1582年天正遣欧使節は長崎を出向。4人の少年使節と3人の従者、そしてワリニャーノとメスキータ、イエズス会の神父である。この旅は2年半を要した。風を待って長い間待機せざるを得ない旅であった。ドラードは旅の記録係を自ら買って出たという。
ヨーロッパにきて、使節団は各地で大歓迎を受け、ついにローマに到着、教皇グレゴリウス13世と謁見。
教皇謁見を前に高熱を出していた中浦ジュリアンが、教皇とどのように謁見したかは資料によって異なっている。この書では他の3人の謁見より前に特別に謁見したということになっていた。他の本では後で特別謁見とかいや4人同時だったとか、いろいろと記述が異なっている。
ローマから戻って帰国する前にドラードと2人の従者たちは印刷所に通って印刷を学ばねばならなかった。日本に持ち帰る印刷機の組み立てに始まり、活字の鋳造、組み版、印刷、そして製本と学ぶことは多い。ドラードは日本語の活字をデザインして母型をつくり活字を作成することも想定しなければならなかった。
ヨーロッパでの滞在は1年8ヶ月。帰国の途につく。インドのゴアでは原マルチノが聖パウロ学院の学生やイエズス会士の前でラテン語で「巡察使父、われらがバリニャーノ様に捧げる感謝の演説」をおこなう。名演説であったという。この原稿をドラードが持ち帰った印刷機の荷を解き印刷する。初めての印刷物である。1588年のことであった。
マラッカに滞在しているときに、使節たちは日本で進行している事態を知ることになる。つまり秀吉が禁教令を定め、外国人宣教師の国外追放を決めたというのである。マラッカ滞在中に再び印刷域が組み立てられ、少年使節ヨーロッパの旅の記録である「遣欧使節対話録」日本の神学生向けのラテン語の教科書「キリスト教子弟の教育」の印刷に着手。いずれもローマ字による組み版である。途中従者の一人でドラードとともに印刷を学んだロヨラが死去。同志の一人を失う。
1590年7月、ついに日本の上陸。旅は実に8年に及んだ。出発の時に少年だった使節たちも青年になっていた。彼らを送り出したキリシタン大名の大友宗麟、大村純忠はいずれも死去し、その子息たちは棄教していた。印刷機は加津佐に運ばれて設置され、早速印刷が始まることになった。バリニャーノ、メスキータ、伊東マンショ、原マルチノ、養方軒パウロと息子の文章家ヴィセンテ法印、印刷機械工見習いのミゲル・いちく、画家のジョヴァンニ・ニコラオ、そして不干斎・フェビアンら当時の一級のキリシタン知識人が招集された。
ここで印刷されたのがローマ字本として使徒行録と聖人伝「サントスのご作業の内抜き書」、教義書の「ドチリナ・キリシタン」であり、国字書として「こんてむつすむん地」「どちりな・きりしたん」である。どういう種類の本から印刷するかに当時の宣教師たちの宣教に対する方針をうかがい知ることができる。
ドラードは秀吉と謁見する少年使節とワリニャーノとともに上京する。秀吉はこの使節団に大いなる関心を持ち、彼らに質問をする。特に秀吉が喜んだのは彼らの演ずる楽器演奏であった。マンショがラベキーニャ(ヴィオラ)ミゲルがクラヴォ(チェンバロ)マルチノがアルバ(ハープ)ジュリアンがラウド(フルート)をみごとに演奏し、秀吉は何度も同じ曲をリクエストしたという。
バリニャーノは秀吉に印刷した本を見せたが、秀吉はそんなに関心を示さなかったらしい。すでに秀吉のもとには小西行長が朝鮮から銅活字と印刷機を持ち帰っていたから、活版印刷に対する知識を持っていた。
印刷所はこの後、セミナリオの移転に伴って加津佐から河内浦、そして長崎、天草に移転する。途中新たにイタリア製の2台の小形印刷機が加わり、次々に本が印刷された。
「ばうずもの授けよう」 バウチズモは洗礼である。「びょうじゃ(病者)にべにてんしゃ(懺悔)をすすむるきょう(経)の事」ではじまる平仮名の国字本。
「平家物語」ローマ字本。不干斎・フェビアン作の口語体による「日本の言葉とヒストリア(歴史)を習い知らんとする人のために世話にやわらげたる平家の物語」で外国からきた宣教師とセミナリオの生徒に日本の歴史を学ばせるテキスト。
「ヒデスの導師」ローマ字本。
「ラテン文典」ラテン語の文法教科書。
「羅葡日対訳辞書」ラテン語、ポルトガル語、日本語の辞書。3万語が収録されていた。
「エソボのファブラス」これは「ラテンを和して日本の口になすもの」イソップ物語をテキストにした日本語の教科書、副読本。
「コンテンツス・ムンジ」扉に「これ世を厭いイエス・キリストのご功績を学び奉る道を語る経」とあるポルトガル式ローマ字により、日本文とラテン語の2冊を出版。トマス・ア・ケンピス著「キリストにならいて」が原本
「心霊修行」イグナチオ・ロヨラの「霊操」ラテン語ローマ字組。
1592年から1597年長崎に印刷所が移転するまでに印刷されたキリシタン版は30冊になるという。部数はいずれも1000部くらいであった。印刷用紙は、欧字本が輸入の雁皮紙で洋装仕立て、国字本が美濃半紙で和装袋綴じ仕立てであった。
志岐というところに「画学舎」がもうけられ、ここで美術工芸全般が教えられ、教会の祭壇に飾る聖画や礼拝用のイエス像聖母像などの制作者を養成する美術学校であった。さらにパイプ・オルガンや、時計、印刷機などの製作も試みられていた。ドラードもここに通い、印刷術の講義実習を担当していた。
ドラードはいるまん(修道士)になるが、一方ミゲル千々石とイルマン不干斎・フェビアンは棄教・転向する。
そして1614年ドラードは原マルチノ神父や同宿のペトロ岐部、セミナリオ生徒の金鍔次兵衛らとともにマカオへ国外追放となった。このときに印刷機も持ち出していてマカオで印刷が続けられることになるのである。ドラードはマラッカへ呼ばれてそこで司祭になり、マカオのセミナリオの院長にもなる。そしてすでに追放となっていたジョアン・ロドリゲスとともに「日本小文典」の印刷に取りかかる。
ジョアンという人物も不思議な人物で、1587年17歳で来日したポルトガル人。日本語に堪能でフロイスの後を受け継いで通訳兼通商代理人として秀吉、家康にかわいがられたが、その器用さがねたまれてイエズス会内部からも告発を受けて失脚してマカオにきていた。この人物もフロイス、ロレンソなどとならんでこの時代が生み出した希有の人物であろう。
しかし、ついにドラードのいのちの炎がつきる。1620年、53歳だった。死因は、長年活字の鋳造にあたっての鉛中毒であった。原マルチノとジョアン・ロドリゲスに看取られて息を引き取った。
マカオの聖パウロ教会には、ワリニャーノ、コンスタンチノ・ドラード、ドラードと一緒に従者としてヨーロッパにいってこの地で息を引き取ったロヨラ、そして原マルチノの4人が並んで葬られているという。
原マルチノについて、述べておこう。4人の少年使節のなかでもっとも若かったが、最も優れた知能の持ち主であった。ゴアでの演説は人を引きつけてやまない。名説教師でかつ名文家であった。
もっとも有名なエピソードは、関ヶ原の後、小西の城であった宇土城が加藤清正によって攻められた。そこには何人ものバテレンがかくまわれていて、清正によってとらわれた。そのときに原マルチノは単身城に乗り込み、キリシタン嫌いの清正に談判してバテレンの釈放に成功する。どんなふうに清正を説得したのか興味あるところである。
かれはもっとも優秀な日本人イエズス会士であったが故に、イエズス会は彼を国外に逃し、いつか日本でふたたびキリスト教の宣教ができるようになるまで国外に逃がしたのであろう。
かれは結局マカオで1629年客死するが、その遺志を受け継いだのがペトロ岐部だったということになる。
現在確認されているキリシタン版で一番年代が新しいのは「こんてむつすむん地」で1610年京都の原田アントニオであるが、これは木活字本である。このローマ字本は1596年天草で作られているが、こちらは活版印刷であった。
島原の乱で原城にこもったキリシタンたちは、鉛活字を火縄銃の弾にしたという。キリシタン版の鉛活字は一つも見つかっていない。活版印刷はこれで完全に費え去ったことになる。復活するのは明治になって長崎の本木昌造によってである。
ただ、ドラードが造ろうとした「日本小文典」は1620年刊行されるが、この本が役に立つことはなかったことになる。