2014年01月19日

パスカルの「賭け」

パスカルの「パンセ」に』こういうくだりがある。有名な「パスカルの賭け」についてのくだりである。これは「はじめてのゲーム理論」(講談社ブルーバックズ 川越敏司著)に紹介されていた。この考え方が「ゲームの理論」の本に紹介されていたというところがおもしろい。

 それではこの点を検討して「神はあるか、またはないか」と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てが賭けが行われ、表がでるか、裏がでるかなのだ。君はどちらに描けるのだ………さあ、考えてみよ………。選ばなければならないのだから、どちらのほうが君にとって利益が少ないかかんがえてみよう………神があるという方を表にとって,損得を計ってみよう。次の2つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば君は全部もうけられる。もし君が負けてもなにも損しない。それだから、ためらわずに神があると描けたまえ………ここでは無限に幸福な無限の生命がもうけられるのである。勝つ運がひとつであるのに対して負ける運は有限の数であり、君の賭けるものも有限なものである。これでは確率計算など全部いらなくなる………したがって無に等しいものを失うのと同じような可能性でもって起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで、出し惜しみをするなど、理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。


 このパスカルの考え方について「はじめてのゲーム理論」の著者川越敏司氏はこんな注釈をよせていました。

 これは「パスカルの賭け」と呼ばれている、神への信仰を合理的に正当化する有名な議論のひとつである。
 神が存在するか否か、どちらかに賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が、存在しないという方に賭けるよりも期待値が大きいから、神が存在すると信じるべきだという論法です。
 これは非常にゲーム理論らしい考え方です。パスカルは何百年も前に、ゲーム理論の考え方を先取りしていたのかもしれません。


 この論法は、たとえば「死後の世界」が存在するかどうかについても当てはめられる。つまり「死後の世界」が存在するかどうか、人間には分からない。問題は「死後の世界」が存在する方に賭けるのか、存在しない方に賭けるのか「賭け」なのである。どちらに描けた方が利得があるのか。
 それは明白である。「存在する」ほうに賭けた方が希望を持って死ぬことができるからである。死んだらもうそれで終わりと考えるよりも、死んだら天国に行ける、死んだら先に死んだ自分の肉親や愛する人と再会できると考えた方がずっと希望と安心を持って死ぬことができるからである。
 この論法は他の問題にも当てはめることができるだろう。
 信仰というのはそういう問題なのかもしれない。
 というと、信仰は損得の問題ではないと反論する人がいるということも想像するに難くないが………。

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2014年01月01日

大晦日から元旦恒例、年賀状、お雑煮、お屠蘇、初詣

あけましておめでとうございます。

昨日の大晦日は、午後6時まで年賀状を書いていました。年賀状は今年は800枚書きました。大晦日の午後5時に投函したから、受け取りは1月4日でしょう。ここ5年間はほとんど毎年こんな具合です。最も多いときは900枚だったから、最盛期に比べるとすこし落ちました。最終的に私が受け取るのは500枚くらいかな。別に返事が来なくても出し続けるという方針をとっていたら増える一方でしたが。来年はさすがに少し減らすことを考えています。

それから買い物に行って、おせちを少しばかり作りました。というよりも買ってきたものを切って重箱に詰めたにすぎないのですが。

わが家の「おとそ」は、みりんに屠蘇散をつけ込むというのです。だからやたら甘ったるいのですが、子どものころからこれなので、これがないと正月のような気がしないのです。
とそさんはマツキヨで買いました。まだ売れ残っていました。
お屠蘇というのは「蘇という国を屠る」という所から転じて、病気や不幸のもとをやっつけるという意味なのですね。

わが家のお雑煮は関東風で、さといも、にんじん、だいこん、小松菜、鶏肉の醤油味です。
ところがトレッサにいったら、7時閉店の30分前だったので、小松菜は売り切れていました。しょうがない、ほうれん草で代用です。

清子さんの実家奥出雲町のお雑煮は独特です。今年も実家から丸餅を送ってきましたが、正月に入る前に全部食べ終わってしまいました。
お湯で煮たおもちに、なま海苔をお酒で伸ばしたものをひとつまみと鰹節をドサリ入れて、そこに醤油味のだし汁をかけるというシンプルなお雑煮です。磯の香りがぷ〜んと広がります。
このお雑煮の食べ方は、出雲地方の海に近いところでは残っていないそうで、山奥のこのあたりにだけ残っているそうです。
いつかテレビを見ていたら、このようなお雑煮が能登半島の先の方に残っているということを知りました。それを誰かに話したら、北海道の稚内地方もこういう食べ方をするといっていました。
日本海の北前船の寄港地に残っているのだそうです。
残念ながら全部食べちゃったので、写真はありません。

今日の1月1日は、朝お屠蘇で乾杯しお雑煮を食べて、教会のミサに行きました。ミサの賀詞交換会のあとに総持寺に初詣、つづいて鶴見神社へと回って初詣ツアーです。
毎年、元旦の新聞を書いためるという恒例にしていた行事は今年からやめました。新聞を買っても読み切れないからです。

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正門の掲示。いつも難しくて意味を考えてしまいます。

soujiji3

煙を浴びて身を清めています。

ipp

毎年もらう白字会の言葉です。

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鶴見神社も参拝客が並んでいました。



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