列福式の翌日(11月25日)私は妻を浦上教会や永井隆の如己堂、原爆資料館、平和公園を案内したあとに長崎歴史文化博物館を訪れた。そこでは「バチカンの名宝とキリシタン文化」という列福式関連特別企画が開催されていた。
そこを訪れて初めて知ったことだったが、その日26聖人記念館館長のレンゾ・デ・ルカ神父の講演会があるというのを聞いて参加することにした。レンゾ神父はアルゼンチン出身のイエズス会士、私は彼の叙階式にも参加した旧知の友人である。
演題は「国際視野を持った巡察師ヴァリニャーノ」である。私はこの人物にも興味を持っていたので、とてもおもしろい講演であった。
なんでもほんとうは「巡察師ヴァリニャーノと日本」という書を書いたヴィットリオ・ヴォルピ氏が講師として予定されていたが、かれが都合悪くなって急遽レンゾ神父が講師になったということである。
ヴォルピ氏はイタリア系銀行の日本事務所を開設するために来日した金融マンで「宗教には深い関心がなかった」が、日本での仕事を進めていくなかで、16世紀に巡察師として日本に来たヴァリニャーノに興味を持ちついに本まで書くことになったという。
ヴォルピ氏が注目するのは、異国の文化に入り込み、当時の日本に「適応」した布教を展開しようとしたヴァリニャーノの生き方であった。「4世紀を経て彼の思想はこれまで以上に今日的になっている」という。
ここでヴァリニャーノについて簡単に紹介しておこう。
ヴァリニャーノは1539年イタリアの名門貴族の家に生まれた。パドヴァ大学で神学を学び、1566年イエズス会に入会、1570年に司祭となる。1574年巡察師としてインドのゴアに行き、1579年日本に来る。
ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟、高山右近、織田信長らと謁見している。有馬や安土にセミナリオ、府内(大分)にコレジオを設立する。
そして1582年天正遣欧使節とともにインドのゴアに行き、ローマには行かなかったが、使節の帰国に伴って再び日本に入国、今度は秀吉と謁見する。またヨーロッパから活版印刷機をもって帰り、キリシタン版の書籍を印刷する。
1598年から1603年まで3度目の来日。このときは後発のフランシスコ会やアウグスチノ会などの修道会との調整をおこなっている。
1606年マカオにて生涯を閉じる。
レンゾ神父の講演においても、このヴァリニャーノの「適応主義」といわれている宣教方針の今日性を強調されていた。
初来日の時、当時の日本管区長であったカブラルの日本人蔑視の布教方針を叱責し、日本の宗教や文化、習俗を理解したうえで日本人司祭の養成が急務であることを訴えた。これが「適応主義」ともいうべきもので、マテオ・リッチによって展開されていた中国宣教と共通の布教方針である。ヨーロッパで行われている宣教をそのままアジアに移植することの危険性を指摘しているのである。
その宣教指針はセミナリオの教育理念にもよく表れている。セミナリオでは神学や聖書、ラテン語の学習とともに日本語や科学、音楽などもカリキュラムに組み入れらていた。とくに年長の生徒が年少の生徒の学習の手助けをするという方法や、個人の成績よりもともに学ぶことによる共同体意識の形成、自分が学んだことを他人に役立たせる姿勢を身につけることが重視された。学んだことを出版して書物にするために印刷機は大いに役立っている。この教育方針の下に、中浦ジュリアンらの遣欧使節や同宿のペトロ岐部、金鍔次兵衛らの信仰が育まれるのである。
さらにこの印刷機で、キリスト教関連の書籍や辞書だけでなく、イソップ物語や日本の歴史、あるいは平家物語なども印刷されていることも注目する必要があるだろう。
この「適応主義」は、貿易や武器の売買などを餌にして権力者に接近し、いわば権力による上からの改宗を迫るという布教方法とは明らかに異なり、対話(時には論争)や福祉、教育などを通して直接民衆に働きかけることによって布教を試み、自立した日本の教会の成長を促すことを導きだしたのである。
これが後の迫害に屈しない殉教者たちの信仰を育て、教会と司祭不在の中で200年以上の迫害の時代を生き延びる信仰をつくりだす礎となるのである。
ヴォルピ氏の「巡察師ヴァリニャーノと日本」という本もぜひ読んでみたくなった。
posted by mrgoodnews at 00:35|
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