2009年04月02日

松浦静山はわたしみたいな人だと言われた。

 平戸城と松浦資料館にいって松浦静山という人物の紹介文を読んだ MAGIS 氏が「ツッチー(わたしのこと)みたいな人がいるよ」とわたしに教えてくれた。何がわたしみたいなのか、紹介文をよく読んでみると、この人は松浦藩の藩主、日本初の雑誌を発行した人で、「発信型」のひとだったところがわたしみたいだというのである。

 そこで改めて調べてみたら、なるほどこの人の生き方もおもしろい。

 松浦静山(1760〜1841)は、1775年15歳にして家督を継ぎ平戸藩藩主となる。財政改革や藩政改革を断行し、藩校維新館をつくるなどして実績を上げた。
 しかし1806年には家督を次男に譲り、隠居生活に入る。隠居して何をしていたかというと、文筆活動なのである。随筆集『甲子夜話』や剣術書『剣談』などを著した。とくに『甲子夜話』正編100巻、続編100巻、三編78巻に及ぶ大規模なものであり、内容は田沼意次時代から寛政の改革時代頃にかけての政治、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。
 また。剣道にも長けていて、心形刀流の奥儀を極めていた。静山が老中・水野越前守忠邦に頼まれて、柳原の土手によく出没した辻斬りを退治するために、夜パトロールをしていたという話しも残っている。
 名君として誉れ高い松浦静山は、川柳のよき理解者でもあった。川柳人松山又流水としての立場で暮らすことのできた希代の大名でもある。

 更に驚くことは、このひとは17男16女に恵まれている。(いったい何人の妻がいたんだ。)
 そのうちの11女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この松浦静山の血も少なからず受け継がれているのである。
 ここは、わたしとはまったく異なっている。

 平戸城で松浦静山の肖像画を撮影したのだが、iPhone 水死となってあえなく消失。残念。
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2009年04月01日

壱岐の「鬼凧(おんだこ)」と五島の「バラモン凧」

 平戸で壱岐の「鬼凧」と五島の「バラモン凧」を買いました。といっても「鬼凧」のほうは「豆凧」でたて8センチくらいの小さなものでした。これでホントに飛ぶのかどうか、まだ試していません。
 なんでこういう図柄になっているのかは、壱岐の鬼凧の説明を読んでわかりました。

 
鬼凧昔、昔その昔,壱岐の島に多くの鬼が住んでいて悪事の限りを尽くしていました。そのうわさは都まで伝わり、百合若大臣という立派な武者が鬼退治に立ち上がりました。壱岐に上陸した百合若大臣は噂に違わぬ強さで、とうとう鬼の首を切ってしまいました。その首は空高くに舞い上がり、落ちてきて、百合若大臣の兜にかみつき、息絶えたとつたえられており、これらの伝説を図案化した凧が「鬼凧」となりました。壱岐では今でも「鬼凧」をあげて百合若大臣の強さを思い出し、島に鬼が戻ってこないように願っているのです。


 ところで五島の「バラモン凧」についてはこう説明がありました。

 
バラモン凧バラモン凧は五島に古くから伝わる大凧の名称で、バラモンとは地元の表現で「活発で元気のいい」とか「荒々しく向こう見ず」という意味があります。絵柄には鬼に立ち向かう武士の兜の後ろ姿が描かれており、「裏兜」と呼ばれるもので、敵に背中を向けない勇者の姿を表しているといわれております。バラモン凧は遣唐使や倭寇にゆかりのある地域に限られているところから、倭寇がもたらした可能性が強く、距離を測ったり、風向きを調べたり、なにかの合図のために掲げられたものではないかといわれております。

 という説明がありました。微妙に違っているところがまたおもしろい。
 ところがこれを作ったのは、いずれも「福祉の里 松浦作業所」という松浦市の福祉作業所でした。これを買ったところが、平戸観光協会直営のおみやげ店であったからかもしれません。
posted by mrgoodnews at 15:29| Comment(0) | おもちゃ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする