2005年09月23日

デカルトの思想と生涯 その5 クリスチーナ女王

デカルトは1643年にファルツ候の王女エリザベータと文通を始める。デカルトはこの王女に彼の著書「哲学の原理」をささげ、その著のなかで「私の公にした論文のすべてを完全に理解したのはこの王女だけである」と絶賛している。デカルトの最後の著書である「情念論」はこの往復書簡の中から生まれた。

このエリザベータとともにデカルトに惚れ込んだもう一人の王女がいた。スウェーデンの若き女王クリスチーナである。彼女は、ドイツ30年戦争に新教側に加勢して参戦し、勇猛をとどろかせて戦死したあの北欧の獅子王グスタフ・アドルフの娘であった。
この若き女王がまたすごい女性であった。
彼女は、男まさりの広い肩を持ち、馬を10時間も全力でかけさせても疲れなかったといわれる。
また30年戦争のウェストファリア講和会議で活躍して、き北ドイツの一部をスウェーデンが領有する功績を挙げたのもこの若き女王であった。政治家としても超一流であった。

その彼女がデカルトを「岩と氷しかない熊の国」スウェーデンに招くのである。デカルトはそれを何度もことわるのだが、クリスチーナは海軍の軍艦を派遣してデカルトを連れ出すことに成功する。1649年10月のことである。

1月の酷寒のときにデカルトは哲学の講義を女王に始めることになるのだが、それは朝の5時からであった。軍隊にいたときでさえ、朝の11時前におきたことのなかったデカルトにとって、それは余りに厳しすぎる条件であった。ついに彼は肺炎を患い、帰らぬ人となってしまった。

一人の女王の気まぐれによってヨーロッパ最大の知性がひとつ消えてしまったのである。

カトリック教会は、この敬虔なカトリック教徒の全著作を「禁書」にした。さらにデカルトが葬られたのは洗礼を受けていない子どもたちが眠る共同墓地であった。
彼の墓地が現在のパリ、ラテン区のサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移されたのは100年後、フランス革命の国民議会の決定を待たなければならなかった。

このクリスチーナ女王のすさまじいまでの生き方には続きがある。

彼女は1654年突然女王の地位を退位する。そして彼女が収集した美術品をもってローマに行き、あげくのはてはカトリックに改宗してしまうのである。父親グスタフ・アドルフは新教側に立って闘い命を落としたというのに、である。

天衣無縫というか自由奔放というか、豪放磊落というか、ローマにおいて多くの芸術家のパトロンとなったり(音楽家スカルラッティを発掘する)、枢機卿と恋をしたり、さすがの教皇もこの女性にはかなり手を焼いていたようである。1689年4月63歳でそのすさまじいまでの生涯を閉じる。

彼女のもってた財産や収集した美術品や書籍は恋人であった枢機卿におくられ、その多くは現在バチカン美術館に所蔵されているとのことである。
そしてさらに彼女はサンピエトロ聖堂に埋葬され、聖堂内意には記念の墓碑があるとか……………。

なんともはや……………。


posted by mrgoodnews at 01:05| Comment(0) | TrackBack(1) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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デカルト
Excerpt: 今日はデカルトの章を読んだ。方法序説の冒頭でこう言っている。 「良識は、この世のものでもっとも公平に分配されている。なぜというに、誰にしても、これを十分に備えているつもりであるし、ひどく気難しく..
Weblog: IT革命の本質 《ISA実現の軌跡》
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