注目するのは、異国の文化に入り込み、当時の日本に「適応」した布教を展開しようとしたヴァリニャーノの生き方であった。「4世紀を経て彼の思想はこれまで以上に今日的になっている」という。


ヴァリニャーノ ここでヴァリニャーノについて簡単に紹介しておこう。
 ヴァリニャーノは1539年イタリアの名門貴族の家に生まれた。パドヴァ大学で神学を学び、1566年イエズス会に入会、1570年に司祭となる。1574年巡察師としてインドのゴアに行き、1579年日本に来る。
 ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟、高山右近、織田信長らと謁見している。有馬や安土にセミナリオ、府内(大分)にコレジオを設立する。
 そして1582年天正遣欧使節とともにインドのゴアに行き、ローマには行かなかったが、使節の帰国に伴って再び日本に入国、今度は秀吉と謁見する。またヨーロッパから活版印刷機をもって帰り、キリシタン版の書籍を印刷する。
 1598年から1603年まで3度目の来日。このときは後発のフランシスコ会やアウグスチノ会などの修道会との調整をおこなっている。
 1606年マカオにて生涯を閉じる。

 レンゾ神父の講演においても、このヴァリニャーノの「適応主義」といわれている宣教方針の今日性を強調されていた。

 初来日の時、当時の日本管区長であったカブラルの日本人蔑視の布教方針を叱責し、日本の宗教や文化、習俗を理解したうえで日本人司祭の養成が急務であることを訴えた。これが「適応主義」ともいうべきもので、マテオ・リッチによって展開されていた中国宣教と共通の布教方針である。ヨーロッパで行われている宣教をそのままアジアに移植することの危険性を指摘しているのである。
 その宣教指針はセミナリオの教育理念にもよく表れている。セミナリオでは神学や聖書、ラテン語の学習とともに日本語や科学、音楽などもカリキュラムに組み入れらていた。とくに年長の生徒が年少の生徒の学習の手助けをするという方法や、個人の成績よりもともに学ぶことによる共同体意識の形成、自分が学んだことを他人に役立たせる姿勢を身につけることが重視された。学んだことを出版して書物にするために印刷機は大いに役立っている。この教育方針の下に、中浦ジュリアンらの遣欧使節や同宿のペトロ岐部、金鍔次兵衛らの信仰が育まれるのである。
 さらにこの印刷機で、キリスト教関連の書籍や辞書だけでなく、イソップ物語や日本の歴史、あるいは平家物語なども印刷されていることも注目する必要があるだろう。
 この「適応主義」は、貿易や武器の売買などを餌にして権力者に接近し、いわば権力による上からの改宗を迫るという布教方法とは明らかに異なり、対話(時には論争)や福祉、教育などを通して直接民衆に働きかけることによって布教を試み、自立した日本の教会の成長を促すことを導きだしたのである。
 これが後の迫害に屈しない殉教者たちの信仰を育て、教会と司祭不在の中で200年以上の迫害の時代を生き延びる信仰をつくりだす礎となるのである。

 ヴォルピ氏の「巡察師ヴァリニャーノと日本」という本もぜひ読んでみたくなった。

 
 
 
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2008年12月07日

金鍔次兵衛神父書簡の激しさ

 今回の列福式と巡礼に先立ち、私は金鍔神父のマニラからローマのアウグスチノ修道会総長宛の書簡をひょんなことで手に入れることができた。

金鍔書簡 この書簡はラテン語で書かれている。長崎の井手義美氏が入手されたものを広島の大魚正人氏が翻訳されたもので、私はこれを井手氏からいただいた。
 金鍔次兵衛神父がマニラにいて日本に潜入する前に書かれたもので、その文面には日本に戻りたいという執念がこめられている。

 以下に書いた手紙は、必ず日本国から届く事を固く信じています。
 われらの会祖の聖アウグスティヌスの全隠遁者修道会の、最も注意深い牧会者であり、われらの最も尊敬する、父である総長様に、絶えざる恵みを《私は祈ります》
 最も尊敬する総長様、私は、最初に、少し《物事を》理解し始めた頃[・・・その頃は平和な良い時代でした・・・]、世間とは異なる考えを持ち始めた頃から、常に、徳の装飾よりも、徳そのものを得ることの方が、はるかに優れており、そして、より一層希求すべきことと、考えて来ました。
 それゆえに、私は、両親が嫌がるにも関わらず、人文学の勉強のために、自分の意志で神学校へ進みました。それは、日本の国が、キリスト教的平和を享受していた間、イエズス会が司教の権威により経営していた、本当にすべての徳の神学校でした。
 そしてそこで、哲学と神学の中で、私の少年期と青春期の全てを鍛練しました。
 しかし、数年後に、すさまじい迫害の嵐が起きました。その嵐は、荒廃した日本から、様々な修道会を追い出し、(このようなことを語る時に、誰が涙を流さずにおられましょうか)礼拝堂を破壊し、全ての聖器と全ての聖物を冒とくの手で汚しました。
 学校の多彩な生徒は三分され、世界の異なった地方へと旅立って行きました。ある者たちは、活動を継続するために、背嚢一つ背負う旅姿で、日本全国に散って行きました。それはキリスト信者の集会に粉骨砕身するためでした。他の者たちは、フィリピン諸島に追放されてしまいました。
 私はと言えば、残りの者と一緒に、日本の海の、実に広大な海面を、ジグザグに帆走して、マカオ島に上陸しました。そこの城砦都市は、島と同じ名前が付けられていて、土地が豊かなだけでなく、中国商品も豊かでした。何故ならば、ポルトガルの商人によって少なからず《交易が》自由だからです。
 ここでは、私たち学生にとって、目新しいものばかりでした。だから《一層のこと》、私たち学生は、かの地の神父たちの承認を得て、人文学の勉強と、さらに信心と業の最高の実践をもって、《自己本来の姿を》回復《確立》しようと、決意をどんなに新たにした事でしょうか。
 さて五年後、私は同修道会の神父たちの協議に基づき、日本に帰国しました。要理を教えることに、キリシタンの至上の歓喜にあふれて、−−そのキリストの葡萄畑では、今なお、このやりかたを行うことが許されているのです−−そして、私は大きな辛苦をしのぎ、集会をし、《教理を》説明しました。そして、生命の危険を冒しながら、《霊的な葡萄の実を》産み出しました。
 すなわち、昼間は隠れ家や洞窟に、【転々と場所を変えながら、】身を潜め、(キリシタンに対する迫害者の激怒は、決して和らぐことはありませんでしたので) 夜になると、キリスト教信仰の反対者との戦いを雄々しく始め、全力を尽くし、しかも、慎重に【その求道者を】教育しなければなりませんでした。
 最も尊敬する総長様、これらをしている間に、私は強く感じました。ある熱烈な望みが、あたかも神の霊感によって、私の内に燃え立つのを。 それは【その望みは】、《現在従事している任務を》より完全に行うために、修道士の服を着て修道士となるという事でした。そして、【その望みは】《さらに》私を熱烈に駆り立てて行くのでした。このような事情で、【何もかも】そのままにして、私はこのフィリピン諸島に渡航しました。そして、誰をも見捨てない神の恵みにより、このアウグスティノ修道会で、私は選択したことに関して、望みを達成しました。
 しかし、ここで、私は祖国に帰る希望なく時を過ごして、もう十年近くの歳月が流れました。尊敬する総長様。率直に述べる事にします。それ【帰国の希望が持てないの】は、この管区の神父たちの、ひどい生温さと大きな怠慢のためです。彼らは日本の迫害の噂を怖がっていました。《そのため》修道者が日本へ渡航をすることを申し出ても、誰一人も許されていません。
 実際、迫害の力は更新された【一層激しくなった】ので、非常に大切にされて【それまでに】残存していた、神聖な神殿は、残らず毀損されてしまいました。迫害者は、すべての日本人に対して、この《フィリピン》諸島の住民との、修好同盟の契約の締結や、商取引や航行を、禁制にすることが出来たのです。  
 尊敬する総長様。しかし、何故、福音を伝えるために日本へ行くことが、ドミニコ会会員やフランシスコ会会員そしてイエズス会会員には許されていて、独り私たちアウグスティノ会にだけ、許されていないのか、私には分りません。彼らは 毎年日本に上陸して、喜ばしい布教の最も豊かな収穫を得ているのです。   
 しかも、彼ら【日本に上陸した神父たち】は自分のものをではなく、神に属するものを探し求めているのです。反対に、私たちは、財宝を求め、(私はこの管区の神父たちについて話しているのですが)労苦を拒み、私たちの修道会の名誉を軽んじています。 
 しかし、良いすべてのことは神から出ていること、そのことに頷[うなず]きながら、すべては神の摂理により治められていることを、私達はしっかりと理解します。そしてまた、これらの事【=日本への潜入宣教】も神の御旨なしにはなく、少なくとも、《神の》許しにより行われることを、私は自分に言い聞かせています。 
 そこで、私は最も尊敬する総長閣下に、ローマに行く許可を私にお与え下さいますよう、謙虚にお願い申し上げます。なぜなら、もしそこで、神聖な教皇様の御足と、総長様の御手に接吻することが出来るなら、私は自分が十二分に《この世に》生きたと思うでしょうし、仮に私がこの人間界から消え去ろうとも、私の喜びは溢れるに違いないからです。
 更に、私には最も尊敬する総長様と、私たち日本管区の、宣教が行われている事情および状況について、《話すべきことが》たくさんあります。それ【日本管区】は、《迫害当時の》ローマと大変よく似ています。【そのローマは】多数の神聖な殉教者の証明により、最も豊かな輝かしい栄光へ高められ、そしてその聖なる民と選ばれた民族の故に、司祭的で王者にふさわしい都と呼ばれ、使徒ペトロの聖座によって、世界の頭となり、地上の支配力と言うよりはむしろ神的な教化事業によって、広く治めています。
 その上、尊敬する総長様と御一緒に語る沢山の事柄、それらはただ単にこの【日本】管区と日本の教会の益と保護に役立つだけでなく、私たちの修道会全体の名誉と栄誉にもなるのです。
 その上、私がローマ市の聖地を見ることは、日本で【基本的・信仰的な】教理を教える時だけでなく、【体験的具体的な】説教をする時にも、大きな助けになります。それは、多くのイエズス会員の例が示すように明白であります。
私は、尊敬する総長様に謙[へりくだ]ってその許可をお願いします。そして、その許可を、あなたが好意を持って私に与えて下さるであろうことを、私は主にあって、固く信じています。
 ここ【フィリピン】にいる間は、私はその許可の命令の期待を楽しむでしょう。当然のことながら、尊敬する総長様が、私たちの修道会全体の光栄と名誉のために、いつまでも無事・無傷でおられることが許されますようにと、私は主に祈ることを決して止めません。さようなら。

   西暦1630年8月2日、マニラ発。
 
総長様の、最も小さい僕であり卑しい子供、
修道士 トマス・デ・サン・アウグスティノ、日本人


 この「修道士 トマス・デ・サン・アウグスティノ、日本人」が金鍔次兵衛神父と同一人物であることが発見されたのは1926年宗教学者姉崎正治氏によってのことだそうである。

posted by mrgoodnews at 23:35| Comment(2) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

金鍔次兵衛神父の隠れた「次兵衛岩」

 今回、列福された一人である「魔法のバテレン」こと金鍔次兵衛神父については前に紹介した。


次兵衛4 金綱次兵衛神父は1600年頃大村に生まれる。6歳(!)のとき有馬のセミナリオに入学、その後イエズス会の少年同宿(志願者)となった。1614年宣教師の国外追放の時に原マルチノやペトロ岐部らとともにマカオに追放。
 司祭を志しマカオで学んだが、日本人学生に対する偏見と資金難のためにマカオのセミナリオは閉鎖。ペトロ岐部たち3人はローマを目指して旅立つが、かれは日本に戻り、伝道師として信徒の世話にあたった。しかし、司祭への志しはやみがたく再びマニラに行き、アウグスチノ会に入会、1628年セブ島で司祭になった。
 そして1630年日本に上陸。昼は長崎奉行所の馬丁になりすまし、投獄された宣教師や信徒を訪ねては励まし、夜は隠れ家でゆるしの恵みを与え、ミサをささげた。
 長崎奉行所は金鍔神父をとらえようと、必死になって捜索するが、彼はあるときは江戸に出現し、将軍家光のおひざもとである小姓たちに教えを説いたりもする。
 しかしついに1636年11月1日、長崎の片淵でとらえられ、長崎の西坂で、1637年11月6日過酷なる拷問のすえ、穴吊りの刑によって殉教した。

次兵衛4 この写真は長崎西坂の26聖人記念館中庭にある金鍔神父の像である。かれは金の鍔のついた刀を常に所持していたという。もっともかれは金鍔という地名の出身であったがゆえにこの名前を持っていたのであるが、この金の鍔の刀はまさに彼のトレードマークだったということなのか。



次兵衛1 次兵衛岩は外海山中の隠れ家の一つである。

 私たちは今回の巡礼地の一つとしてその「次兵衛岩」を訪れた。車から降りて、1本の竹の杖と、荒縄2本が渡された。くつを荒縄で縛って、沢ぞいに登ること1時間半。こけが生えた岩はすべりやすく、荒縄はとても役立った。沢を離れてがけを登っていくとその「次兵衛岩」はあった。

次兵衛2 そこには人一人がやっとくぐって入れるような洞窟がある。金鍔神父がここで祈りを捧げ、ミサをあげ、そして生活していたのだと思うと、そこには今でも祈りの「霊」がこもっているような場所であった。


次兵衛3 隠れ家はもうひとつ長崎の戸町というところにも発見されている。
 彼はこれらの山中のいくつかの隠れ家をてんてんとして山野を駆けめぐっていたのであろう。
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2008年12月06日

黄葉の黄色くなるなりかた


イチョウ1 紅葉と黄葉のちょうどいいときです。
 今日は「黄色くなる葉の黄色くなるなりかた」というのに注目してみました。




イチョウ2 黄葉の代表といえばイチョウでしょう。昨日(12月5日)の雨と強風のせいでイチョウ並木の下は黄色の葉っぱでいっぱいでした。イチョウは落葉の中で葉っぱに油分がおおく、もっとも腐りにくい葉なのだそうです。

 ところが隣の家のイチョウは葉っぱの先端と葉柄に近い部分がまだ緑なのに葉っぱの中央部分から黄色くなっていました。これはなぜなのでしょうか?
 前の写真で見るようにイチョウの葉は普通葉の先端部分から黄色くなるはずです。


ヤマブキ そこで家の近くの黄色くなった葉を集めてみました。
 まずこれはヤマブキの葉です。この葉のように葉脈の近くは緑で先端部分から黄色くなっていくというのは普通のようです。


サンショウ つぎにこれはサンショウの葉です。これはヤマブキとは少し違って、まだら模様に黄色くなっていきます。
posted by mrgoodnews at 23:23| Comment(0) | 植物・鳥・小動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月05日

いよでこクッション、いよほっぺクッション、いよあごクッション


いよほっぺ1.jpg 「物忘れ名人」の母いよさんは、食事のあとすぐに眠くなる。最近購入したこたつテーブルに頭をつけてうとうとしだす姿は前に紹介した。



いよでこ2 ところがあれではあんまりだ、テーブル板に直接では痛くなって休まらないではないかという妻の指摘により、いよさんに妻の手製の小さなクッションをプレゼントした。

 前の写真が好評だったので、またまたポーズを求めていよさんの写真を撮らせてもらった。


いよあご1 だいして「いよでこクッション、いよほっぺクッション、いよあごクッション」である。
「いよあごクッション」はおもにテレビを見るときの姿勢である。

 何ともカワイクいとおしいポーズである。
 

 
posted by mrgoodnews at 16:25| Comment(2) | 母の「介護」体験 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キリシタン武将黒田如水のこと

 以前紹介した「風渡る」(葉室麟著 講談社刊)は黒田如水と修道者ジョアンを主人公にした歴史物語ですが、そこに黒田如水についてこんなことが書かれていました。

 官兵衛は、いと(清原マリア 細川ガラシアの小侍従)の言葉に応じて策をめぐらすことに不思議なたかぶりを覚えた。そして小西隆佐(小西行長の父 キリシタン 堺の商人)からジョスエ(旧約聖書のモーゼの後継者ヨシュア)についてきかされたことを思いだした。ジョスエは指導者を失った民を率いて難関を越え、地上の楽園を目指したという。
 官兵衛は、自分はジョスエになれるだろうか、と自問した。ジョスエが難攻不落の城塞を落としたように、豊臣という巨城を落とせるだろうか。
(知恵を絞ればできぬことはあるまい)
 官兵衛の胸に不敵な思いが浮かんだ。それとともにこれからは如水という号を使おうと思いついた。
(水の如く自在に生きよう)
という意味である。だがもうひとつの意味があった。
 後に官兵衛はローマ字で
 Josui Simeon
と刻んだ印刻を用いるようになる。如水、シメオンである。語尾が一字違うがポルトガル語で Josue はジョスエすなわちヨシュアのことだ。
 ヨシュアとして戦うことを官兵衛は選んだのだった。



如水 秀吉の軍師として生きた官兵衛がどこまでキリシタン武将として信仰の道を守り続けたかはこの小説には書かれていない。
 しかし「如水」が旧約のヨシュアを意味していたということにちょっとした驚きとともに感動を覚えたのである。
posted by mrgoodnews at 12:16| Comment(0) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月01日

横瀬浦でルイス・フロイスに出会った。


横瀬浦 中浦ジュリアンの次は、そこから北へ車で15分ほど行った横瀬浦に行った。
 ここは1562年平戸を追われたイエズス会に、布教と貿易の拠点として大村純忠が与えた土地である。以降ポルトガル船がこの地に寄港し。この町は栄えた。
 港を臨む小高い丘には教会がたてられ、教会周辺には繁華街が作られた。その一角には「丸山」と呼ばれる遊郭や「思案橋」と呼ばれる橋があるなど、のちの長崎の町の原型になる町であった。
 しかし横瀬浦が繁栄するのは1年と短かった。大村純忠の義弟に当たる後藤貴明の乱によってこの町は焼き尽くされ、その後のキリシタンの歴史は長崎へと移動していく。


フロイス1 その町の公園で私たちを待っていたのは、ルイス・フロイスの像であった。私はたまたま「フロイスの見た戦国日本」(川崎桃太著 中公文庫)という文庫本を持っていたので、フロイスの像に手渡した。




フロイス2 ルイス・フロイス(1532〜1597)はポルトガル人のイエズス会士。1548年16歳の時にインドでイエズス会に入会、養成を経て1561年に司祭に叙階。1563年に横瀬浦に上陸、34年間死ぬまで日本に滞在する。
 日本を知らせる60通をこえる書簡とザビエル以降の日本における布教の歴史を綴った「日本史」を執筆した。そのなかで信長や秀吉、大友宗麟父子也キリシタン大名などの歴史上の人物をいきいきと表現し、当時を知る上での一級資料として高く評価されている。
 1597年彼は長崎の西坂での126聖人の殉教の報告を最後に5か月後に息を引き取っている。
 ただしこの「日本史」は大部で冗長であるとのことでヴァリニヤーノは出版を差し止めた。その後原稿はマカオに保存され、フロイスが存命中は出版されることがなかった。しかし火災のためにその原稿が消失し、その後写本が発見されてようやく復元されるに至った。


フロイス3 彼はたぐいまれなる文才と歴史感覚を持っていた。情報伝達手段の少ないこの時代に、これだけ歴史の核心に迫り、その登場人物をいきいきと表現し、かつ日本文化ならびに日本人をみごとに描ききった表現力はみごととしかいいようがない。
posted by mrgoodnews at 23:42| Comment(0) | こんなところに行きました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする