2011年09月27日

ヒマラヤスギの球果と雄花

十二所の修道院には、たくさんのヒマラヤスギが植えてある。先週の台風15号の強風のためにヒマラヤスギが根っこから倒れてしまい、よく見るとそこに大きな球果ができていた。さらによくみると、別な木にはそのミニチュア版のような形の蕾があった。この蕾と球果とそして薔薇の花のような形をした松ぼっくりとの関係はどうなっているのか、興味があったので調べてみた。

ヒマラヤスギは、ヒマラヤ原産で日本では栽培種。マツ科ヒマラヤスギ属の常緑針葉樹です。名前に「スギ」とつきますし、別名は「ヒマラヤシーダー」ですけど、スギではなくマツの仲間です。

明治初期に日本へ導入され、庭園木、街路樹などに利用されています。原産地では、材として建築・土木・家具に広く使われているそうです。成長すると、高さ20〜30メートルの高木になります。

樹形はキレイな円錐形です。世界三大庭園樹の一つと言われます。
ところでこの世界三大庭園樹とはなにか? ヒマラヤスギ、コウヤマキ、そして南洋杉(アローカリア)だそうです。南洋杉は日本では見られない木ですが、コウヤマキは日本固有の木です。大木になる割には成長が遅い木で手がかからないところが庭園樹として好まれているとか。

ヒマラヤスギは、成長すると高さ20-30mの高木になります。樹形は円錐形。根は比較的浅く、樹が大きくなると台風などで倒れ易いです。球果(松ぼっくり)は大きく、縦10cm、横8cmほどの大きさになります。

雌雄同株、雌雄異花。
花は10〜11月に開花します。雄花は円錐形で、長さは約3cm、初めは淡緑色、後に熟すと茶色くキツネの尾のようになります。花の後は大量に樹下に落ち目立ちます。花粉を大量にばらまく風媒花であり、秋の花粉症の原因にもなります。

ヒマラヤスギの雌花。日本中に数多くあるヒマラヤスギですが、雌花は小さくて高いところに上向きにつくので観察が困難とされています。

球果は直立し、翌年の10〜11月に熟します。長さは6〜13cm。
マツの仲間(スギではない)の球果の成熟期間は、
・春〜秋の半年で熟すもの(モミ、シラビソ)
・秋〜秋の1年〜数年で熟すもの(ヒマラヤスギ)
・春〜翌年の秋の1年半で熟すもの(アカマツ、クロマツ)
などがあります。
いずれも松ぼっくりになるまでに、半年から1年半をかけているわけです。

球果が1年ほどかけて熟すと、コーン状になっていき、上の方が脱落して、さらに鱗片もはがれおちます。
樹上にはコーンの中心にあった軸だけが残ります。
脱落した上の方の部分は、“木彫りのバラ”、「シダーローズ」という名前で、ドライフラワーとして販売されています。

なるほどなるほど、これでようやく相互の関係が分かりました。
調べてみるといろいろな発見がありますね。

こちらは画像付きです。
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2011年09月26日

「海鳴りの底から」にみる島原の乱の「パライソとインヘルノ」

この小説は堀田善衛が60年安保のころに「朝日ジャーナル」に書き下ろしたものである。
この本の表紙に書かれているこの小説の紹介である。

生きるか死ぬか、死ぬのが吉利支丹じゃろうか?幕府のキリシタン弾圧と藩の圧政に3万7千人の老若男女は島原の小さな城に立て篭もった。時に寛永14年11月。それに対して幕府連合軍は総勢12万5千。城の内と外で繰り広げられるハライソ=天国とインヘルノ=地獄。


島原の乱を舞台とする小説には「出星前夜」(飯嶋和一著 小学館刊)がある。この小説にも描かれていたが、「海鳴りの底から」にも同じようなテーマが浮かび上がる。つまり「地獄の中に天国がたちあがる」である。このテーマは、「災害ユートピア」で紹介した。

この小説の中で私が興味を持ったのはいくつかあるのですが、その中の一つは農民たちがなぜこの反乱をおこしたのかということを語るところです。

二ノ丸指揮者である山善右衛門は、まことにじっとしていられないふうで、しばしば軍奉行のかねての命に反して二の丸の持ち場持ち場へ出張っていき
「ほい、敵は大日本じゃ。おいたちはここにかとりかのれぷぶりかをおしたてるじゃぞぉ」
かとりかのれぷぶりかとはなんのことじゃ、ととわれれば、
「かとりかと申すは、世間は広いという意味で、れぷぶりかと申すは、国ということじゃ。国と言うてもな、天地同根、万物一体、一切衆生貴賎を撰ばずちゅう国柄のことじゃ。」ときれいさっぱり、応えていた。

申し分があるなら言えということであるから申し上げるが、今回、われわれが下々として一揆に立ち上がったのは、なにも国郡などを望んでのことではない。われらの宗門について自由が許されるならば、そのほかに存念とてはないのである。


次に興味を持ったのは、原城の陣中旗のことである。これを描いたのはこの小説の主人公の一人である絵師山田右衛門作である。かれはリーダーでありながら、敵がたに内通し、原城の戦いで唯一生き残ったリーダーであった。
この小説の初めの方に山田右衛門作がこの陣中旗を描くシーンがある。

一揆衆の中心になるものは何か、十字架の立つ聖餅と聖体秘蹟盃、つまりはぜずす・きりしとそのものを授かるという聖体の秘蹟、この二つ以外はありえない。それが羅馬公教会の中信思想である。聖杯には淡黄色をほどこし、銅板画の手法を用いて滑筆による陰影をつけた。この聖盃に侍して拝する二天使は、蘆筆を用いて飛翔の力感がでるように素描のあとをあらわにのこし、暗部は綾描によった。彩具は膠画用のものを使った。
描き終わって、上部に LOUVAD SELAO SANTISSIM SACRAMENT(いととうとき聖体の秘蹟は賛美せられさせたまえ」とのポルトガル語の賛をいれた。


この時代、司祭はいないのでミサは上げられない。だから聖体の秘跡には預かれないのである。なぜこのような絵になったのか、とても唐突な感じがするのだが、このしょうせつではそこはときあかされない。

もうひとつある。それはこの小説の中にしばしば「こんてむつすむん地」が読まれる場面が出てくる。

「こんてむつすむん地というのは、むずかしく言えば、すべて世俗の虚栄を蔑視する、ということじゃ。むんぢというのは、この世の中ということ、世界ということじゃから、地の字をしまいにあてた。その本は知ってのようにぜずす・きりしとにならうためのもの。初めから読んでみてくれ。」
和作は、火にこの木活字による、ほとんどが平仮名ばかりの活字本をあらためてかざした。
「御あるじのたまはく、われをしたふものはやみ(闇)をゆかず、ただ命のひかりをもつべしと……。」
右衛門作は、和作が読み下していく文章を耳にききながら、旨に誇らしい気持ちが湧いてくるのをおさえかねた。七面倒な漢文などではなくて、平仮名で見事な国語が連ねられている。慶長8年に長崎で印行されたものであった。その平俗な日本語にこめられている情と熱の深さに高さにはいつ耳にしても右衛門作はうたれた。仏教経典のあのわけのわからなさにくらべれば、よくもこんなにやさしくて耳に入りやすく、しかも美しい日本語に外国の経文がなったものだ、と感心した。
それは第1章、De Imitatione Christi et Comtemptu Omnium Vanitatum Mundi  という章名を「世界の実もなきことをいとひ、ぜずすきりしとを学び奉ること」と、素直に訳していた。この素直で情け深い国語の書き手として、細川ガラシャおたまの方、あるいはガラシャ夫人周辺の人々を彼は空想裡に描いている。西海の果てから伝わって来た経文が、美しい日本語を生む機縁になったということが、右衛門作にはえもいわず面白く感じられた。それはおのれ自身の画業にも通じてくる何ものかをもっているはずである。


この「こんてむつすむん地」はトマス・ア・ケンピス著の「イミタチオ・クリステ(キリストにならいて)」という書で私も昔読んだ本である。
そんなに美しい日本語なのか、あらためて読んでみなければならないなと思われた。

こちらは画像付きです


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2011年09月24日

Draw a Stickman のシンプルなおもしろさ

私が10年以上前に高校「情報」の教科書の編集にかかわったことがあるのですが、その時の教科書出版社は日本文教出版社でした。
いま教科「情報」とは無関係になりましたが、そこからおくられてくるメールマガジンはとてもおもしろくて、月2回刊の発行を楽しみにしています。とくに編集後記がおもしろいのです。

今回のメルマガに「Draw a Stickman」というウェブ上のソフトが報告されていました。その紹介文をここで掲載します。

○Draw a Stickman
http://www.drawastickman.com/
息抜きをどうぞ。主人公を描くとそれが動き出し物語がはじまります。
話が進むにつれて自分で描いた主人公からさまざまな道具を描くことを
要求されますので,それも描いてあげてください。人間の形をしていな
い絵でもそれっぽく動いて愛着が湧くから不思議です。
このインタラクティブな作品はJavaScriptとHTML5を組み合わせて実現
しているということですが,そもそも「HTML5」がどういうものなのか
を一言で説明するのが難しいです。いずれどこかでまとめたいところで
すが,とりあえずはウェブ上にまとめられている以下のようなリファレ
ンスをご確認いただければと。


実際に試みてください。なんということはないのですが、ワクワクしたり、考えさせられたり、もう一度やってみようという気にさせられたりします。
これは何がおもしろいのだろうかというのを考察していくと、自分が描いた絵が動き出して、それがあるストーリーをつくりだしていき、それに応答することを求められる。そこがとても creative な感じにさせるということでしょうか。

何はともあれ、1回試みて、考えたこと、感じたことをお聞かせ願えたら幸いです。
ここには何か大きな可能性が開かれているような気がするのです。

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2011年09月21日

ナギ(梛)の並木を横浜で見つけました

横浜駅北西口を出て、神奈川県県民センターの方に川沿いに歩く通りに植えられていた並木は、ナギの木であった。
しかもその並木は、青白色の葉とよく似た色の実をつけていた。
街路樹としてこの木が使われているのは珍しいかもしれない。
この木はよく神社に植えられるご神木であるようだ。ときどき神社に植えられているのを見る。

この木が最も特徴のあるのは、この木の葉を見ると広葉樹風なのであるが、じつはれっきとした裸子植物(針葉樹)なのである。
マツ目、マキ科、ナギ属、なぎが正式な学名である。

若枝も緑色であるところもこの木の特徴であろう。
さらにこの葉は縦に裂くことはできるが、横にちぎることはできないことから、男女の縁が切れないようにと葉を鏡の裏に入れたり、守り袋に入れて魔よけにしていたそうである。
 

写真付きページです/a>

2011年09月17日

ドキュメンタリー映画「幸せの太鼓を響かせて −INCLUSION」をみました

教会の友人に誘われて「幸せの太鼓を響かせて」を伊勢佐木町のテアトル横浜に見に行きました。その友人は 「able の会」という障害者支援団体にかかわっていて、そこが作る映画の第3弾ということである。それまでは自主上演活動によって行ってきたが、今回からは劇場公開することにしたのだそうである。
私は前2作も見た。

ひとことで感想を言うならば、太鼓の響きを聴くことによってささやかな幸せをもらったということかな。。
カトリック映画賞に推薦しようかと考えています。

この映画の紹介です。チラシにあったコピーを紹介しましょう。

「すべての音色が調和するとき世界はきっと今より美しい」
「職業を持ちたい、家族を持ちたい、普通のことなのに、遠い夢だった.知的障害がありながら、全国2位に輝いたプロの和太鼓集団の感動の記録」
「ひたむきに太鼓を打つ音が、遠く離れてクラス家族の元にも届いた………」
「普通の日常に大きな感動がある.普通の言葉に涙が止まらない」
「家族と別れた過去も、幸せの願いも、すべての想いをこの新曲に込めて」


瑞宝太鼓」は知的障がい者職業訓練施設でのクラブ活動として発足。次第に技術を磨き、国内外のイベントに多数参加する中、メンバーからの強い希望で、2001年4月、プロ集団としての道を選ぶ。現在は年間100回以上の国内公演の他、バルセロナやシドニーのパラリンピックでのイベント、ミューよーくkokuren本部など海外でも活躍。その実力は障がい者という枠を越え、2010年に開催された第9回東京国際和太鼓コンテストで、全国から集まったプロ・アマの中で、みごと優秀賞(2位)に輝いた。


この映画を見ていて、この和太鼓集団が知的障がい者であるということをしばしば忘れさせてくれる。特に太鼓を演奏する場面ではそうである。中に入ってくるナレーションや出場者の会話、あるいは日常生活を映すことによって、「ああ、ソーだったんだ」と思い出すのである。
知的ハンディを持って練習することがどんなに大変なのかをあまり強調していない。そこがいいという人ともっと協調したらよかったと思う人と両方いるにちがいない。
う〜ん。私はどちらかというと後者かな。

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2011年09月15日

どうか私が話さないでいることを聴いてくれ

教会で行っているキリスト教入門講座で、「聴くこと」というテーマの日につぎのような詩を読む。
グリフィン神父のテキストにあった詩で原作者は不明であるが、 「内なる子どもを癒す−アダルトチルドレンの発見と回復 」(チャールズ・L. ウィットフィールド (著), Charles L. Whitfield (原著), 斎藤 学 (翻訳), 鈴木 美保子 (翻訳) )という本にも引用されていた。以下の訳はこちらの書によるものである。



「どうかわたしが言っていないことを聞いて」

 私に騙されないで。
 私がつくろう顔に騙されないで。
 私は仮面を、千の仮面を被っているから、それを外すのは怖くて、
 どれひとつとして私じゃない。
 うわべを飾るのは、第二の習性となった技巧、
 でも騙されないで、
 お願いだから騙されないで。
 あなたに、私は大丈夫という印象を与える、
 すべては順調で、私の内も外も静かに落ち着いているという、
 自信が私の名前で、クールなのが払のゲームといった、
 水面は穏やかで、私は指揮権を握っているといった、

 私は誰も必要としないといった。 でも私を信じないで。
 表面は穏やかに見えても、表面は私の仮面、
 つねに変化し、つねに姿を隠す仮面。
 その下に安心の字はない。
 その下には混乱と恐れと孤独が居座っている。
 でも私はそれを隠す。誰にも知られたくない。
 
 私の弱みや恐れがむき出しにされると考えるだけで、私はうろたえる。
 だから私は血迷ったように隠れ蓑を付ける、
 何気ないふうな、洗練された見せかけの仮面を、
 うわべを飾る手助けをしてくれる、
 見抜いているといった眼差しから私を守ってくれる仮面を。
 でも、そんな眼差しこそが私の救済。
 私の知る唯一の希望。
 つまり、もしその後に私が受け入れられるのであれぱ、
 もしその後に愛があるのであれば。
 
 それは、私を私自身から解放してくれる唯一のもの、
 私の自分で築き上げた牢獄の壁から、
 私があんなにも丹精込めて作った砦から。
 それこそが、私が自分自身に確証できないものを、
 確証してくれる唯一のもの、
 私にもじつのところ何らかの価値があるのだと。
 でも私は、このことをあなたに言わない。
 あえて言わない。怖いから。
 私はあなたの眼差しの後に受け入れが、
 その後に愛が伴わないのではと恐れる。
 あなたが私を劣っていると思うのでは、あなたが笑うのではと恐れる、
 あなたの嘲笑は私を殺すのだから。
 私は、結局のところ何者でもなく、ただ駄目な人間であることを恐れる、
 あなたがそれに気づいて、私を拒否することを恐れる。

 だから私は私のゲームをプレイする、命がけの、扮装ゲーム、
 表に確信のうわべをつくろい、
 内なる子どもは震えている。
 そうしてきらびやかな、けれど空虚な仮面のパレードが始まる、
 私の人生は前線となる。
 私は無為に、ロあたりのよいうわべだけのおしゃべりをする。
 本当のところどうでもいいことは、全部あなたに話す。
 本当に大切なこと、私のなかで泣いているものについては、
 何ひとつ話さない。
 だから私が私の決まりきった私を演ずるとき、
 私の言っていることに騙されないで。
 どうか注意深く聞いて、私が言っていないことを聞いて、
 私が言ってみたいことを、生き延びるために言わなくちゃならないのに、
 私が言えないでいることを聞いて。私は隠れたくない。
 うわべだけのいんちきゲームはしたくない。
 そんなゲームはやめてしまいたい。
 私は本物で、自然で、私でありたい、

 でもあなたが助けてくれなくちゃ。
 あなたの手を差し伸べてくれなくちゃ、
 たとえそれが、私が一番嫌うことのように見えても、
 私の目から生ける屍のうつろな凝視を拭えるのは
 あなただけ。
 私を生に呼び戻せるのは、あなただけ。
 あなたが親切で寛容で励ましてくれる時いつも、
 あなたが本当の気遣いから理解しようとしてくれる時いつも、
 私のこころに翼が生え始める、
 とっても小さな翼、
 とってもかよわい翼、
 でもそれは翼
 私の感情にふれるあなたのパワーで、
 あなたは私に命を吹き込める。
 あなたにそのことを知って欲しい。

 あなたが私にとってどんなに大切か、知って欲しい、
 あなたは私という人間の創造者、
 そう、真面目な話、創造者になりうることを、
 もしあなたがそうしたいのならぱ。
 あなただけが、私がその後ろで震えている壁を取り崩せる、
 あなただけが、私の仮面を取り払える、
 あなただけが、うろたえと半信半疑の私の影の世界から、
 私の孤独な牢獄から、私を解放できる、
 もしあなたがそうしたいのならば。
 どうかそうして。私をやり過ごさないで。
 あなたにとってやさしいことではないはず。

 自分は役立たすとの久しい確信は、強大な壁を築く。
 あなたが私に近づくほど私はより盲目的にはね返すかもしれない。
 それは不合理なこと、だけど本に書かれている人間とは違って、
 しばしば私は不合理。
 私は欲しくてたまらないまさにそのものに対して闘いを挑む。
 でも愛は強大な壁よりも強いと人は言う、
 そしてそこに私の希望はある。
 どうかその壁を打ち壊して、
 堅固な手で、
 でも優しい手で、
 子どもはとても敏感だから。

 私は誰、とあなたはいぶかるかもしれない?
 私はあなたがよく知っている人。
 私はあなたが出会うあらゆる男だち、
 あなたが出会うすべての女たちなのだから。 


この詩を読んで何を感じるであろうか?
くどくど続くグチにつきあわされるような感じで読んでいる人もいるかもしれない。そういう「暗さ」がついている詩であるが、言っていることは実はとても深いのではないだろうか。

私はいくつもの仮面をかぶっている。でもその下にある本当の私をみてほしい。その声を聴いてほしい。
私は本当に言いたいことを言っていない。でもあなたにはその裏に隠れている本当の自分の声を聴いてほしいんだ。

私はこの詩を読んで「そういうことってけっこうあるのではないだろうか。「聴く」ということはそういうことなのだろう」と思うようになった。これを意識すると人の話の聞き方が大きく変わって来るようになったと思う。

ちなみにグリフィン神父訳はこちらにある。
読み比べてほしい。

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2011年09月13日

よたよた、よろよろ、ふらふら、ひょろひょろ、よぼよぼ、とぼとぼ

92歳の母いよさんの言葉の感覚のおもしろさは前にも書いた。私がいつも面白がるので、彼女もとてもよくしゃべるようになる。

最近足元がおぼつかなくて、××××と歩く。この「××××」に入ることばいつも違っていることにきがついた。
「よろよろ」
「よたよた」
「ふらふら」
「ひょろひょろ」
だいたいこの4つであろうか。

そこで、いよさんは使わない「よぼよぼ」「とぼとぼ」もくわえていよさんにきいてみた。
「よろいよさん、よたいよさん、ふらいよさん、ひょろいよさん、よぼいよさん、とぼいよさんのどれがいい。」
「なにそれ?」
「いよさんが歩くときのことばだよ。よろよろ歩いたり、よたよた歩いたり、ふらふら歩いたり、ひょろひょろあるいたり、よぼよぼ歩いたり、とぼとぼあるいたりしているじゃん」
「そんな〜。よぼよぼなんか歩いたりしないよ。まだそんなにとしよりではありません。」
「でも歩いているときに、あしもとがおぼつかないよ。ね〜。よろいよさん、よたいよさん、ふらいよさん、ひょろいよさん、よぼいよさん、とぼいよさんのどれがいい?」
「そうね〜。よたいよさんがいちばんいいね。」
「ああ、そう〜。じゃいよさんがあるくときはよたいよさんだね。」

とまあ。こんな会話がときどき繰り返される。いよさんの好みはだいたいが「よたいよさん」である。

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2011年09月09日

キリシタンをまつった神社 枯松神社

長崎市外海町に枯松神社というキリシタンをまつった神社がある。今年の夏にそこに行った。
この神社は、バスチアンの師であったサン・ジワンというキリシタン・バテレンをまつった神社である。当時のキリシタンたちが神社にカモフラージュして祈りを捧げた場所ということになる。

毎年ここで旧信者(カクレキリシタンの末裔)・カトリック教会・そして仏教の3教派が合同で祈祷集会を開くという。
仏教が参加するのは、この地の寺であった天福寺が、キリシタンであることを知りながら、キリシタンを守ったということから参加しているという。

その近くに大きな岩があった。この岩の下キリシタンたちがオラショをとなえていたといわれている。

前にやはり迫害で殺されたキリシタンの霊を弔うためにつくられた名古屋の栄国寺を紹介した。こんどは神社である。
これらは例外であるにせよ、こういう寺や神社があることは日本人の宗教の寛容性や奥深さを示しているのかもしれない。

写真付きはこちら
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2011年09月06日

被災者を励ますつもりが傷つけていることば

被災地にボランティアで行っていた友人がこんなことを紹介してくれました。

被災者たちを励ますつもりでいったことばが、実は傷つけていたという言葉集です。



●がんばれ
●あなたが元気にならないと亡くなった人も浮かばれないですよ。
●泣いていると亡くなった人が悲しみますよ。(悲しいときには泣いてもいい、元気をうしなっていいという原則が守られていない。「喪失」がきちんと扱えていない。よくいわれることばだがたくさんの問題が含まれている)
●命があったんだからよかったとおもって
●まだ、家族もいるし、幸せな方じゃないですか。
●このことはなかったこととしてやりなおしましょう。
●こんなことがあったのだから将来はきっといいことがありますよ
●思ったより元気そうですね
●わたしならこんな状況は耐えられません。私なら生きていられないと思います。
(しっかりしているとほめているつもりでいわれていることが多いのだが、おめおめと生きている自分を非難されたと感じる人が多い)



これをみてどう思いますか?
とくに「がんばれ!」という言葉がやはり問題です。みんな充分にがんばっているのに、これ以上がんばれというのかよ、っておもわれるのだそうです。

どこかに、この言葉を言われたときがもっとも励まされたという言葉集がないものでしょうか?
そちらの方が集めるのが難しそうですね。

前に紹介した「復興の狼煙」ポスターは、被災地の人たちから私たちが受けた最大の励ましと希望のメッセージのような気がします。
たとえば
「此処でなきゃ駄目なんだ」
「これからを取り戻す旅」
「余計な言葉は無くていい」
「あの日と闘い続けていく」
「忘れたいけど覚えておく」
いずれも瓦礫の街を背景にして人びとが笑顔で立っている写真のポスターに、ひとことのメッセージが書かれています。

その後も続いて第2集、第3集と刊行されています。
そういえばこの前浜松に行ったときに、このポスターが店の前に貼られているのを見て感動しました。

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2011年09月05日

心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らん

私の尊敬するもと朝日新聞の記者である菅原伸郎氏は、私の主宰する「宗教倫理教育担当者ワークショップ」にも取材に来られ、その内容を朝日新聞夕刊の「心のページ」の「心のレッスン」というシリーズで紹介してくれました。
その菅原さんが、朝日の記者を辞めて、大学で「宗教」の授業を担当されています。その授業のことを書いた「宗教の教科書12週」(菅原伸郎著 トランスビュー刊)に次のようなことが「祈る」という章に書かれていました。

平安時代の菅原道真(845〜903)も
心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らん
と詠んだとつたえられています。勉強にしろ、仕事にしろ、誠心誠意の努力をするならば、祈らなくても、神は守ってくださる、という意味です。といって、神の存在や祈りを否定したのではないでしょう。いまさら祈らなくても、神は見守ってくださる、という絶対の信頼があってこその歌です。道真は死後に「天神さま」として祀られて合格祈願の神として有名になりますが、当人は「努力さえしておけばとくに祈らなくてもいいよ」といっていたのですから、皮肉なものです。


この歌をどう考えたらいいでしょうか?
「誠の道にかなって」生きようとすること自体が祈りであるような
そういう生き方のことをいっているのかなとも思います。

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2011年09月01日

フィボナッチ数列のトキメキ

「フィボナッチ 自然のなかに隠れた数を見つけた人」(ジョゼフ・ダグニーズ 文 ジョン・オブライエン 絵 渋谷弘子 訳)という絵本を読んだ。確かこの本は今年の「夏休み読書課題図書」に入っていたので知った絵本である。

中世のイタリアで子ども時代を過ごしたレオナルド・フィボナッチ(1170〜1240)は、あけてもくれても数のことばかり考えていました。そのため、他には能がない「のうなし」と呼ばれていたほどでした。
成長して世界中を旅したレオナルドは、諸国で使われていた数字、
とくにアフリカでであったインド・アラビア数字に魅せられやがて自然界にある多くのものが、ある決まった数でできていることに気づきます。かつて「のうなし」とからかわれていた少年が、フィボナッチ数列と呼ばれることになる数列を発見した瞬間です。
うさぎの繁殖に関する簡単な文章問題で現在その名を知られるフィボナッチは、今では史上もっとも優れた西洋の数学者の一人に数えられています。本書はけっして「のうなし」ではなかった一人の人物の物語です。

フィボナッチ数列とはこういう数列である。
1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144、233、377……………
つまり前の二つの数の合計が次の数になるような数列のことです。

この数列の面白さを教えてくれたのは、いまから40年まえに、わたしの家で3組の夫婦があつまってビールを飲みながら薀蓄を披瀝しあう「考現学セミナー」をおこなっていたときに、大学の数学科を卒業したメンバーの一人であった。
この数列が黄金比と関係するということを難しい数式をもちいて説明してくれた。その数式はわからなかったが、この数列の面白さは十分に理解できた。

この絵本ではフィボナッチが出題した問題を紹介している。


赤ちゃんうさぎを2羽、野原にはなした男がいる。
うさぎが成長して、あかちゃんうさぎを産めるようになるには一カ月かかる。そのうさぎがオスとメス1組の赤ちゃんうさぎを産むにはさらに1カ月かかる。
毎月1組の大人のうさぎがあらたに産む赤ちゃんうさぎは1組とする。
1年後にこのおとこはうさぎを何組手にしているでしょうか?

まず1回目にいるうさぎは、赤ちゃんうさぎが1組。
1カ月後には、赤ちゃんうさぎを産めるほどに成長したうさぎが1匹。
2カ月後に、大人のうさぎが1組と赤ちゃんうさぎが1組。あわせて2組。
3カ月後に、大人のうさぎが2組と赤ちゃんうさぎが1組。あわせて3組。
4カ月後に、大人のうさぎが3組と赤ちゃんうさぎが2組。 あわせて5組。
5カ月後に、大人のうさぎが4組と赤ちゃんうさぎが3組。 あわせて7組。


つまりこの数列は、生命の成長や繁殖に関係するというわけです。だから巻き貝の成長や植物の花びらの数にこの数列が隠されている、いわば生物が秩序と調和をたもって生長するための設計図のようなものと言えましょう.
そしてその数列が黄金比と関係するというところもとても面白いことです。

こちらには画像もあります。
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