2009年05月31日

YouTube動画「チキン・アラカルト」の衝撃

 宗教教育ネットワークの goodnews-ml で「チキン・アラカルト」という動画を見てみてくださいという情報が流れてきました。

 その動画はここにあります。6分ほどの短い動画ですので、ぜひ見てみてください。
 そしてこれを見て、考えたこと、感じたことを心にとめておいてください。


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2009年05月28日

「青銅の基督」(長与善郎著)の描く萩原裕佐という南蛮鋳物師


青銅の基督 私はこの本を今から45年ほど前高校1年だったころの夏休みに読んで読書感想文を書いた。そのためかだいたいのストーリーは覚えていた。

 舞台は長崎。「島原の乱が片づき、つづいて南蛮鎖国令が出てのち、天文18年以来の百余年の長きにわたり、2千人以上の殉教者と3万数千人の被刑者とを出して、なお執ねく余炎をあげていた切支丹騒動なるものは一段落ついたようにみえた」ころである。全国の津々浦々に切支丹禁制のヒノキの高札がいかめしく立てられていた。

 長崎の古川町に萩原裕佐という南蛮鋳物師がいた。彼は以前モニカという女性に恋をしていたが、彼女が切支丹であるがゆえにその恋は実らぬ恋と終わった。
 裕佐はモニカとどこか似た面影をもつ君香という遊女のいる遊郭へと通うようになる。この遊女も元は切支丹だったらしい。
 そんなとき裕佐のもとへ沢野忠庵(背教者フェレイラ)があらわれ、裕佐に切支丹に踏ませるための踏み絵を青銅で作って欲しいと頼まれる。
 裕佐はあいまいな返事をしていた。が、偶然会ったモニカの弟吉三郎にその年のクリスマス(ナタラ)の集いに誘われる。
 裕佐が集いに参加しているときに、沢野忠庵と役人に踏み込まれてしまう。裕佐はキリシタンたちを守ろうとして役人に「おれはこの仲間のかしらだ! 捕まえるならおれを捕まえろ!」と叫んでしまう。
 結局それが引き金となって、裕佐は踏み絵の製作を引き受ける。
 完成した踏み絵があまりに神々しく素晴らしいものであったがゆえに、裕佐が切支丹であるとの嫌疑を受け捕まって奉行に尋問される。
 それまで踏み絵を踏んでいた切支丹も、この青銅のキリスト像は踏むことができなかった。そのなかにあのモニカと君香がいた。更に裕佐も自分の作った青銅のキリストを踏めなかったのである。
 モニカは殺される前に裕佐に「あなたはやはり信心をもっていらしたのですわね」というのだが、それは誤りであった。萩原裕佐は最後まで決して切支丹ではなかったのである! 彼はただ一介の南蛮鋳物師にすぎなかったのである。

 あらすじはこんな感じである。
 実はこの話は、実際にあったことらしい。寛文のころ長崎古川町に萩原という南蛮鋳物師がいたこと、そしてその踏み絵が神々しくできすぎたために信者とあやまられて殺されたことは事実である。
 著者はクリスチャンではない。だが、この「事実」は長与善郎の創作意欲を刺激した。裕佐が青銅のキリスト像を造ることを決意したように、長与はこの短編小説を書こうという気になった。
 高校生のころ書いた感想文でどんなことを書いたのかは覚えていないが。あの時に感じたことといま感じたことはおそらくよく似ているのではないかと思う。あの感想文をぜひもう一度読んでみたくなった。
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電子レンジの実験

 からのガラスのコップと水の入ったガラスのコップとそしてサラダ油の入ったガラスのコップを用意します。
 この3つを電子レンジに入れて1分間加熱します。どれがもっとも熱くなったでしょうか?

 なんとなく、からのガラスのコップがもっとも熱くなるような気がしませんか?

 正解は水が入ったコップ、つぎはからのガラスのコップ、なかなか暖まらなかったのはサラダ油の入ったコップでした。

 電子レンジが加熱する原理は、誘電加熱といわれます。この誘電率が物資によって異なっています。
 たとえば、ポリエチレンは2.3、ガラスは5.4、エボナイトは2.8、水は81、油は3.5と違いがあるのです。
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2009年05月27日

「手紙 親愛なる子どもたちへ」のポスターをつくりました。


えがおと詩 5月21日に「手紙」の詩を紹介しましたが、これをポスターにしました。
 私の家の前や教会に掲示しようと思います。

 背景にうっすらと映っているのは、おなじみ母のいよさんのとびっきりステキな笑顔の写真です。

 いよさんは今日5月27日が90歳の誕生日です。
 いよさんに頼み込んでこの詩を朗読してもらいましたが、この詩がいよさんのことを読んでいるとは気がつかなかったようで、別に何の感慨もありませんでした。ちょっとがっかり。
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2009年05月24日

島根県海士町と福来茶に興味を持ちました。

 今日25日(日)NHKの「ご近所の底力」という番組を何気なく見ていたら、島根県隠岐島の海士町のことが紹介されていた。

 番組では、三宅島の人を励まそうと、離島で町おこしに励んでいる例としてこの海士町のことが紹介されていた。
 地域の特産物を開発することなら全国どこでも行われていることであろうが、ここでは「売れる特産品」を生み出すために「島では当たり前でもほかの地域からみたら珍しいもの」を特産品にしているというポリシーがあるという。
 それによって開発された特産品が「サザエカレー」であり「福来茶」である。

 福来茶はクロモジの木を使ったハーブティーであるという。ネーミングがまたいい。これを飲むと福が来たるというわけだ。
 メグスリノキのお茶は飲んだことがあるが、クロモジノキはまだ飲んだことがない。この木は葉も幹も独特のいい香りを持っている木であり、和菓子をいただくときの楊枝に使われたりする木である。
 これは今度ぜひ手に入れてみようと思う。

 この町が興味あるのは、特産品だけではない。それを作り出すプロセスそのものも多くの示唆をもっているのである。
 この町も少子高齢化をひたすら歩んできた町であるが、「商品開発研修生」を町の外から呼び込み、その研修生とともに商品開発を勧めていくようになって、この町には若者が集まってくるようになった。
 慶応大学の大学院と提携して地域起業家養成のコースも開かれていたりする。

 この町のことをいろいろと調べていくとなるほど今度ぜひ一度訪れてみたくなるおもしろそうな町である。
 この町の観光協会が作っているホームページもなかなかのものである。
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2009年05月22日

民族音楽におおい5音階の音楽の不思議

 世界の民族音楽には5音階の音楽(ペンタトニック・スケール)が多いといわれる。西洋音楽が7音階の音楽であるのにたいして5つの音符しか使用しないで作られる曲である。

 たとえば日本の伝統音楽である民謡や唱歌、そして演歌は「ヨナぬき調」といわれる5音階で作られている。ドから初めて4番目(つまりファ)と7番目(つまりシ)の音を使わないで歌われる。
 このことを知った明治政府の音楽取調掛の初代所長伊沢修司は学校で教える小学唱歌を選定するときに、この日本の音階と似た構造をもつスコットランド民謡やアイルランド民謡を積極的に取り入れた。「蛍の光」「故郷の空」「埴生の宿」「庭の千草」などがこれである。日本人に親しみ深いというわけであろう。

 演歌もこのヨナヌキが多い。演歌の特徴はこのヨナ抜きとコブシであるといわれる。
 
 日本のヨナ抜きに対して琉球音階は、特徴がある。レ(2番目)とラ(6番目)の音をぬくのでニロ抜き調などともいわれる。
 たしかにこの2音を使わずにピアノの鍵盤を叩いてみると、なにやら沖縄の音楽風になるのである。
 なおこの音階はインドネシアのガムラン音楽においても採用されている。

 ある特定の音を使わないとある雰囲気の曲ができるというのはとても不思議な感じである。
 そういえば短調の曲はラからはじまるというのを聞いたことがあるが、ラからはじまる短調の音楽は何となくもの悲しい雰囲気を持つというのも、考えてみたらとても不思議である。
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2009年05月21日

「手紙 親愛なる子どもたちへ」という詩は母のために書かれた詩であると思った。

 この詩を読んでみてください。何を感じるでしょうか?

手紙 〜親愛なる子供たちへ〜 
原作者不詳、角智織 訳詞・樋口了一 補足詞

年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ
消え去ってゆくように見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひとときに私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂にはいるのを嫌がるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し何度も着がえさせたり
さまざまな理由をつけて
嫌がるあなたとお風呂に入った懐かしい日のことを
悲しいことではないんだ
旅立ちの前の準備をしている私に祝福の祈りを捧げて欲しい
いずれ歯も弱り飲み込むことさえできなくなるかもしれない
足も衰えて立ち上がることすらできなくなったなら
あなたがか弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私にどうかあなたの手を握らせて欲しい
私の姿を見て悲しんだり自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらいことだけど
私を理解して支えてくれる心だけをもっていてほしい
きっとそれだけでそれだけで私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに私がしっかりとつきそったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい
あなたがうまれたてくれたことで私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛をもって笑顔で応えたい
私の子どもたちへ 愛する子どもたちへ


 私はこの詩を読んで、母の気持ちをみごとにうたっていると思いました。
 私は教会の入門講座に、母と妻を連れていきます。母をひとりで家においておくわけにはいかないからです。
 今日はその入門講座で母にこの詩を読んでもらいました。読んでくれたことはくれたのですが、この詩の内容は理解できなかったようで、読んだ後に感想を聞いても「わからない」としか答えが返ってきませんでしたが………。


tegami 実はこの詩はちょっとしたブームになっているようで、先日NHKの「ほっとモーニング」で樋口了一さんの歌うこの歌を紹介していました。
 本屋でこの本を探してもなかなか手に入らず、amazon.com に注文したら、在庫がないとのことでした。入庫しだい送るということで注文をしたら、今日横浜ルミネの有隣堂でやっと見つけました。

 そうそう、こんど母のいよさんに朗読してもらってそれをPodCasting することにしましょう。
 近いうちに PodCasting もできるブログにお引っ越しをしようと思っています。
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2009年05月20日

「生きがいの法則」は大発見だと思う。

 野田正彰著中公新書「生きがいシェアリング」を読んでいたら、こんなことが書かれていた。これは大発見だと思う。

 生きがいとはどうやら他者との相互関係の中にあると考えられる。それを定式化すれば次のようになる。

「生きがい」=「他人からよせられる関心」× 「それに応えているという自覚」

 先ず他人からよせられる関心がある。それに応えているという自覚が生じる。そしてその2つの積として生きがいが生じるのである。
 他人の関心がないのに自分だけで勝手に自負、ひいては生きがいを保つのは難しい。
 視点を変えれば、生きがいとは富とか地位と異なり、無限に創ることができるものであるといえる。私が身近な人の生き方、興味、得意とするものに関心を示すならば、相手はそれによって励まされて、生きがいを感じるのである。多くの人の生き方、存在に関心を持てば多くの生きがいが創られる。
 生きがいとは関心によって不断に分配可能なものである。他人への関心がその人の生きがいにつながるものと見れば、私は深い歓びを得る。
 同時に周囲の人びとは私のなかにさまざまな関心を見つけ出し、私の自負心をかき立ててくれるだろう。


 私ふうに言いかえれば、つまり、生きがいとは、人から必要とされている度合いとそのニーズ(必要とされていること)に応えられることとの積ということになる。
 誰からも必要とされていない、むしろ邪魔な存在とみられていると言うことは生きがいの喪失につながるであろう。
 そして必要とされていても、それに応えられないのであれば、また生きがいも消え去ってしまう。
 他人から必要とされることとその必要に応えられることとは確かに生きがいを構成する重要な要素であることはまちがいない。

 しかし、無名の多数からよせられている関心は受け手にとって真の関心ではない。それは幻想のなかの関心であり、そこから創られる生きがいは華やかに見えて空虚である。
 真の関心は少しでも知り合っている人から向けられた関心である。よく知っている人から「ああ、あなたはこんな生き方をしていたのか、こんな能力があったのか」と関心をむけられた、真実の生きがいを感じ取る。
 マス社会の関心から、個別の人間のネットワークのなかで生み出される関心へ、私たちは関心を作りかえる時に来ている。
 そうすれば生きている実感は絶えることはなくなるのではないか。私たちは勤勉によって生きがいを所有ないし、独占しようとした時代から「生きがいシェアリングの時代」に映っている。


 この定式によると、問題は「後期高齢者」とか「障害者」なのだろう。つまり、こういう人は「他人から必要とされること」も少ないし、「その必要に応える」こともほとんどできない。この人たちにこの定義・法則を伝えるにはどうしたらいいのか、お考えをお聞かせください。
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2009年05月19日

外国人に日本語で日本語を教えるポリシーに共感!

 昨年10月から、日本語を教えるボランティアの養成講座に通っていたということはすでに報告しました。
 この4月で養成講座がひとまず終わり、実際にボランティアグループに属して教える場面に立つこととなりました。

 この講座を修了して考えたことがいくつかあります。
 まず、日本にいる外国人に日本語を教えるボランティアグループはけっこうたくさんあることに驚きました。その多くがほとんど無償で教えているということ、時にはひとりの学習者に2人ものボランティアがついて教えていることも珍しくないようです。
 私が通っているのは東戸塚の市民活動センターですが、この前いった緑区の市民活動センターにおいても行われていました。
 この日本人たちのやさしさ、親切さというのはすごいなと感動します。

 それからもう一つ。私の通っている日本語教室の教え方に特徴がありました。
 これは徹底して日常的に必要な会話を教えるというメソッドなのです。文法はほとんど教えずに日本語で普通に使われる表現を教えます。リアリティをとても大切にしているのです。
 日本語で日本語を教えるということも徹底しています。英語が使えても英語では教えない。日本語のできない人にもほとんど日本語で教えるのです。
 そしてもうひとつ、文字を使うのをできるだけおさえて、耳から教えます。実際に聞き、自分で言えるようになってはじめて今日習ったことのプリントが配られます。教科書はあるけれどもほとんど見ないのですね。

 これを学んでいて、日本人が英語をあれだけ学びながら、ほとんど話せないという理由がわかったような気がします。
 日本の英語教育は、文法から教えて、ほとんど日常的には使わない表現を教えます。たとえば This is a pen.I am a boy. You are a girl.などという表現は日常的には使われることのない表現なのです。
 しかも文字で読むことや書くことを中心に教えている日本の英語教育ではいつまでたっても自由に会話ができるようにはならないでしょう。

 このボランティアグループが採用している日本語教室のポリシーは、実に適当で正しいのだと確信しています。
 

 
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2009年05月18日

瑞牆山(みずがきやま)に登りました。

 前にみずがき山に登りたいと書いたことがあります。その念願が叶いました。やはりなかなかいい山でした。


みずがき0 きっかけはサンケイリビングを読んでいたら、「日本百名山・瑞牆山登山 〜そそり立つ花崗岩の岩峰群〜 5月16日出発」という広告記事を見つけたことでした。
 サンケイツアーズというところが企画している「リビングふれあい登山」という山登りツアーのようです。
 横浜からバスで朝7時に出発、みずがき山を登山して、帰りは夜9時頃というツアーです。


 5月は、秩父連山の西端に位置する日本百名山・瑞牆山(みずがきやま)へ。花崗岩と石峰、樹林帯が混在し、森林に岩がニョキニョキと生えているような山容が特徴です。山荘から急坂を登り、富士見平小屋へ。天鳥川出会い経由で足場の悪い急坂から大展望が広がる賛同を目指して折り返す、約6キロ・5時間のコース。標高差720メートル。



みずがき1 登りはときどき雨がぱらつくような状態でした。なかなか登りはきつかったです。岩がごろごろする中を登っていく感じでした。
 11時半ころから登りだして2時ころに山頂に立ちました。




みずがき2 山頂は残念ながら曇っていて、ときどき隣の山が顔を出すという感じでした。晴れていれば南アルプスから富士山、八ヶ岳、金峰山などの眺望がすばらしいところのようです。また下を見たらぞっとするほどのそそり立つ断崖絶壁なのです。
 帰りは雨となり、レインコートに身を包んでの下山でした。


みずがき3 このツアーは、町田、新百合ヶ丘、横浜駅前の3地点からそれぞれバスがスタートして全部で73名の参加者がいたそうです。ほとんどが中高年で、女性も3分の1くらいいました。かなりきついコースでしたが、そのほとんどが落後せずに登頂に成功したのです。これにはすごいなと感心しました。


みずがき4 今度はシャクナゲの咲くころ、そして晴れた日にまた来るんだって思いました。そういう山なのです。
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2009年05月17日

こんな所に「高輪森の公園」を見つけました。


高輪森1.jpg 品川駅の近く、ホテルパシフィックの後ろ側、品川税務署の横に「高輪森の公園」があったので入ってみました。
 こんな所にこんな森が!とこれを発見したときはちょっと感動でした。



シナノキ1 樹齢3〜40年くらいのけっこうな高木が多くあって、ここは公園になる前は何だったのだろうかという疑問を持ちました。
 ちょっと調べてみたら、ここは2006年に国有地であったものが、港区に売却され、港区はここを「森の公園」として公開するようにしたようです。もっともそれまでも国はここを区に無償で委託管理していたようです。
 国はここを27億円で港区に売ったそうですが、この一等地は競売にしたら80億円はくだらないということです。もっとも競売にかけたらこの森は消え失せるでしょう。


シナノキ2 小高い丘みたいなものがあって、そこにいろいろな木がありました。ただし、木の名前を記したものがありませんでした。
 なかでもちょうど花をつけていて、その花がたくさん根元に落ちている木が目立ちました。樹木図鑑で調べたらどうもシナノキであるようです。
 シナノキは、花には芳香があり、良質のハチミツがとれます。樹皮が強靱でロープの原料になるということです。


シナノキ3 こういう公園の木に、名札がなく、樹木のいろいろな説明がないということはとても残念です。
 季節ごとの木の状態、新芽のころ、蕾から花、実の状態、更に越冬のしかた、そしてその木の用途など、木の特徴を説明する文章とそれぞれの写真を添えたものをまとめて、1枚のポスターにつくりたいと思います。
 さらにそれをホームページ上に公開して必要な人はそれぞれプリントアウトして使えるようにできたらいいと思います。
 結局私がするしかないのでしょうか。
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2009年05月08日

鎌倉の町を歩いて発見した掲示板に書かれていたこと


掲示板1 鎌倉はやはり奥深い町である。裏通りの細い路地を歩いていてもなにかを発見する。

 こんなことが書かれている掲示板に出くわした。

少年も青年もやがて年寄になる。
年寄を大じにすることはやがての自分を大じにすることである。
この意味を知り、これを行うことが人間として大切なことだと思う。
年寄はこの人間の作法を子や孫に篤と訓えておきたい。
これが社会や子孫に遺すなによりの贈りものである。


 別にどうということのない文章かもしれない。が、これが町内会の掲示板に貼ってあるところがすばらしい。誰がこれを貼ったのであろうか? これが掲示されていることに町内の人はどう思っているのだろうか?
 きっと世の中を憂いているお年寄りなんだろうななどとあれこれと想像してしまう。

 町にこういう掲示がもっとあっていいように思う。そうしたら町を歩くのがもっと楽しくなるであろう。
 じつは鎌倉にはこういう掲示板がけっこう多いのである。これも鎌倉という町のおもしろさであるだろう。
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2009年05月07日

西水美恵子というこんなステキな日本人女性もいるんだ。

 これも毎日新聞の日曜日に掲載されている経済コラム「潮田道夫の『千波万波』」4月26日から。潮田道夫氏は毎日新聞論説委員。

 その記事で紹介されていたのが、西水美恵子さんという日本人女性である。彼女は元世界銀行副総裁であるというから、まずびっくり。緒方貞子につづいて国際舞台で活躍する日本人女性である。

 彼女が世界銀行に赴くときに、エジプトのカイロの「死人の町」というスラムを訪れた。そこで彼女にだかれつつ息を引き取った「ナディア」という少女に出会う。
 世界銀行の「官僚的な組織文化をひっくり返して、貧民に仕える文化に変え」るべく世界銀行の改革に乗り出す。
 その一環として「全職員の脊髄にあの火をつけよう」と、1〜2週間、途上国の貧村にホームステイをするように促した。尻込みする部下には「付いて来い!」と自ら率先。

「世界銀行の顧客が誰なのか、考えてごらんなさいな。 貧しさに喘ぐ人々です。政界や財界の権力者ではありません」。彼女はこういいながら貧困の問題と取り組む姿勢を明確にする。
 そして、世界銀行が投資すべき対象は、貧困の問題と正面から取り組んでいるリーダーたちであるとして、そのリーダーたちを育てることを重視した。

 彼女はブータンというアジアの小国に注目する。この国のワンチェク国王は国民総幸福量という指標をGDPのかわりに提唱したことでしられている。国勢調査で国民にあなたは幸せですかときいたら、なんと97%が幸せですと応えたそうである。
 日本がこの国から学ぶことはとても多いと指摘している。


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2009年05月06日

「点字ブロック」についてのふたつの Good News

 私の母の家はもう何十年と毎日新聞である。私の家は言わずと知れた朝日新聞である。90歳間近な母はもう新聞を読まなくなったので、私が毎日と朝日を毎日読んでいる。

 興味のある記事やこのブログのネタになりそうな記事は切り抜くことにしているが、最近、切りぬく記事の数で毎日が朝日を凌駕しているのである。
 私が毎日新聞を読むのを楽しみにしているコラム記事のひとつが、「発信箱」という記者たちのコラムである。
 5月3日の担当は萩尾信也記者であった。題して「点字ブロック」。ここにその記事の全文が載っている。

 4月中旬の夕刻のことだ。通行人でにぎわう駅前広場で知人と待ち合わせをしていると、左手の改札から白杖を手にした中年の男性が、点字ブロックの上を歩いて来る。
 約束時間になっても現れない相手を探して、目を反対側に転ずると、右手からはビジネスバッグを小脇に抱えたスーツ姿の青年が、足早に改札の方向に向かっていく。
 そんな2人がすれ違った。
 と! 突然、青年が立ち止まり、きびすを返して白杖の男性を追い越していく。その行く手には、1台の自転車。点字ブロックの上に、はみ出すように止めてある。
 青年は自転車を歩道の隅に片付け、腕時計に目をやると、再び急ぎ足で駅に向かう。そして、事のてん末を知らぬままに白杖の男性が無事に通り過ぎる。
 街角で目撃したさりげない思いやり。


 こんな街角の「さりげない思いやり」を発見する記者の目がとてもいい。

 そしてその記事にはこんなことも紹介されている。

 
ちなみに、点字ブロックは1965年に日本で生まれた。岡山県で旅館業を営んでいた三宅精一という「街の発明家」が、交差点を渡ろうとした視覚障害者がクラクションを鳴らされてうずくまる姿を目撃。「安全に街を歩ける方法はないか」と、私財を投じて開発したそうだ。


 さっそく「点字ブロック」と「三宅精一」で検索して調べてみたところ、いろいろなことがわかってくる。
 「そうか、これは日本人の発明なんだ」と思うととても誇らしくなり、そして「点字ブロック」に愛着を持つようになったというわけである。

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2009年05月03日

木の性質と用途

塩野米松著「木の教え」(草思社 2004年刊)という本を読んでいる。
この書は宮大工や船大工などの木の職人の技について書かれた本である。これがまたいい。

たとえば

 石屋さんが石を割るのに振るげんのうの柄にはカマツカという木を使います。地方によっては柊や花ももなどを使いました。それは石を割った時にしない手に直接衝撃が来ないようにクッションがあり、かつ折れることのない丈夫な木だったからです。
 長い経験の末にそうした木を見つけて使ってきたのです。
 こけら割りの職人さんが使う槌はイタヤカエデ、大工さんが使う鉋の台はカシ、舟をこぐ櫓もカシ、鍬などの農具の柄もカシです。これは硬くて丈夫だからです。
 鋸の柄には桐を使いますが、これは長い間使っても熱を持たないから。柄には籐が少しだけ巻いてあるのは滑り止め。
 風呂桶は水に強い木としてカヤ、コウヤマキ、檜、ヒバ、杉。川船を作るには杉。
 寺の塔や堂をつくるには檜。爪楊枝はクロモジ。工事現場に使う杭や土台は松。
 それぞれ木の性質を考え、生かして使ってきたのです。


 そういえば、前に鉛筆の木はエンピツビャクシンという木だと書いたことがある。あの鉛筆を削る独特の香りを発する木である。

 このほかにも、この道具にはこの木が使われているという例がたくさんあるだろうと思う。それを調べてみたい。木というものの魅力がそこに凝縮していると思うからである。

 丹沢の札掛けの山荘に行った時に、5センチ角でながさ30センチくらいの角材となったいろいろな木がおいてあった。
 木の色がみな違っていて美しかった。
 でもこれは木の色の違いを見るためではなく、実はそれを固い床の上に落とした時の音を確かめるために置いてあったのである。
それで実際に試してみたところ、なるほど、確かにみな音がちがう。もっともいい音がしたのは(名前調べ中)の木であった。澄んで高い音がしたのである。
 そういえば木琴はなんの木でできているのであろうか。興味あるところである。

 今度札掛け山荘に行く時には、ビデオカメラを持っていって、木を床に落とした映像と音を撮影しなければいけないと思った。

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2009年05月02日

"The Laughing Christ"「笑うイエス像」のほがらかさ

 聖書にはイエスが笑ったという記述がない。イエスが涙を流して泣いたというところや怒ったところはいくつもあるが、笑ったという記述はないのである。
 これはなぜか?

 いろいろ考えてみると、二つの理由が考えられる。
1.実際にイエスは一度も笑わなかった。
2.福音書を書いた人が笑う場面を必要としないと判断したから。
 まあ、1は考えられない。実際聖書を読んでみると、ここはイエスが笑ったであろうという個所はいくつかあるからである。
 では、なぜイエスが笑う場面が書かれなかったのか? 

 神聖な聖書にイエスの笑う姿を描くなんて不謹慎で不真面目だと思ったのであろうか。
 そういわれてみると、パウロも笑っていない。こちらは手紙なので無理はないかもしれないが、使徒言行録にはあってもよさそうなものだ。

 聖書で笑いが出てくるのは、旧約聖書の創世記にあるアブラハムの妻のサラのところである。でもこの笑いはユーモアの笑いではなく、そんなことはあり得ないという不信の笑いであった。
 その他にもあったかもしれないが今は思い出せない。
 確かに聖書には笑いが少ないようである。


LaughingChrist1 1986年のフィリピンの市民革命のとき、町には「The Laughing Christ」の絵が、なぜかあちこちに貼られていたという。
 それ以降いくつかの「The Laughing Christ」を見かけるようになった。
 でも私にはどこか不自然な感じがするのだが、どうであろうか。
 どこかにもっとステキな「イエスの笑顔」がないであろうか?
posted by mrgoodnews at 18:00| Comment(0) | 聖書から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする