その動画はここにあります。6分ほどの短い動画ですので、ぜひ見てみてください。
そしてこれを見て、考えたこと、感じたことを心にとめておいてください。
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手紙 〜親愛なる子供たちへ〜
原作者不詳、角智織 訳詞・樋口了一 補足詞
年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ
消え去ってゆくように見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひとときに私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂にはいるのを嫌がるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し何度も着がえさせたり
さまざまな理由をつけて
嫌がるあなたとお風呂に入った懐かしい日のことを
悲しいことではないんだ
旅立ちの前の準備をしている私に祝福の祈りを捧げて欲しい
いずれ歯も弱り飲み込むことさえできなくなるかもしれない
足も衰えて立ち上がることすらできなくなったなら
あなたがか弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私にどうかあなたの手を握らせて欲しい
私の姿を見て悲しんだり自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらいことだけど
私を理解して支えてくれる心だけをもっていてほしい
きっとそれだけでそれだけで私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに私がしっかりとつきそったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい
あなたがうまれたてくれたことで私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛をもって笑顔で応えたい
私の子どもたちへ 愛する子どもたちへ
生きがいとはどうやら他者との相互関係の中にあると考えられる。それを定式化すれば次のようになる。
「生きがい」=「他人からよせられる関心」× 「それに応えているという自覚」
先ず他人からよせられる関心がある。それに応えているという自覚が生じる。そしてその2つの積として生きがいが生じるのである。
他人の関心がないのに自分だけで勝手に自負、ひいては生きがいを保つのは難しい。
視点を変えれば、生きがいとは富とか地位と異なり、無限に創ることができるものであるといえる。私が身近な人の生き方、興味、得意とするものに関心を示すならば、相手はそれによって励まされて、生きがいを感じるのである。多くの人の生き方、存在に関心を持てば多くの生きがいが創られる。
生きがいとは関心によって不断に分配可能なものである。他人への関心がその人の生きがいにつながるものと見れば、私は深い歓びを得る。
同時に周囲の人びとは私のなかにさまざまな関心を見つけ出し、私の自負心をかき立ててくれるだろう。
しかし、無名の多数からよせられている関心は受け手にとって真の関心ではない。それは幻想のなかの関心であり、そこから創られる生きがいは華やかに見えて空虚である。
真の関心は少しでも知り合っている人から向けられた関心である。よく知っている人から「ああ、あなたはこんな生き方をしていたのか、こんな能力があったのか」と関心をむけられた、真実の生きがいを感じ取る。
マス社会の関心から、個別の人間のネットワークのなかで生み出される関心へ、私たちは関心を作りかえる時に来ている。
そうすれば生きている実感は絶えることはなくなるのではないか。私たちは勤勉によって生きがいを所有ないし、独占しようとした時代から「生きがいシェアリングの時代」に映っている。
5月は、秩父連山の西端に位置する日本百名山・瑞牆山(みずがきやま)へ。花崗岩と石峰、樹林帯が混在し、森林に岩がニョキニョキと生えているような山容が特徴です。山荘から急坂を登り、富士見平小屋へ。天鳥川出会い経由で足場の悪い急坂から大展望が広がる賛同を目指して折り返す、約6キロ・5時間のコース。標高差720メートル。
少年も青年もやがて年寄になる。
年寄を大じにすることはやがての自分を大じにすることである。
この意味を知り、これを行うことが人間として大切なことだと思う。
年寄はこの人間の作法を子や孫に篤と訓えておきたい。
これが社会や子孫に遺すなによりの贈りものである。
4月中旬の夕刻のことだ。通行人でにぎわう駅前広場で知人と待ち合わせをしていると、左手の改札から白杖を手にした中年の男性が、点字ブロックの上を歩いて来る。
約束時間になっても現れない相手を探して、目を反対側に転ずると、右手からはビジネスバッグを小脇に抱えたスーツ姿の青年が、足早に改札の方向に向かっていく。
そんな2人がすれ違った。
と! 突然、青年が立ち止まり、きびすを返して白杖の男性を追い越していく。その行く手には、1台の自転車。点字ブロックの上に、はみ出すように止めてある。
青年は自転車を歩道の隅に片付け、腕時計に目をやると、再び急ぎ足で駅に向かう。そして、事のてん末を知らぬままに白杖の男性が無事に通り過ぎる。
街角で目撃したさりげない思いやり。
ちなみに、点字ブロックは1965年に日本で生まれた。岡山県で旅館業を営んでいた三宅精一という「街の発明家」が、交差点を渡ろうとした視覚障害者がクラクションを鳴らされてうずくまる姿を目撃。「安全に街を歩ける方法はないか」と、私財を投じて開発したそうだ。
石屋さんが石を割るのに振るげんのうの柄にはカマツカという木を使います。地方によっては柊や花ももなどを使いました。それは石を割った時にしない手に直接衝撃が来ないようにクッションがあり、かつ折れることのない丈夫な木だったからです。
長い経験の末にそうした木を見つけて使ってきたのです。
こけら割りの職人さんが使う槌はイタヤカエデ、大工さんが使う鉋の台はカシ、舟をこぐ櫓もカシ、鍬などの農具の柄もカシです。これは硬くて丈夫だからです。
鋸の柄には桐を使いますが、これは長い間使っても熱を持たないから。柄には籐が少しだけ巻いてあるのは滑り止め。
風呂桶は水に強い木としてカヤ、コウヤマキ、檜、ヒバ、杉。川船を作るには杉。
寺の塔や堂をつくるには檜。爪楊枝はクロモジ。工事現場に使う杭や土台は松。
それぞれ木の性質を考え、生かして使ってきたのです。