2009年01月30日

「戦争が廊下の奥に立つてゐた」渡辺白泉

 今日1月30日は「白泉忌」と言われる。俳人渡辺白泉の40回忌である。
 恥ずかしながら、私はこの俳人を先日の「天声人語」で初めて知った。その俳句がなかなかユニークなのである。この時代にこんな俳句を作れたということはやはり非凡なのであろう。

 白泉は1913年東京生まれ。
 わかいときは新興俳句運動の旗手として、数々の作品を発表した。
 社会を風刺し、軍国化を批判する句風を色濃く出して、京大事件に巻き込まれ、逮捕される。戦争中に特高の目を盗んで多くの句を作ったが、戦後になって俳句から足を洗い、市立沼津高校の教員となった。
 1969年55歳で没。
 1974年「渡辺白泉全句集」が発表された。


街燈は夜霧にぬれるためにある (昭和10) ・

鶏(とり)たちにカンナは見えぬかもしれぬ (昭和10)

銃後といふ不思議な町を丘で見た (昭和13)・

繃帯を巻かれ巨大な兵となる (昭和13) ・

戦争が廊下の奥に立つてゐた (昭和14) ・

憲兵の前で滑つて転んぢやつた (昭和14) ・

夏の海水兵ひとり紛失す (昭和19) ・

玉音を理解せし者前に出よ (昭和20) ・

地平より原爆に照らされたき日 (昭和31) ・

まんじゆしやげ昔おいらん泣きました (『白泉句集』昭和50)

なかなか考えさせられるユニークな俳句が多いとおもった。私も俳句を作ってみるかという気になった。


 
posted by mrgoodnews at 21:25| Comment(0) | 詩、歌、祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「たぶん神はいない」というイギリスのバスの広告


バス1 1月24日の朝日新聞だったかに「神は多分いない…英国で走る『無神論バス』」が載っていた。それによると、このバス広告が生まれた経緯は次のようになるのだそうである。

 この記事は
There's Probably No God.
Now Stop Worrying And Enjoy Your Life.

 つまり「神はたぶんいない。だから心配することをやめて生きることを楽しもう」という内容のバスの車体に書かれている広告である。

 ことの発端は、「キリスト教徒でなければ永遠に地獄で苦しむ」と書かれたキリスト教団体のバスの広告に反発した市民が、資金を募ってのせた広告なのだそうだ。資金は予想以上に集まり、ロンドンの市内のバス800台に載っているとのこと。
 宗教団体は消費者を欺く広告であるとして訴えたとか、信心深い運転手の運転拒否にあったとかなかなかにぎやかである。
 しかし、なかにはこのバス広告のキャンペーンに資金を出したキリスト教団体もあったとか。神の存在を改めて意識させたかららしい。


バス2 イギリスのキリスト教原理主義の人たちの広告に反発したのだろうと思ってネットを探していたら、この運動はスペイン・バルセロナやイタリアのジェノヴァでも出現したという。
 イタリアのは、ジェノヴァの枢機卿がゲイ・パレードを妨害したとかでそれに抗議する意味で始められたとか。
 教皇庁は「対立ではなく対話を」という感じで静観しているとか。

 この無神論キャンペーンは各国に広がり、にぎやかに広告合戦が繰り広げられているとかいう記事もあった。
 そのコピーには国民性が表れているとか。

イギリス「多分、神はいない。心配するのはやめて人生を楽しもう」
ワシントン「なぜ神を信じるのか?善意なる愛のために善良であれ」
オーストラリア「無神論者は日曜日の朝は寝ている」

 私だったら、こう書くかな。
There's Probably God.
Now Stop Worrying And Enjoy Your Life.

 はじめの文章はすこしおかしいかも。
God Probably Exists.
かな。
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2009年01月27日

メーカーズドリーム広告


ドリーム2 今年の1月1日の日経新聞の正月特集のページに、メーカーズドリームという広告集があった。メーカーの夢を52×65ミリのスペースに描いた広告が全部で70社載っていた。読者にどれがよいかというアンケートをさせるという趣旨であったが、私はそのときは見落とした。
 この狭いスペースで夢を描くというのはなかなか難しい課題であるが、でも結構おもしろい広告もあったので、このなかから6点を選んでみた。


ドリーム3 左上は「地球快適化研究所」というコピーと写真の組み合わせがなかなかよいと思った。このコピーでインターネットで検索したが、見つからなかった。会社が立てたスローガンというよりも広告のコピーライターが考えたスローガンだったのであろうか?

 左下の「屋上緑化」の会社の広告は「風」の文字ナナメにひっくり返っているところがいいのだろう。屋上緑化は風対策がいちばんの問題なんだと気づかせてくれた。

 下中の広告は、高吸水性樹脂(紙おむつなどに使われている)の保水力を使って砂漠緑化に取り組んでいるというメッセージが興味深い。それで、高吸水性樹脂、砂漠緑化という二つのキーワードで検索してみたら、確かにそういう記述がたくさんあって、なるほどと思った。ただこのメーカーのホームページではなかった。この詳しい説明があったらよかったのにと思わせる。これは調べてみたらおもしろいだろう。


ドリーム1 下右の広告が、私はいちばんだと思う。この「ナケレバ、ツクレバ。」というコピーがいい。このなかに「クレハ」というメーカー名も隠れているし、この開発精神がこの短い言葉に熱っぽく込められている。さらにこれを検索してみたら、クレハの会社のホームページに行き当たるし、またこのコピーを使った中吊り広告もあるらしい。

 というわけで、これらのアイディアをうまく盗んで私もポスターを作ってみたくなった。
posted by mrgoodnews at 18:04| Comment(0) | 本、映画など感動のメディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

散歩の時の発見

 私は散歩が大好きである。
 わたしの散歩7つ道具というのがある。

 デジカメ
 iPhone (今は iPhone のデジカメ機能にお世話になっている。iPhone の MAP もよく使う。それに iPod )
メモ帳(手帳)
 ビニールの封筒の袋(種とかの採取用)
 万歩計
 樹木図鑑
 双眼鏡

 こんなところだろうか。

 町の中でも田舎でも、森の中でも山みちでも、とにかくいろいろな発見をする。
 樹木や花や実や鳥、広告の看板、道に落ちているもの、雲や景色、家の造り、色合い、人の表情などなど、自分で言うのも何だが、おや?と思って見つけるものが人と比べてずば抜けて多いはずである。
 いままで、そういう発見能力は人に負けないように鍛えてきた。

 1月23日の毎日新聞の「記者の目」という記事に、散歩の達人の赤瀬川原平氏の散歩に同行したという記事があった。
「自分だけの新発見をしよう」
「視線一つでふくらむ想像力」
という見出しで書かれていた。
 その中にこんなことが書かれていた。

 散歩は普通,一人でするが、気のあう仲間と歩くのも悪くない。違った視点で町に向き合える。世田谷区の「用賀」を歩き終え、ビールを飲みながらの反省会で「ようが」という響きが気になるとの声があった。後日、区役所に問い合わせて「平安時代、ヨガの道場があったためといわれている」と知った。一人だったら気がつかなかったはずだ。


 ふ〜ん。「用賀」という地名はヨガからきているんだ。ヨガは平安時代からあったんだ。平安時代の江戸はど・田舎だったはずである。そこにすでにヨガの道場があったという。これらは驚きでいっぱいである。
 たしかに google してみると、そういうはなしがある。これはとても新鮮な発見のような気がする。

 散歩はこういう発見のチャンスに満ちている。だからやめられないのだ。
posted by mrgoodnews at 00:29| Comment(2) | 町・風景・自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

広告コピーが気に入った二つのポスター


cop 東戸塚の市民活動センターに掲示してあったポスターのコピーが気に入りました。

 変えているのはわたしたち…。
 変えていくのもわたしたち…。


 環境問題の加害者と被害者が同一であることを示したうまいコピーです。
 ポスター全体のデザインはイマイチですが……。
 この八都県市地球温暖化防止キャンペーンのホームページを見ようとしたら、サーバーが見あたりませんだって。このポスターいつのものなんだ。


PR もうひとつは電車の中吊りと駅の掲示板で見かけたものです。

 あっというまに
 心暖まる冬に着く


 これはJRの鬼怒川温泉行きの特急列車のPRです。雪の積もる温泉宿が「心暖まる冬」なのですね。この言葉がなかなかいいと思いました。

 
posted by mrgoodnews at 23:36| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

福音ポスター第4弾 ルーシーとライナス

 福音ポスター第4弾「ルーシーとライナス」編です。

 私の家の前の塀と門の2箇所に掲示しています。
 教会の掲示板にも掲示してもらおうと思っています。
 また教会の人に、家の前に貼ってくれる人がいないかをきいてみようと思っています。あんまりいそうもないけれど……………。

 ほんとはもうすこし大きくしたいのですが、今のプリンターではA3までしか印刷できない。


福音ポスター4
posted by mrgoodnews at 00:32| Comment(1) | 福音ポスター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月17日

満月の夜の集い「ルナー協会」

 毎日新聞の1月11日の「余録」に「ルナー協会」のことが出ていた。これに興味を持ったので少し調べてみた。

 文化団体の多くは文化の中心である首都ロンドンに集中していたが、地方都市に皆無であった訳ではない。中部イングランドのバーミンガムにも、1760年代に「ルナー・ソサイエティ」が誕生した。
 直訳すると「満月協会」で、毎月の満月の晩に会員相互の家に集まって、共通の話題について論じ合った。
 満月の晩を選んだのは、終わってから各自が家に帰る時に明るくて便利だからだったが、イギリスのようにお天気の悪い土地で、いつも月がこうこうと照り輝くはずはあるまいが、と余計な心配をしたくなってしまう。
 冗談はさておき、この協会員は自分たちのことを「ルナティック」つまり「月の影響を受けた人」と呼んでいた。しかし、英語を勉強した人ならすぐ気づくだろうが、ルナティックというと普通「狂人」を意味する。
昔の人は月から地球に流れ込む、ある霊気にふれると精神異常になると信じていたために、そうなってしまったのだ。
「ルナー協会」の会員たちはもちろんこのことを承知の上で、いかにもイギリス風のユーモアを発揮して、この呼び名を自分自身につけたのだ。
 さて、この協会員には当時、一流の知識人が顔を揃えていた。ジェイムズ・ワット、ジョサイア・ウェッジウッド、エラズマス・ダーウィン、マシュー・ボールトン…などなど。
「私の英国物語 ジョサイア・ウェッジウッドとその時代」より


ルナーThis meeting took place in the house of inventor James Watt (1736-1819). The Lunar Society began in 1765 and was made up of learned men of the time, great thinkers of the Industrial Revolotion who met to debate scientific questions and the application of science to manufacturing, mining, transport, education, and medicine. The society got its name from the practice of meeting when the moon was full so that its light would guide the members home through otherwise unlit streets. Other famous members of the society included chemists James Keir (1735-1820) and Joseph Priestley (1733-1804); physician, poet and grandfather of Charles Darwin, Erasmus Darwin (1731-1802); and ceramics pioneer Josiah Wedgwood (1730-1795).


 エラズマス・ダーウィンはあの「進化論」のチャールズ・ダーウィンの祖父、著名な意志でその著作には進化論を思い起こさせる表現があるという。
 ジェームス・ワットは蒸気機関を発明した産業革命の父である。
 そしてジョサイア・ウェッジウッドは、イギリスの陶器の父と言われていて、陶器会社の起業家であった。「余録」はこの陶器会社がこの経済危機で経営破綻び追い込まれたということで話を展開していた。

 そういえば英語の時間に、月のことをルナーといい、太陽のことをソラーというのを教わったことをおもいだした。でもルナーの形容詞形 lunatic は「気の狂った」という意味があり、昔の人は月をみると気が狂うというように感じていたんだと英語の先生がボソッと言ったのをよく覚えている。この語源は、これはラテン語かギリシャ語か? それともアングロサクソンか?

 ところで、このルナー協会ではどんな会話がなされていたのだろうか? 

 こういう集まりはとてもおもしろい。
 たとえばカントは毎日昼食を友人たちを招いてとっていたとか、あと渡辺崋山や高野長英らの尚歯会の集まりもおもしろい。
 そこに私もたまらなく参加してみたくなるのだ。

 



 
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2009年01月16日

鈴田の牢における「天国と地獄」

「長崎代官村山等安 その愛と受難」(小島幸枝著 聖母の騎士社聖母文庫 1989年)に「鈴田の牢」についてかかれていた。

鈴田牢 ここは1617年から1622年まで、キリシタン特に宣教師たちを収容する牢であった。わずか8坪の部屋に多いときには30数名が収容されていたという。そこは不潔甚だしく臭気も尋常ではなく、食物は玄米一皿と少しばかりの野菜であった。
 ここに収容されていた人物は、イエズス会のスピノラ神父、ドミニコ会のモラーレス神父はじめフランシスコ会士など、国籍もポルトガル、スペイン、イタリアそして日本人とさまざまであった。スピノラは数学や物理学に詳しい科学者であり、モラーレスは神学者であった。日本人たちは「………の組」のリーダーや宣教師をかくまってとらえられた「宿主」たちなど、いわば生え抜きのキリシタンたちがこの地獄のような牢で生活していた。「この牢はわが愛する花嫁、毎日立てられるミサ、苦行、断食、オラショ(祈り)でまるで修道院のようだ」とモラーレスは述べている。
 この地獄のような「修道院」の牢のなかで、キリシタンたちがともに祈りミサをあげ、懺悔を聴き、励まし合い、ともに苦しみ、拷問と殉教死の恐怖にさいなまれながら死を待っていたのである。その「地獄のような牢」はしかし、キリシタンたちの「束の間の天国」でもあった。
 ときには互いに激しくののしりあうこともあったであろう。特にこの時期、イエズス会とドミニコ会やフランシスコ会との対立はのっぴきならぬものだったようである。
 たとえばこんな対立が紹介されていた。
 禁教令下で破壊された教会の跡地に仏教寺院が建つことになったとき、イエズス会士は、日本人のキリシタン信者にやむを得ない領主強制の夫役の負担提供を認めたが、ドミニコ会は全くそれを赦さず偶像崇拝の異教・邪教の支配者に協力しないことを表明せよと、キリシタンたちに厳しく指導している。
 イエズス会はなによりも日本宣教の開拓者であり、教皇庁からもそれは認められていた。彼らは最初は、各地の大名、領主たちや豪商たちつまり支配者層に働きかけて布教許可をもらうことを意図した。いわば上からの宣教を意図したのである。領主が洗礼を受けると家族ら家来とその一族、さらには領民があいつで信者になるという結果を生み。当初の信徒数増加をもたらした。しかし、秀吉の禁教令が出た頃からこの宣教方針はかわらざるをえなくなる。
 ところが、後から来日し、やみくもに信者を増やしはじめたフランシスコ会やドミニコ会らの修道会とのあいだに緊張関係が生じるのである。かれらは素手で強引にイエズス会が開拓した地に割り込んできた。とくに都市の貧困層に浸透する。かれらの清貧と信心を特徴とする布教スタイルは先行したイエズス会のそれとはかなり異なっていた。
 また、日本の伝統的な習俗を理解しようと努め、ある程度はこれを受け入れて適応しようとしていたイエズス会に対し、フランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会は、邪教、偶像崇拝として厳格に退けこれを破壊しようとさえした。日本の伝統文化への配慮よりも、ヨーロッパ宗教文化の原則論をここに持ち込んだのである。イエズス会がポルトガル系であったのに、他の修道会はスペイン系であることも対立の要因となっていたであろう。キリシタン信徒たちを殉教へとかりたてたのも、どちらかというと托鉢修道会の指導によることが多かったともいえる。

 そのイエズス会とフランシスコ会の確執が、ときにキリシタン弾圧を招くきっかけとなって悲劇が生じる。26聖人の殉教は、これがきっかけであった。
 ルイス・フロイスはイエズス会総長宛の「年次報告」のなかでこの対立の危険性を指摘していた。バリニャーノの3度目の来日はこの修道会間の対立を調整するためであったが、これも永続的な効果をもたらすにはいたらなかった。
 同じカトリック教会でありながら、修道会のセクショナリズムや国家利益と結びつくことが災いし、弾圧の口実となったという負の側面がこの時代の歴史のなかに隠されていることもしっかりと読みとらねばならないであろう。

 鈴田の牢はまさにこのような「地獄と天国」の狭間に存在し続け、そしてここにとらわれたキリシタンは1622年の「元和の大殉教」で殉教死を遂げ、この牢も廃止される。

 

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2009年01月15日

真夜中のラジオ

 黒井千次の「指・涙・音」に「夜と光」という短編小説にこんな場面がある。

 東京のラジオ局が、深夜の放送で大胆な実験をしてみた。超高層ビルのサテライトスタジオからこう呼びかけるのだ。
「この放送を聞いていて、このホテルの見える人、懐中電灯を持って、家から出てくれないか。そんでさあ、それをつけてふってみてほしいんだよ。新宿の方に向けて」
 最初はスタッフも半信半疑だった。しかし、大都会のあちこちから、チカチカ、チカチカ、懐中電灯の反応が現れ始めた。失恋した浪人生、親と話し合えない中学生、目の覚めてしまった中年男、いずれも、ラジオしか語り合う相手のいない人たちだった。


 20数年前に日本放送の「オールナイトニッポン」で実際にあった話がヒントになっている。深夜放送の愛好者である黒井千次が、創作を加えて現代の孤独を訴えた短編であった。
 そういえば私が「深夜放送」に親しんでいたのは今から40年前で、「パックインミュージック」「オールナイトニッポン」「セイヤング」など華やかなりし時だった。
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2009年01月13日

Move Ball はなかなかおもしろいゲームです

 89歳の母と一緒に楽しめるゲームをいろいろなところから探してきて、母にやらせています。母が楽しんでくれるものもや、母は興味を示さないが、私たちが結構はまったというものもあります。
 ちなみに母はジグソーパズルがすきで、「3歳から」という文字も入っている20ピースものなら、独力で説くことができますが、文字の入っていないものは独力ではちと難しいようです。


MB1 ところで、ダイソーで「Move Ball」という名のゲームを見つけました。ルールは至って簡単、2つの部屋に入っている小さなボールを、同じ部屋には同じ色のものとなるようにすることがねらいです。
 はじめはなかなかうまくいかないのですが、何度かしているうちに少しずつできるようになります。微妙に動かすことになるところが母には難しいようで、母はすぐに投げ出してしまいます。
 さらにちょっと困ったことに、母はこの中に入っているものがお菓子だと思って、外側のケースをこじ開けようとするのです。

MB2 しかし、私たちには、これはけっこうやっているうちにおもしろくなってくるのです。少しずつ「技術」を身につけていくところがおもしろいのでしょう。
 子どもたちはこれをしながら、どういうふうに技術を身につけていくのか、研究観察してみるとおもしろいだろうと思います。


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村山等安とその一族の生き方と殉教


村山等安「長崎代官村山等安 その愛と受難」(小島幸枝著 聖母の騎士社聖母文庫 1989年)を読んだ。
 長崎のキリシタンにこういう人物がいたということを初めて知った。

 村山等安は、1566年ごろ尾張の清洲に生まれ、長崎に1587年頃から住みついた。もとは武士だったらしい。南蛮貿易で栄えたこの町に野望を抱いてやってきた。「諸国を徘徊し、気、万人にすぐれ、風流の道にも疎からず、貴賤の選びなく、その気において愛敬よろしき者」「その利根の才知は万人にすぐれ、当地の頭人たちから用いられ出入り絶えず、ことに南蛮菓子料理の上手」であったと記されている。
 朝鮮出兵のおりに名護屋にきていた秀吉にみごとなまでに取り入り、ついにはその後ろ盾で長崎代官になる。さらに等安は生糸、金、鉛、水銀の貿易にみごとな手腕を示し、あらゆる方面の人との人間関係を利用し、気宇壮大にして芸の細やかな口八丁手八丁の商人でもあった。
 等安は自分の商売に役立つからということで洗礼を受ける。洗礼名はアントニオであった。
 しかし、富と権力を手にした等安は女遊びに興じ身を持ち崩していく。彼と接していたイエズス会の神父は彼を見限り、罪の許しのための懺悔も聞いてもらえなかったという。
 ところが等安は奇跡的に回心する。そのきっかけは分からない。キリシタン必読の書であった「こんてむつすむん地」(「キリストにならいて(イミタチオクリステ)」)が彼に影響を与えたのではないかと著者は推測している。
 そんな彼に接近したのはドミニコ会のモラーレス神父であった。モラーレス神父は「ロザリオの組」を組織し、特に貧しい民衆のなかにキリシタンを増やしていった。等安の子どもたちはこの「ロザリオの組」の有力なメンバーとなる。等安はドミニコ会やフランシスコ会の宣教師たちに積極的な援助を惜しまなかった。
 1614年の大阪冬の陣において明石掃部や小西行長、高山右近の家臣だった多くのキリシタン浪人たちが大阪方に加勢した。このときに等安の息子でフランシスコ村山神父は従軍司祭として大阪城にこもり殺される。それをきっかけにして弾圧の波は等安に忍び寄っていく。


家系図 弾圧に抗すべく「ロザリオの組」に続き、「クルスの組」「ゼズスの組」が結成されていく。これらはドミニコ会系の信徒組織であった。イエズス会系は「ミゼリコルディア(慈悲)の組」「ご聖体の組」「聖母の組」フランシスコ会系では「コルドン(紐)の組」などがこのときまでに結成されている。信徒の組織も修道会系列となっていることに注意。しかし、この組織がじつは、いずれいなくなる外国人宣教師に変わって、200年余の潜伏時代を支えた信徒の共同体になるのである。

 1614年のイースター前後、組の者は「拷問や迫害があっても」「キリスト教の信仰を守り通す」決意を記した血判状に署名し、組ごとに責め縄、むち打ちの苦行をしつつ長崎市内の教会を巡り歩く巡礼(大デモンストレーション)を敢行する。等安はこの日の行列に非常に重い十字架を背負って参加したという。
 しかしそれもむなしくその年の10月には高山右近、内藤ジョアンらのキリシタン武将、原マルチノらの宣教師、イルマンやセミナリオの生徒たち148名が国外追放となる。
 村山等安は1515年秋には台湾へ御朱印船にのった遣明使として派遣される。長崎代官村山等安に捕縛処刑までの罪を見いだせなかった結果の一時的な国外追放である。
 後にキリシタンから改宗する町人末次平蔵は等安のライバルだった。この平蔵のたくらみにより等安は代官職を剥奪され、さらにはキリシタンとして宣教師をかくまったかどで長男の徳安とともに告訴される。

 1619年はじめに徳安が長崎で火あぶりになった。火あぶりの薪は「皮屋」と呼ばれる、差別され獣の皮をはぐ貧しい人々が調える慣行になっていた。処刑場用の付け火と薪その他の処刑小道具には「汚れ」の「社会意識」が古くから存在し、封建武士身分は直接手を触れぬようにしていたのだ。が「皮屋」はもともと徳安を慕っていた。役人が火付けの日を求めてきたときに、彼らは全戸ひだねを落としてしまった。
「火を貸せ、皮屋」
「あいにく消えとるとです」
「今すぐ起こせ」
「ごらんの通りの貧乏暮らし、付け木にもこと欠いちょりまする」
 役人は足で蹴り、ものを壊し、言葉で脅して威嚇したが誰一人協力するものはいない。
「どげんせらるっともなかものはなかとです」
 役人はあきらめて自分でこの「汚れた」仕事をしなければならなかった。


 徳安は「ロザリオの組」員の純白の絹の制服の上にドミニコ会の紋章と縁飾りとしてロザリオのついた黒い短い上着をつけて西坂の処刑場に現れた。
 見物していた人々(多くはキリシタンであった)は口々にオラショを唱え、「諸聖人の連祷」をとなえる。そして「テデウム ラウダムス(われ神をほめたたえまつる)」の大合唱となった。
 徳安は民衆に向かって
「泣いてくださるな。デウスのお恵みによって今日マルチリヨ(殉教)がかなうことを喜んでくだされ。オラショをお願いしまするぞ。一足お先に」
「アンデレ殿、マルチルになられたらわれらのためにパライソ(天国)で祈っていてくだされ」


 等安は江戸で斬首、次男の長安は京都で斬首、かくして等安の一族13人が3歳の子までも含めてすべて処刑された。
 悲しいことにイエズス会士たちはこの一族の殉教には冷淡であったという。
 この書を読んでもっとも気になったのは、じつはキリシタンの間の修道会同士の確執であった。イエズス会とフランシスコ会、ドミニコ会、そしてアウグスチノ会の4つの修道会がこのときに活動していたが、それぞれの連携はあまりうまくいっていない、どころかお互いに足を引っ張り合う結果となっていることが実に悲しいのである。
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2009年01月12日

福音ポスター第3弾 心を開けば広がる世界


心を開く福音ポスターの第3弾です。

これは私の教会の「キリスト教入門講座」の案内ポスターですが、ここの部分を変えるといろいろなものに使えるでしょう。

ちなみに背景の写真は、修学旅行で行った長崎外海の遠藤周作記念館からみた西海です。
学校の合唱祭で高校生によく歌われる「祈りの海」(オラショの海)の舞台となった海です。本当に美しい海でした。


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2009年01月10日

シクラメン ソロモンの王冠


シクラメン シクラメンの原産地は、イスラエルなど地中海の東海岸で、冬から春の初めに一面に自生しているシクラメンが花をつけているのがみられるのだそうだ。
 「生命之光」誌2008年12月号の表紙はこの自生しているシクラメンで、そしてつつみみなこさんのこんな解説があった。

 昔、イスラエルのソロモン王が、王冠に葉なのかたちを使おうと、花たちにお願いしてまわりました。けれどもどの花からもことわられてしまいます。王様が困っていると、シクラメンが「私の形を使ってください」とそっとささやきました。王様はたいそう喜んで、シクラメンの形を王冠に使いました。
 そののち、花は恥ずかしそうにうつむいて咲くようになったという逸話があります。その話から「ソロモンの王冠」とも呼ばれています。


 そういえば、むかしはシクラメンは夏を越させるのが難しいとよくいわれていましたが、最近じか植えで夏を越しても花をつけている小さなシクラメンをよく見るようになった。シクラメンも日本に適応してきたということか。
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2009年01月08日

コンスタンティノ・ドラードとキリシタン版活版印刷 その2

 1582年天正遣欧使節は長崎を出向。4人の少年使節と3人の従者、そしてワリニャーノとメスキータ、イエズス会の神父である。この旅は2年半を要した。風を待って長い間待機せざるを得ない旅であった。ドラードは旅の記録係を自ら買って出たという。
 ヨーロッパにきて、使節団は各地で大歓迎を受け、ついにローマに到着、教皇グレゴリウス13世と謁見。
 教皇謁見を前に高熱を出していた中浦ジュリアンが、教皇とどのように謁見したかは資料によって異なっている。この書では他の3人の謁見より前に特別に謁見したということになっていた。他の本では後で特別謁見とかいや4人同時だったとか、いろいろと記述が異なっている。

印刷機 ローマから戻って帰国する前にドラードと2人の従者たちは印刷所に通って印刷を学ばねばならなかった。日本に持ち帰る印刷機の組み立てに始まり、活字の鋳造、組み版、印刷、そして製本と学ぶことは多い。ドラードは日本語の活字をデザインして母型をつくり活字を作成することも想定しなければならなかった。
 ヨーロッパでの滞在は1年8ヶ月。帰国の途につく。インドのゴアでは原マルチノが聖パウロ学院の学生やイエズス会士の前でラテン語で「巡察使父、われらがバリニャーノ様に捧げる感謝の演説」をおこなう。名演説であったという。この原稿をドラードが持ち帰った印刷機の荷を解き印刷する。初めての印刷物である。1588年のことであった。
 マラッカに滞在しているときに、使節たちは日本で進行している事態を知ることになる。つまり秀吉が禁教令を定め、外国人宣教師の国外追放を決めたというのである。マラッカ滞在中に再び印刷域が組み立てられ、少年使節ヨーロッパの旅の記録である「遣欧使節対話録」日本の神学生向けのラテン語の教科書「キリスト教子弟の教育」の印刷に着手。いずれもローマ字による組み版である。途中従者の一人でドラードとともに印刷を学んだロヨラが死去。同志の一人を失う。

 1590年7月、ついに日本の上陸。旅は実に8年に及んだ。出発の時に少年だった使節たちも青年になっていた。彼らを送り出したキリシタン大名の大友宗麟、大村純忠はいずれも死去し、その子息たちは棄教していた。印刷機は加津佐に運ばれて設置され、早速印刷が始まることになった。バリニャーノ、メスキータ、伊東マンショ、原マルチノ、養方軒パウロと息子の文章家ヴィセンテ法印、印刷機械工見習いのミゲル・いちく、画家のジョヴァンニ・ニコラオ、そして不干斎・フェビアンら当時の一級のキリシタン知識人が招集された。

サントス ここで印刷されたのがローマ字本として使徒行録と聖人伝「サントスのご作業の内抜き書」、教義書の「ドチリナ・キリシタン」であり、国字書として「こんてむつすむん地」「どちりな・きりしたん」である。どういう種類の本から印刷するかに当時の宣教師たちの宣教に対する方針をうかがい知ることができる。

 ドラードは秀吉と謁見する少年使節とワリニャーノとともに上京する。秀吉はこの使節団に大いなる関心を持ち、彼らに質問をする。特に秀吉が喜んだのは彼らの演ずる楽器演奏であった。マンショがラベキーニャ(ヴィオラ)ミゲルがクラヴォ(チェンバロ)マルチノがアルバ(ハープ)ジュリアンがラウド(フルート)をみごとに演奏し、秀吉は何度も同じ曲をリクエストしたという。
 バリニャーノは秀吉に印刷した本を見せたが、秀吉はそんなに関心を示さなかったらしい。すでに秀吉のもとには小西行長が朝鮮から銅活字と印刷機を持ち帰っていたから、活版印刷に対する知識を持っていた。

 印刷所はこの後、セミナリオの移転に伴って加津佐から河内浦、そして長崎、天草に移転する。途中新たにイタリア製の2台の小形印刷機が加わり、次々に本が印刷された。
「ばうずもの授けよう」 バウチズモは洗礼である。「びょうじゃ(病者)にべにてんしゃ(懺悔)をすすむるきょう(経)の事」ではじまる平仮名の国字本。

平家「平家物語」ローマ字本。不干斎・フェビアン作の口語体による「日本の言葉とヒストリア(歴史)を習い知らんとする人のために世話にやわらげたる平家の物語」で外国からきた宣教師とセミナリオの生徒に日本の歴史を学ばせるテキスト。
「ヒデスの導師」ローマ字本。
「ラテン文典」ラテン語の文法教科書。

演説「羅葡日対訳辞書」ラテン語、ポルトガル語、日本語の辞書。3万語が収録されていた。
「エソボのファブラス」これは「ラテンを和して日本の口になすもの」イソップ物語をテキストにした日本語の教科書、副読本。
「コンテンツス・ムンジ」扉に「これ世を厭いイエス・キリストのご功績を学び奉る道を語る経」とあるポルトガル式ローマ字により、日本文とラテン語の2冊を出版。トマス・ア・ケンピス著「キリストにならいて」が原本
「心霊修行」イグナチオ・ロヨラの「霊操」ラテン語ローマ字組。

 1592年から1597年長崎に印刷所が移転するまでに印刷されたキリシタン版は30冊になるという。部数はいずれも1000部くらいであった。印刷用紙は、欧字本が輸入の雁皮紙で洋装仕立て、国字本が美濃半紙で和装袋綴じ仕立てであった。

 志岐というところに「画学舎」がもうけられ、ここで美術工芸全般が教えられ、教会の祭壇に飾る聖画や礼拝用のイエス像聖母像などの制作者を養成する美術学校であった。さらにパイプ・オルガンや、時計、印刷機などの製作も試みられていた。ドラードもここに通い、印刷術の講義実習を担当していた。
 ドラードはいるまん(修道士)になるが、一方ミゲル千々石とイルマン不干斎・フェビアンは棄教・転向する。
 そして1614年ドラードは原マルチノ神父や同宿のペトロ岐部、セミナリオ生徒の金鍔次兵衛らとともにマカオへ国外追放となった。このときに印刷機も持ち出していてマカオで印刷が続けられることになるのである。ドラードはマラッカへ呼ばれてそこで司祭になり、マカオのセミナリオの院長にもなる。そしてすでに追放となっていたジョアン・ロドリゲスとともに「日本小文典」の印刷に取りかかる。
 ジョアンという人物も不思議な人物で、1587年17歳で来日したポルトガル人。日本語に堪能でフロイスの後を受け継いで通訳兼通商代理人として秀吉、家康にかわいがられたが、その器用さがねたまれてイエズス会内部からも告発を受けて失脚してマカオにきていた。この人物もフロイス、ロレンソなどとならんでこの時代が生み出した希有の人物であろう。
 しかし、ついにドラードのいのちの炎がつきる。1620年、53歳だった。死因は、長年活字の鋳造にあたっての鉛中毒であった。原マルチノとジョアン・ロドリゲスに看取られて息を引き取った。

パウロ教会 マカオの聖パウロ教会には、ワリニャーノ、コンスタンチノ・ドラード、ドラードと一緒に従者としてヨーロッパにいってこの地で息を引き取ったロヨラ、そして原マルチノの4人が並んで葬られているという。

 原マルチノについて、述べておこう。4人の少年使節のなかでもっとも若かったが、最も優れた知能の持ち主であった。ゴアでの演説は人を引きつけてやまない。名説教師でかつ名文家であった。
 もっとも有名なエピソードは、関ヶ原の後、小西の城であった宇土城が加藤清正によって攻められた。そこには何人ものバテレンがかくまわれていて、清正によってとらわれた。そのときに原マルチノは単身城に乗り込み、キリシタン嫌いの清正に談判してバテレンの釈放に成功する。どんなふうに清正を説得したのか興味あるところである。
 かれはもっとも優秀な日本人イエズス会士であったが故に、イエズス会は彼を国外に逃し、いつか日本でふたたびキリスト教の宣教ができるようになるまで国外に逃がしたのであろう。
 かれは結局マカオで1629年客死するが、その遺志を受け継いだのがペトロ岐部だったということになる。

 現在確認されているキリシタン版で一番年代が新しいのは「こんてむつすむん地」で1610年京都の原田アントニオであるが、これは木活字本である。このローマ字本は1596年天草で作られているが、こちらは活版印刷であった。
 島原の乱で原城にこもったキリシタンたちは、鉛活字を火縄銃の弾にしたという。キリシタン版の鉛活字は一つも見つかっていない。活版印刷はこれで完全に費え去ったことになる。復活するのは明治になって長崎の本木昌造によってである。
 ただ、ドラードが造ろうとした「日本小文典」は1620年刊行されるが、この本が役に立つことはなかったことになる。

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2009年01月07日

それはテイカカズラの種だった


テイカ4 秋の運動場に、タンポポによく似たしかしタンポポより少し大きい綿毛状の種が風に乗って飛んでいるのをよく見た。はて、あれはいったいなんだろうかと樹木図鑑を探していたら、テイカカズラの種だとわかった。たしかこの木は春に紅葉するというので報告したことがある。



 
テイカ1テイカカズラはキョウチクトウ科の常緑の蔓性の植物。5〜6月頃白い花をたくさんつけ、芳香を放つ。花は筒状で風車かプロペラのような形をしている。
 秋には細長い果実をつけ、熟すと二つにわれ、冠毛のついた種子を風に飛ばす。

 テイカカズラの名は、式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに定家葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説(能『定家』)に基づく。


テイカ2 図鑑にはこのように書かれているのだが、この花からどのように細長い実が付くのか、そしてあの綿毛の種はこの細長い実にどのようについていて、どのように放出されるのかとても興味を持った。




テイカ3 そしてついに鎌倉の天園のハイキングコースで、この木を見つけよ〜く観察したら、やっとわかった。
 なんとも神秘的な実と種である。冠毛が輝くようにとても美しい。
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2009年01月04日

コンスタンティノ・ドラードとキリシタン版活版印刷 その1

 私が教員になる前に勤めていた会社は、活版印刷の会社だった。私が務めている間に活版印刷はどんどん縮小され、ついには廃止された。
 パリ・コミューンのリーダーだったジュール・バルランが製本工であったと聞いてとても嬉しかったことがある。私は最初は製本工としてスタートしたからだ。
 それと同じくらい嬉しかったのは、はじめに活版印刷を始めた日本人が、コンスタンティノ・ドラードというイエズス会士であったことを知ったときのことである。日本名は残っていない。かれは天正遣欧使節に随行した3人の従者のひとりで、バリニヤーノから、活版印刷を学ぶべき使命を帯びて、使節に随行することになった。1582年ドラード15歳であった。

 そのイエズス会士について書いた小説を読んだ。「活版印刷人ドラードの生涯 −天正遣欧使節の活版印刷−」(青山敦夫著 印刷学会出版部刊 2001年)である。
 この本がキリスト教系の出版社からではなく、印刷学会出版部なるところから出版されていることが先ず興味深い。
 この人は殉教者でもなかったので、教会の中でもまったくといってもいいほど知られていない。

ドラード1 コンスタンティノ・ドラードの肖像は、実は諫早図書館にある。教会ではない。諫早の昭和堂という印刷会社の社長さんがつくって寄贈したものらしい。

 コンスタンティノ・ドラードは、1567年諫早で誕生。この本によると海岸に捨てられていたのを拾われて教会に預けられ、ポルトガル人のイエズス会宣教師たちに育てられた。ポルトガル人の商人と日本人の女性の間に生まれたらしいのだが、両親はわからないし、日本名もわからない。
 こういう生い立ちであったので、かれは日本語とポルトガル語を話すことができたのである。これが彼の生き方を決めることになる。
 彼は13歳の時にイエズス会巡察使バリニヤーノと出会う。そして通訳としてバリニヤーノと行動を共にする。
 有馬のセミナリオにいたときには、ポルトガル人の教師の通訳としてあるいはセミナリオの生徒として、時にはそのセミナリオの用務員として働いた。
 またバリニヤーノが、信長やキリシタン大名となる人物と会うときにも通訳として同行する。
 そして有馬のセミナリオの生徒たちから、遣欧使節として派遣する計画があったときに、ドラードはその従者となって少年使節に随行するようにバリニヤーノから告げられる。
 ドラードは4人の少年使節のような「使節」ではなかったが、彼には特別な使命があることもつげられる。それが活版印刷を学び、活版印刷機をヨーロッパから持ち帰ることであった。
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ペトロ岐部と金鍔次兵衛

 昨年列福されたペトロ岐部も金鍔次兵衛も、1614年の宣教師国外追放によって、原マルチノやコンスタンティノ・ドラードらとともにマカオに行っている。
 しかし、マカオのイエズス会が日本人を司祭にしない方針をとったときに、ペトロ岐部、マンショ小西、ミゲル・ミノエスの3人は上長の命に反してマカオ脱出をはかり、ローマに旅立っていく。
 このとき、金鍔次兵衛はペトロ岐部とは行動を共にしなかった。なぜなのか、ちょっと疑問に思った。

 「魔法のバテレン」(松永伍一著 偕成社)にはこう書いてあった。

 「神父になりたい」と願っていた修道士や同宿の若者たちは、イエズス会のこの方針にガックリきた。
 「それならそれでいい。ローマに行って司祭になればいいのだ。こんなところにいてやるものか」とタンカをきってマカオから抜け出したグループのリーダーが30歳の岐部ペトロだった。
 イエズス会は大騒ぎになった。
 トマス(金鍔次兵衛)は、その大事件に対して知らぬふりをしたろうか。そんなことはない。岐部ペトロが「おまえも一緒につれていくぞ」と誘ってくれたらローマに行ってみたいと思ったほどだ。結局脱走したのは3名にとどまった。
 岐部ペトロたちは二手に分かれてインドのゴアから陸路を歩いてエルサレムに行って、その後ローマに入る者と海路リスボンに着いてローマに入る者と、道こそちがえ、願いは一つ「ローマ教皇のもとで司祭になってみせる」ということだった。
 3名は男らしくそれをやってみせるが、トマスがそれを知って感激の対面をするのは、12年後であった。

 ペトロ岐部はこのときイエズス会の同宿であり、トマス金鍔次兵衛はセミナリオの生徒という身分であった。年齢的にもペトロは30歳、トマスは20歳と違っていた。たぶん、そのことゆえに次兵衛はペトロ岐部の脱出劇は知らされていなかったと推測される。
 マカオのイエズス会は、その後修道院院長に日本人のコンスタンティノ・ドラードがなり、事情が少し変わってくるのだが、ドラードが死去してしまうとマカオのセミナリオが閉鎖になってしまい、日本人のセミナリオの生徒は日本に帰されることとなった。
 日本に戻った金鍔次兵衛は司祭になりたい気持ちを抑えられずに今度はマカオに密出国をしてそこでアウグスチノ会に入会して司祭になる。トマス25歳のときである。
 ところがアウグスチノ会が日本に戻ることを許可しない。
 そんなとき、ローマで司祭になって戻り、日本に潜入するすべを探していたペトロ岐部と再会する。
 「魔法のバテレン」にはこの場面についてこう書かれている。

 ある日。サンミゲル村に日本人の神父が来ているといううわさを耳にして、トマスは日本人町に駆け付けた。
 トマスは、その神父はだれだろうかと想像しながら,こんどはゆっくり歩いて心を落ち着けた。
 日本人町の世話人の家らしい。門もある。そして玄関に立って挨拶をした。しばらく間をおいて「あなたはどなたさんで………」と老人が耳に手をあてるようなかっこうをして出てきた。
「トマス・サン・アゴスティンという日本人の神父ですが……」
 耳が遠いらしく、トマスのことばをききかえそうとした。そこへ奥から「トマス?」と一人の男がおおまたで出てきた。
「やあ、岐部ペトロ先輩!」
「なんだ。トマス次兵衛じゃないか」
「あーあー、ほんとにびっくりしましたよ」
「こんなところで再会しようとは、ね。神さまのおはからいだ。さあ、あがりたまえ」
 二人が別れたのは1617年であった。岐部ペトロはマカオを脱出して、ローマに向かって突き進んだ勇敢な人であった。あのときセミナリオの生徒であったトマスは(この人はいつでも夢を食べたがっている人のようだ)と思ったがあれから12年がたっている。

 なつかしさが先に立って、古い話が先ず出てきた。それから岐部ペトロは、ペルシャの砂漠を歩き、聖地エルサレムに巡礼を果たし、ローマに入って1620年11月に司祭に叙せられたこと、3年後にリスボンを出発してマカオに入り,船がなくて帰国できずに、シャムのアユタヤに出てまた船を探したが、ついにだめで、やっとこのマニラにやってきたことを男らしい口調で語った。
「そうか。トマスも神父になったのか。おめでとう。ほんとにおめでとう。」
 二人は手を握った。そしてトマスが気にしていることを先取りするように
「イエズス会であろうとアウグスチノ会であろうと、あるいはフランシスコ会であろうと、もうそんなことで対立している時期ではない。キリスト教徒としてみんな力を合わせて地上に神の国をつくるために骨を折らなくてはならないんだよ。早く日本に帰って、苦しんでいる信者に勇気を与えてやらねば………」
「岐部神父、ほんとにそのとおりです。」
 こんなうれしい再会ができるなんて、だれが想像できただろう、とトマスは泣きたい気持ちで、髪の毛に白いものがまじっている42歳の岐部ペトロの顔に見入っていた。


 しかし、このふたりは行動を共にしていない。それぞれ別個に日本に潜入する道を探し続けた。
 先に潜入することに成功したのはペトロ岐部であった。
 トマス次兵衛の方はマニラの修道会の許可が出ない。あせったトマスはローマのアウグスチノ会本部の総長宛に激しい手紙を書く。この手紙については前に紹介した。
 もちろん本部からの返事を待っているわけにはいかない。結局かれは中国人に変装して中国船に載って日本に潜入することに成功する。1631年金鍔次兵衛神父29歳の時であった。
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2009年01月03日

今年の初詣

 今年も教会の元日ミサにでたあとに、母をのせた車いすを押しながら、総持寺にまわり、さらに駅に出て1月1日の新聞を買い集めてきました。私の初詣ツアーです。
 総持寺はいつもより人手が多いような気がしました。不景気になると初詣客が多くなるのでしょうか。

 総持寺白字会という名で毎年配布されているチラシがあります。ここに書かれていたことを紹介しましょう。

 明るい一年のために

 喜心
   つらいことほど楽しくやる
 老心
   相手の身になっていたわる
 大心
   広い心でお互いに許しあう

      平城21年


「老心」がなぜ「相手の身になっていたわる」という意味になるのか、ちょっとわかりにくいので、広辞苑や漢和辞典を調べてみたのですが、こういう意味では載っていませんでした。
「喜心」というのもステキです。「つらいことほど楽しくやる」というのはやはりこの不景気時代を意識しているということなのでしょうか?
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2009年01月01日

福音ポスター 第2作目 新春編

 新年あけましておめでとうございます。
 今年もよい年でありますように。

 現在973ページです。2009年中には1000ページになりそうです。問題は容量で、無料で提供されているのが100メガまでで、それ以上になると有料になるのです。どうしたらいいでしょうか? 今83メガまで使用しています。これも今年中にはいっぱいになりそうです。

 昨年暮れの28日NHK教育テレビでキリシタン殉教者についてのETV特集のドキュメンタリーがありました。そこでペトロ岐部が紹介されていました。それで「ペトロ岐部」で検索して私のブログを訪れた方が1日で50人以上いたようです。


新しい今 それはともかく、容量が心配なのですが、福音ポスターの第2弾、新春編です。ここで紹介されている川崎洋氏の詩は昨年2008年1月1日のページにあります。
 私はこのポスターをA3判の用紙にプリントアウトしたものを家の前に掲示しています。もしもどなたかがどこかに掲示したいと言われるのであれば、どうぞお使いください。
posted by mrgoodnews at 01:04| Comment(0) | 福音ポスター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする