2011年07月28日

ゼームス坂を歩きました。

品川駅から旧東海道沿いにあるいて、途中からゼームス坂に入りました。
こちらの方からいくと緩い上り坂になります。えんじゅの木が街路樹として植えられていた風情のある道だと思います。

先ずなぜこの名前がつけれれているか気になります。
品川区のホームページによると

 JR大井町駅から第一京浜(国道15号線)に出る道にあるこの坂は、もと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれていて、非常に急な坂でした。明治時代、この坂下付近に住んでいたJ.M.ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修しました。それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになりました。
  J.M.ゼームス(1839〜1908)は、幕末にジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、明治5年(1872)に海軍省に入って、測量調査や航海術の指導を行いました。生前から仏教に帰依し、その墓は山梨県身延町の久遠寺にあります。


という解説がありました。英国人でありながら、日本を愛し、最後は仏教にも帰依したという人のようです。

坂の途中、ちょっとはずれたところに高村光太郎の「レモン哀歌」の石碑があるのを見つけました。
なぜここにこの碑があるのだろうと思って解説を読むと、思い出しました。高村智恵子の最期は「ゼームス坂病院」でした。この病院は今はなくて、この石碑だけが残っていました。

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2011年07月27日

今年はキョウチクトウが当たり年です

すっかり朝顔ジャングルにおおわれそうなわが家です。
三角型の土地の2方が道に面していて、そこに生垣があり、木がうえてありますが、そこも朝顔が覆ってしまって、生垣をからしてしまいそうです。
朝顔を切ることともに、道路まではみ出してしまう生垣や木を刈ることに追われています。

今年は朝顔が茂っていてもあまり花が咲いていません。上の方や新しくつるを伸ばしたところにはたくさん花をつけていますが、いつものところには花が少ないのです。
元々からあった幹が老木になったかとおもわせるくらいです。

そんななかで、今年はキョウチクトウが、いつもよりずっとたくさんのあかね色の花をつけています。キョウチクトウは成長の早い丈夫な木で、切っても切ってもすぐに道路の方に枝を伸ばしていきます。
我が家だけの特別な現象かと思いきやどうもそうでもないようです。結構あちこちのキョウチクトウもたくさんの花をつけています。

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2011年07月22日

電動アシストという技術

最近急坂をすいすい登っていく自転車をよくみる。電動アシスト付き自転車である。
この技術を発展させて、電動アシストロボットというのが開発されたという。このロボットはデンマークなどの介護の現場からの注文が殺到しているという。介護を必要とする高齢者の動作を助けるよりも、介護する人のアシストをするためであるらしい。
この前テレビで、人を背負ったまま富士山に登頂した人の映像がでていた。背負う人はこの電動アシストつきの装置を足につけていた。

この技術は人の足の動きを感知して、それを助ける働きをする技術である。この技術はとても有効な技術ではないかと思う。

先日会津若松に行ったとき、いよさんは布団にねた。家ではベッドである。ところがいよさんはひとりでは布団から起きられなくなっていたのである。以前は何かにすがって膝をつく格好になってそこから膝を折り曲げて体重を移動して自分で起き上がれたのであるが、その方法を忘れてしまった。
あわてて、私が抱き起こそうとしたら、腰を痛めてしまい、トイレに連れて行くのに大変だった。
こういうときにたしかにこの電動アシスト技術というのはとても役立つだろうと実感した。

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2011年07月21日

シンパシーとエンパシー

毎日新聞6月1日の「シリーズ対談…大震災のあとで」で瀬名秀明氏と苅部直氏が対談していた。
その対談の中で瀬名氏がシンパシーとエンパシーについて述べていた。両方とも共感とか思いやりを示す表現であるが、この違いはなかなか意味があるように思った。

瀬名さん 私は人への思いやりを、シンパシーとエンパシーに区別しています。シンパシーは相手の気持ちに同調した状態で、エンパシーは能動的に相手の心に入り込んで想像する行為。今回、広範囲でシンパシーが表れました。
多額の義援金が集まる一方、同情しすぎてストレスになったり、情報が錯綜する原発問題に過剰に不安になったり。
苅部さん 共感にまとわりついてくる危険性をどう回避するか。政治哲学者のハンナ・アレントがそれを論じていますね。
他者との一体感を過剰に思い込む心情が、フランスとロシアの革命では、人びとを同質化する暴力をもたらした。そうではなく、他者の苦難がそれぞれ個別であることを理解しながら、手を差し伸べるような連帯の形が望ましいと。


この説明ではまだ分からなかったので、ちょっと調べてみた。
シンパシーは「感情移入」と訳し、エンパシーは「自己移入」と訳すらしい。両方ともに「共感」という訳語がある。これでもまだよくわからない。

「対話流−未来を生みだすコミュニケーション」(作者: 清宮普美代,北川達夫)という本に書かれていたことによると



シンパシーとエンパシーの違いは微妙なものですが、最大の違いは発想の前提にあって、相手のことがわかるという前提で考えるのがシンパシー、相手のことがわからないという前提で考えるのがエンパシーです。

シンパシーは「感情移入」、エンパシーは「自己移入」と訳します。エンパシーを「共感」と訳すことがありますが、これだとシンパシーと混同しやすいですね。

国語の問題でいうと、「その時、主人公はどんな気持ちでしたか?」と問えばシンパシー型、「あなたが主人公と同じ立場に置かれたら、どんな気持ちになると思いますか?」と問えばエンパシー型です。シンパシー型だと「主人公の気持ちになって考えましょう」ということ。一方、エンパシー型では「主人公の気持ちは本人にしかわからない」ということで、自分自身に置き換えて考えます。


これで分かりましたか?
まだ分からない人はここをどうぞ。
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2011年07月14日

平松洋子さん「小鳥来る日」の小躍りしたくなる筆致

前回に続き、平松洋子さんの「小鳥来る日」からの長い引用。

今回は「だから雑巾縫いはやめられない」というタイトルの記事。

 ミシンに比べると手縫いはとてもいい。手、指、針、糸、布、全部に一体感がある。五者は雑巾を縫うという目的のもと、けなげな運命共同体となる。とはいえ、ミシンもろくに使えない者にできる芸当はひとつしかない。直線縫いだ。(威張る気分になっている所が我ながら情けない)
 針は長くて太い縫い針、糸はしっかり撚りのかかった木綿の白糸。まずいきなり山場が来る。針の穴に糸の先端を通すとき、忍耐の末の達成感がたまらない。糸がすーっと通過した瞬間、針を握ったまま快哉を叫びたくなる。
 直線縫いは勝手気ままで単純なのがいい。だから雑巾縫いがいちばん。温泉でもらうようなただの白いタオルを、両手を広げたくらいの大きさに折りたたむ。手始めに周囲の縁をぐるり縫い、次に左右を対象に分ける中心線、次に対角線。最初はただのタオルだったのに、針が刺しこまれるたびに生地が合わさっていき、直線の重なりが三角や四角の幾何学模様を浮かび上がらせる。ただのタオルだったのに、自分の手のなかで着々と雑巾に近づいてゆく。
 わくわくすることは、まだある。休息もせずひたすら運動する針、これがすばらしい。表へ顔を出す、裏へ消える、また表へ現れる、消える、上下の世界を往復するようすは見ていてちっとも飽きない。しかも、そのあとを木綿糸が黙々とついて従う。終始無言。けなげ。文句も不平も言わず、逆らいもせず、兄に手をひかれて歩く妹のようにただ針を追う風景に感じ入ってしまう。
 じつは、もっとも声を大にして言いたいのはこれだ。すっからかんの無心。ちくちく、ざくざく、ひたすら直線縫いをしていると、あら不思議、いつの間にやら没我の境地。頭の中の雑事をひと針、ひと目が吸い取ってくれて爽快極まりない。だんだん手が止まらなくなるのだが、縫い目が歪んでも曲がっても、知ったこっちゃない。針を刺しこむたび雑巾にふさわしい強度が備わってゆくのも痛快だ。白い生地と白い糸がないまぜになってしあがった一枚の雑巾は、晴れて山頂に登り切った気分。
   (2011年7月3日毎日新聞日曜くらぶ「小鳥来る日」)


またまた長文を打ち込んだ。ふ〜っ。でもこの人の文は打ち込んでいても苦にならない。楽しいのである。
この文章を何と表したらいいのか。読んでいて胸が躍るような、うれしくて舞いあがりたくなるような、誰かれ構わずみんなにこれ読んで読んでと薦めたくなるようなそういう文である。
とにかくこの文を読んだ時の気持ちを表現する言葉をどなたか教えてくれないか。

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2011年07月10日

平松洋子さんの「小鳥来る日」というエッセイの連載が楽しみです。

毎日新聞日曜くらぶに、4月から新しく始まっ連載エッセイ「小鳥が来る日」が掲載されている。
作者は平松洋子さん、私にとっては初めてきく名前なので、調べてみたら「エッセイスト、フード・ジャーナリスト」とあった。
このエッセイがとてもいい。読んでいて痛快というか、うれしくなるのである。
エッセイを読んでいて、こういう感じになるのは石垣りん著「焔に手をかざして」以来である。

例えばこんなふうである。



  喫茶店でコーヒーを飲んでいたら、若いカップルが入ってきた。
 この二人はコーヒーを注文するなり、男は店に備え付けの新聞、御名は雑誌を読みだした。今はめっきり少なくなったけれど、昔はこういう若いカップルがたくさんいた。学生だというのに妙に所帯臭くて、なにがどうしてそうなったのか年季が入った連れあい感を漂わせている。街場の中華料理屋などで、それぞれ漫画本を読みながらもやし炒め定食と餃子を黙々と食べていたりするのだ。上村一夫の「同棲時代」も一緒に思い出された。なつかしいなあ。
 埒もないことを考えながら、再び小説に没入していると、男の声が静寂を破った。
「今日のめし、なんにする」
 女が顔をあげ、のんびりとした口調で、しかし瞬時に応じた。
「キャベツと豚肉の炒め物」
 すごい。夕飯のメニューをもう決めてあるのか。ほうと感心する。すると、男が引き取った。
「じゃあ、キャベツと豚を味噌汁代わりにして、納豆を食おう」
 意味はまるで分らなかったが、満足げな気分だけはよくわかる。だいいち、おいしそうじゃないか。その夜、わたしがキャベツと豚肉の炒めものをつくったのは言うまでもない。
 さて、それから2カ月ほどたった日の午後である。同じ喫茶店でいつものように本を読んでいると、ドアベルがちりんちりん、何気なく顔をあげると、おや、この間の二人連れである。今日もTシャツとジーンズ、サンダルで、コーヒーを注文すると、お決まりの流れで傍らのラックから新聞と雑誌を取り出す。
 私は期待しました。きっと言うぞ、言うぞ。視線は手元の本におとしてみたものの、耳がそわそわして読書どころではない。待つこと20分。新聞2紙とスポーツ新聞1紙を読み終えた男は、例の一言をついに放った。
「今日のめし、なんにすんの?」
 私は小躍りしたい衝動を抑え、固唾をのんで次の展開を待ち受けた。女はまたしてものんびりとしかし、間髪を入れず応じた。
「ミートソース」
 すごい。彼女の頭の中にはメニュー表がきっちり組み込まれているのだ。なんでもない料理の名前ひとつなのに、やたら幸福感が押し寄せてくるのも憎い。若くてもやるもんだなあ。さすがの展開はまだあった。
「サラダもちゃんとつけてくれよ」
「了解」
 クールに言い放ちながらも全部を受け入れる様は、慈母のようでもある。しかも席を立つとき、当然のように自分の財布から自分のコーヒー代500円を取り出して男に手渡すのだった。男が情けないのではない。女の方が男前なのである。
(毎日新聞2011年7月10日「いまどきの『同棲時代』」)




ちょっと引用が長くなってしまった。途中できることができなくなって、これも読んでほしいと思いつつ、後半を全部打ちこんでしまった。ふ〜。
これを読んで何を感じられたであろうか?
私はこの人の書いた本を直ぐに図書館に予約して読まなければと思って、予約した。

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2011年07月05日

飯豊山(いいでやま)山頂の不可思議

飯豊山は日本百名山のひとつだが、この山は不思議な山である。
この山は実は縮尺の大きい地図でみると、新潟県と山形県の県境上にあるが、その縮尺を拡大していくと、この山の山頂付近は実は福島県であることがわかる。
30万分の一の地図だと、飯豊山は新潟県と山形県の県境にあるように見える。
しかし、1/21000 の地図で見ると、なんとここは福島県である。
飯豊山山頂とその尾根伝いの山道は福島県になっているのである。

なぜこうなっているのかをwikipediaで調べてみた。

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布引山風の高原に風力発電機33基を見た

福島県郡山市湖南町の布引風の高原に行った。
ここには2007年に建設された風力発電機が33基ある。
こんなに間近に風力発電機を見るのは始めてで、33基もあると壮観である。

ここに来て、初めて知ったことなのだが、意外に静かである。風がそんなに強くなかった日だったせいなのかもしれない。風の強いときはもっと強烈な音がするのかもしれない。
しかし、案内してくれた人は、じつは人の耳には聞こえない低周波の人体への影響の方が問題となっているということを教えてくれた。

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2011年07月04日

司馬遼太郎「街道を行く−南蛮の道」にみるイグナチオとザビエルと「霊操」

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの「南蛮の道 1」はバスク地方にフランシスコ・ザビエルの足跡を尋ねる旅を描いた。


1982年、筆者はフランス,スペイン、ポルトガルの旅に出る。「街道」シリーズ初のヨーロッパ行きで、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの人生をたどっていく。学んだパリ大学、イエズス会の血盟を誓ったモンマルトルの丘を訪ね、バスクの地へ。生誕地のザビエル城では自分を「オバケ」と呼ぶ修道士が現れる。濃厚なバスク人の世界へ包まれていく。



この紀行文のハイライトのひとつは、イグナチオ・ロヨラがフランシスコ・ザビエルを口説いて、イエズス会を結成する場面にあるだろう。嫌がるザビエルをイグナチオとその仲間たちがどのように説得したのか、いろいろと興味深く描かれている。

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2011年07月01日

八重咲きのドクダミを見つけた

家の近くを散歩していたら、なんと「、八重咲きのドクダミ」を見つけました。
ドクダミというと十字の白い花びら(正確にいうとこれは花びらではなく花苞にあたる)を思い浮かべるが、これはそうではなかった。

ヤマブキにしろ、桜にしろ、あるいはツバキやクチナシなど八重咲きの花は、ほんらい雄しべや雌しべになる部分が、みな花びらになってしまったがゆえに、花に雄しべや雌しべもなく、したがって実も種もできない。
有名な太田道灌の

七重八重花は咲けどもやまぶきの実のひとつだになきぞ悲しき


という歌があるが、雨が降っていても簑を貸して差し出すことができないかなしさを歌ったものである。「簑(みの)」と「実の」を掛詞として使っている。
つまりこの歌の作者は八重のヤマブキには実がつかないことを知っていたのである。

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posted by mrgoodnews at 23:26| Comment(0) | 野草・樹木・森・里山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする