中高生はこれをどのくらい知っているのかな?
ザビエルや高山右近やペトロ岐部、金鍔次兵衛の歌もないかな?
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1989年の11月の初め、長い間難攻不落かに見えていたベルリンの壁が崩れた。東西の長い冷戦に雪解けが訪れ、分断されていた人たちが互いに『あちら側』に殺到したのだ。パリでそのニュースを知らされたチェロの巨匠ロストロポーヴィチは、居ても立ってもいられなくなって、その二日後に現場に駆け付けた。パトロンでもあった会社経営者に電話して自家用ジェット機を飛ばしてもらったのだ。
ロストロポーヴィチは、反体制作家のソルジェニーツィンを支援したことでソ連国籍を剥奪されて15年間も国外追放されていた。その間も「自由」のためにあらゆる方法でアピールを続けていた。ベルリンの壁の崩壊は、二つに裂かれていた自分の心が一つになることだったのだ。
そのときに彼の心に浮かんだのは、チェロをもって倒れた壁の前に行き、神に感謝の祈りを捧げたいということだ。誰かのために演奏するというのではなかった。
演奏するのはバッハの無伴奏チェロ組曲、バッハの音楽は彼にとって神につながる「言葉」だったからだ。男二人とチェロ1台は、飛行機から降りてタクシーに乗り、壁のチェックポイントを立て、すでに若くない巨匠は、すぐにバッハを弾き出した。
私たちはこのときの様子も今、ウェブ上で見ることができる。彼のすぐそばに小さな人垣ができたものの、後ろの壁に何かを書き続けている人もいれば、すぐそばを通り過ぎていく人もいる。おおぜいの人がてんでバラバラに自由と平和の訪れに歓喜し、興奮しているのだ。ワシントンの通勤時間と違って、そこにあるのは非日常であり、歓喜の昂揚だった。
雑踏の路上の演奏は、音響や完成度の点ではそれなりのものでしかなかった。けれども彼が誰だか知らないでまわりにいた人たちと彼は確かに何かを分かち合っていた。一人の若者が、サラバンドを聞いて泣いていた。
聞こえていても聞いていない、きいていてもわからない、わかっても共感しない、そんなことはたくさんある。「耳をすまして分かち合う」というのは、意志によって起こすアクションだ。耳をすまして分かち合おうと一度決意すれば、わたしたちは静寂を聞くこともできる。
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口を閉ざして傾聴することは、豊かな静寂の大洋の中深く潜り込むことでもあるし、静寂が自分の中に満ちてくるままにすることでもある。そうすることでしか聞こえてこない聖霊の声があるのだ。
「傾聴」とは、祈りのひとつのかたちにほかならない。
2007年の1月にワシントン・ポスト紙が企画したちょっとした実験。
金曜日朝の7辞51分、メトロの駅の構内で野球帽をかぶり、長袖のTシャツを着た男が、キオスクの近くでバイオリン・ケースから楽器を取りだして弾きはじめた。ケースには小銭が入れてある。物乞いのミュージッシャンのようだ。
通勤のために足早に通りかかるひとは彼に目を止めないし、音色も聞こえていない。45分間で1000人以上の人が通過した。全部で7人が少しの間だけ男を遠巻きにして耳を傾けた。たったひとりだけがかれの演奏を聴いたことがある、すばらしかったと話した。
男は名演奏家のジョシュア・ベル、2日前にボストンのシンフォニーホールを満席にしたばかりで、楽器は1710年のストラディバリウスだった。駅で弾いたのはバッハのジャコンヌやシューベルトのアヴェ・マリアだ。
通り過ぎた1000人以上の人の中には、音楽好きの人もいたはずだ。かれらの耳に少しでも音楽が届いていたら、、決して無反応ではいられなかったろう。残念ながら、かれらの耳には何も聞こえていなかったのだ。いや、誰の耳にも聞こえていなかった。高い料金を払って何ヶ月も前から予約して、おしゃれをしてワクワクしながら会場に行き、舞台でライトを当てられたマエストロの弓が振り上げられるのを見れば、誰でもおおいに感激しただろうに。
最後の潜入宣教師シドッチが所持していた聖母画像「親指のマリア」と「大世界地図」をシンボルに、『西洋紀聞』の背後の闇に光を当てる、著者渾身の長編小説。
人は−とクザーヌスはといていた。自分の知識を絶対のものと思い込むときとかく他人の立場が理解できず、独善に陥る。そして平気で他人の振る舞いを責め立て断罪し、聖戦という勝手な名分で他人への過酷な攻撃に走る。真のカトリック教徒は、だが、キリスト教の愛にならって他の宗教の人びとを宗教上の立場が違うという理由で迫害も侮辱もしてはならない。異なる習慣や伝統に生きている民族や国家を寛容にキリストの愛へ誘わねばならない。と。
ローマ教会にしたがう誰もがカトリックのために異端者・異教徒を殺戮し、掃滅する神への奉仕と考えていた時代に、クザーヌスは一人そう唱えていた。「戦争とはこれほど不幸なことか」というつぶやきを、58歳最期の反省として戦陣に死んだマルクス・アウレリウス帝は異教のローマ皇帝の人間像と「健康なカトリック」を心から望んだクザーヌスの御主への愛とは彼シドッチの思いの底でいつとはなく豊かに一つの重ねられていた。
ルカ伝とマタイ伝とを読んでいたときに、かれの二人の弟子ーヨセフ長助とマリアはるがーもっとも感動したのは、こういう点だった。
イエズスが、神の子として世に現れるために、またダビデの家系に名を連ねるために、大きな二つの承諾、深い信仰からの承諾が必要だった。
一つは、マリアが、神と聖霊とにより処女の身でみ子を孕したと天使に告げられた際に「み心のままになりますように」と受け入れていた。
今ひとつは、神に愛されたアブラハムの子孫、ダビデの子孫のヨゼフが、すでに身籠もった処女マリアを、神の望まれるままに妻として受け入れていた。キリスト教の成るこの二つの承諾はかけがえのない信仰の証しだった。
それ、TBSがやります.
みなさんが望む「それ、」を「ユメ」で終らせない。そんなテレビ局をめざしてゆきます。
ずっと観たいと思っていた「それ、」。
どうしても知りたかった「それ、」。
想像するだけでワクワクしてくる「それ、」。
心から感動できる「それ、」。
視聴者のみなさんが望む「それ、」を「ユメ」で終わらせたくないから。
めざすは、そうそう「それ、」をまってたんだ!と、うなずいてもらえる、
かゆいところにサッと手が届くようなモノ創り。
「それ、」TBSがやります。
ロシアのカラシニコフ通信が伝えたところでは、この論文の執筆者は国立ヨハネスブルク大学教授のイワノフ・ボスコノビッチ博士。博士が夢の中で見た式を枕もとのメモに書き残し、翌朝この式を少し変形させたところ、2=1という結論に結びついたという。
博士は翌日から同僚や指導している学生たちにこの式を見せ、反証を求めたが、誰にも証明ができなかったため、論文として英数学誌「マスマティック・ロジスティック」1月号に投稿。以来世界中の数学者がこの論文の反証を試みたが、9月現在いまだに完全な解答と呼べる論文は出ていない。
「マスマティック・ロジスティック」誌の編集長であるジョン・ロック氏は「ボスコノビッチ博士の論文自体はいたってシンプルで、掲載された式だけならば中学生でも理解できる。しかし、それが誤りであることを証明するには非常に高度な数学の知識を必要とするため解明にはまだまだ時間がかかるだろう」と語る。
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