2014年03月23日

イタリアでウルスラ会のシスターが一夜にしてスターに

ここのところカトリック教会の関係する Facebook を賑わしているニュースがある。テレビ局の歌のオーディション番組でウルスラ会のシスターが登場し、圧倒的な人気を博したそうである。

 イタリアのオーディション番組「ザ・ボイス(The Voice)」に出演したクリスティーナ・スクッチャ(Christina Scuccia)さん(25)は、黒の修道衣と十字架のネックレスをつけ、アリシア・キーズ(Alicia Keys)の「ノー・ワン(No One)」を歌った。観客からは大きな歓声が起き、審査員4人は信じられないといった表情を見せた。
 ウルスラ会(Ursuline) の修道女のスクッチャさんは、「神から与えられた才能があるからここに来ました。その才能を分かち合えればと思って」と述べた。審査員の1人のラップ歌手、J-Axさんは、「感動して涙が出た」と語った。
 スクッチャさんは、修道院から「外に出て」神の御言葉を広めなさい、と言ったフランシスコ(Francis)法王に触発されて番組に出場することにしたという。
 別の審査員が、法王庁は彼女がオーディション番組に出たことをどう思うだろうかと尋ねると、スクッチャさんは「法王からの電話を待っています!」とジョークで返した。


どうやら教皇フランシスコに刺激を受けられたようである。



こういうのが生まれるのも、今のカトリック教会のおもしろさであろう。こういうシスター、日本にもけっこういますよ。

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2014年03月07日

自殺を予防するTALKの原則

カウンセラーの友人がFacdbook でシェアしたものを私もここでシェアします。
医者がつくる、医療と医学がわかる情報サイト「医知場」からシェアしました。


TALKとは、Tell、Ask、Listen、Keep safeの頭文字をとったものです。

T:あなたの様子をみていると、とても心配になるという点をはっきりと言葉に出して伝える。

A:自殺のことをうすうす感じているならば、はっきりとその点についてたずねる。真剣に対応するなら、それを話題にしても危険ではなく、むしろ自殺予防につながる。

L:傾聴する。励まそう、助言しよう、叱ろうなどと思ったり、気分転換のためにどこかに連れて行こうという気持ちがわき上がるかも知れないが、最初は、徹底的に聞き役に回り、相手の絶望的な気持ちを真剣に聴く。

K:危ないと思ったら、その人をけっしてひとりにしないで、安全を確保したうえで、必要な対処を行う。周りの人からの協力も得る。危険だと考えられる人、とくにはっきりと自殺を口にしたり、自分の体を傷つけたりした人は、確実に精神科医の診察を受けさせる必要がある。

自殺の危険が高い人は、周囲から手を差し伸べられても、それを拒絶して、孤立を深めていくケースが多い。

日本では、精神科を受診することに抵抗がある人が多い。

相手に自殺の危険を感じたら、TALKの原則で対応し、できるだけ早く、精神科の診察を受けさせるべきだ。


う〜ん。精神科の医師はこれにちゃんと対処できるのかな? という不安がありますが………。

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2014年03月03日

「スピリチュアル・ケア」ノート

「聖書におけるスピリチュアリティ・スピリチュアルケア」(キリスト教カウンセリング講座ブックレット6 大柴譲治、賀来周一著 キリスト新聞社 2011年刊)を読んだ。なかなか参考になることの多かった本であった。
以下、そういうところを抜粋して記そうと思う。おもに後半の賀来さんの書かれた第2部「スピリチュアルケア−臨床牧会の立場から」というところに興味を覚えた。

 スピリチュアリティとは、従来意味されてきたような特定の宗教に基づくというのではなく、また神秘主義的な傾向によるものでもなく、きわめて成熟した宗教性とでも言うべき者が求められるようになった。
 宗教という言葉からは特定宗教、既成宗教のイメージが連想されるところから、宗教性という用語を使用するに抵抗感を持つ向きもありますが、ひとは「生き死に」の根源に関わる究極性を概念的にではなく経験的に求めているという意味で健全かつ成熟した宗教性という意味をスピリチュアリティという用語に込めることは許されることではないでしょうか。(106ページ)

 死の看取り現場から見えてくるもの
 危機的実存的問いとスピリチュアルペイン
 「こうなったら生きていてもしょうがない」「なぜ私はこんな病気になったのか」「もう諦める以外に道はない」「何かの祟りではないのか」「これから先わたしはどうなるのか」「私の人生はこれでよかったのか」
 科学の知の限界
今まで科学の発展の背後に隠れて光を浴びることのなかった対極としてwの個別性、非合理性、主観性に実は人間の問題を解明する大きな応えが潜んでいる。(111ページ)

3種類のスピリチュアルペイン
1.存在論的問い「なぜ存在するのか」(いるだけでは怠け者、存在するだけでは意味がない、こうなったら死んだ方がまし。)
2.目的論的問い 「何のために存在するのか」(役に立たないなら無駄飯食いだ、早く死にたい。何のために生きているのか。今は死ぬに死ねない、まだし残したことがある、私の人生はこれでよかったのか)
3.不条理の問い 「なぜ、私にこんなことが」(なぜ、こんな不幸な目に遭うのか、なぜ今なのか、なぜ他の人ではないのか、何もわるいことはしていないのに、正直に生きてきたのに、神はいるのか)

スピリチュアルペインと聖書

1.存在論的問いと創造の出来事
 「何かをする」ということを重視する現代社会の価値観は、ただいるだけで何もしない人はだめで役立たずとしか見ないのです。この社会における人の営みは、好意と存在から成り立ちます。しかし、社会は、行為つまり「する」ことに価値の基準を置いて人間を見るのです。「いる(存在)だけでは意味がない、この価値観は現代社会に生きる私たちの中に染みついています。(117ページ)
 神学者バルト(1886〜1968)は、自殺する人に語りかける言葉は「生きなければならない」ではなく、「あなたは生きることが許されている」でなければならない、と言います。(120ページ)

2.目的論的問いと終末の出来事
 人は命の終わりにさしかかれば、必ず何もできなくなるにちがいありません。それこそ「いるだけ」の世界に身を横たえなければならなくなるはずです。(131ページ)
 スイス人医師のポール・トゥルニエ(1898〜1986)の著作「老いの意味」(邦訳ヨルダン社)に「老いるということは、未完了の仕事を受け入れていくプロセスである」とあります。(133ページ)
 明日死を迎えるとしても、なお先を望んで、今日を淡々と生きるためには、死のかなたに、死にゆく「私」のすべてを受け取られて、究極の完成へと導かれていく、と言う宗教的世界が提示されねばなりません。ここには終末論的な意味を持つ、スピリチュアルケアの重要性が問われるのです。信仰があれば大丈夫、死ねば天国に行くという安易な言葉ではくくることのできない、深刻な苦悩や悲しみの最中にあってもなおその向こう側に究極性や永遠性、絶対性を希求する人間の実存がかかっているのです。
(134ページ)

3.不条理の問いと十字架の出来事
 ドイツの女性神学者ドロシー・ゼレ(1929〜2003)は、その著「苦しみ」(邦訳、新教出版社)という本の中で一つのエピソードを紹介しています。
 第2次世界大戦のユダヤ人強制収容所の中である出来事が起こりました。過酷な状況に耐えきれず、脱走を図った子どもたちがいました。二度とことを起こさないように見せしめのために、収容所の中の子ども全員を集めて一列に並ばせ、五番目ごとに銃殺したのです。
 ゼレはこの出来事を紹介するにあたって、こんなことを言っています。このようなときに、愛なる神、全能なる神はどこにもいない。もし神が愛であり、全能であるなら、すぐにやってきて五番目ごとに並んでいただけで銃殺される子どもを助けにきてくれるはずだ。しかし、そのような神はどこにもいない。もし神がいるとすれば、銃殺される子どもと一緒に殺された神がいるだけだ。そういう神はともに苦しむ神であり、それが十字架のキリストに他ならないと言います。
 キリストは十字架上で果てられるとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」とさけばれたとあります。
 神の子が神から見捨てられたのです。これほどの不条理はありません。キリストは不条理の極みにご自身をおかれたのです。キリストご自身を不条理の極みに置かれることで、私たちが不条理の極みに立つとき、共にいてくださるお方だということを、十字架上のキリストを通して私たちを知ることができるのです。(127ページ)
 究極のカウンセリングは「共にいること」(WITHNESS)であるといわれます。苦難の中にいる人と共にいることは辛く難しいことです。しかし、共にいてくれる人がいれば、問いだけあって答えがないところでも、人はなお前に向かって生きることができます。(127ページ)
 


 引用ばかり長すぎてしまった。
あとは見出しだけですませることにしよう。本当はここがもっとも大切なところかもしれないけれど。

第4章 スピリチュアルペインに対するケア
1.存在論的問いに対するケア 存在の肯定と安心感の付与
2.目的論的問いに対するケア 究極の世界にゆだねる決断
3.不条理の問いに対するケア 意味のあるプロセスの共有者の存在

私の物語
 スピリチュアルケアの最終目標は、当事者がどれほど成熟した「私の物語」を作ることが課題となります。その物語の質はスピリチュアルペインの克服の程度によって決定されます。援助する側からみれば、その「私の物語」が慰めや希望をもつ物語となるように援助することが求められています。

 こんな「物語」が紹介されていた。

 手元に一冊の本があります。三児の母、そして49歳にして「がん」と向き合う日々を生きた一人の信仰者田坂祥子さんの死の看取りの記録です。この本は「安らかな死」と題して1994年に日本キリスト教出版局から上梓されました。
 1992年の5月9日の朝、祥子さんは愛する夫と32人の子どもたちに見守られ、自宅のベッドで召される時を迎えた。最期の言葉は「あなた、ありがとう」とのご主人への感謝であった。納棺の時には「みんなの席を天国で取っておくからね。椅子取りみたいに。いい席にハンカチを置いておくよ………」と数日前に彼女がユーモアたっぷりに言い残した言葉通り、棺の中にはハンカチをたくさん入れた。音楽の好きな祥子さんにとって、天国は音楽会だったからである。

 私もこんなすてきな物語を死ぬ間際につくれるだろうか。
 私は「死にたくな〜い。もっと生きていた〜い」と絶叫して息絶えるのではないか。その往生際がわるさに神さまもあきれるだろうが、「こんな絶叫する元気があるなら、もう少し生かしておくか」と神さまに思わせてしまうのがねらいの物語である。

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