2005年09月24日

君あり、故に我あり

「君あり、故に我あり −依存の宣言」(サティシュ・クマール著 尾関治・尾関沢人訳 講談社学術文庫1706)を呼んだ。

この書には次のような要約がのっていた。

9歳でジャイナ教の修行僧、ガンジー思想にも共鳴し、8000マイルの平和巡礼を行ったインド生まれの思想家は、自然に対する愛を強調した独自の平和の思想を提唱する。
デカルト以降、近代の二元論的世界観は対立を助長した。分離する哲学から関係を見る哲学へ。暴力から非暴力へ、思いやりに満ちた心の大切さを力説し、地球はひとつと相互関係と共生関係に基づく平和への新しい展望を示す。

西洋に思想と東洋の思想とを比較するときに、ある違いに気づく。

西洋文化は、精神と物質、心と体を分離し、世界を分析、分類、支配する対象物の集合としてとらえるパラダイムがあるということである。
その典型は「我思う、故に我あり」というデカルト的思考に典型があるということである。
精神と物質、主体と客体、自然と人間、個人と社会、善と悪、正統と異端、敵と味方……………。西洋思想はこの分離して分析するというところから、発想する。

それに対して東洋思想は。
たとえば仏陀、「諸法無我」というのは相互依存の現象を示す。
インドのウパニシャッド哲学の「梵我一如」。梵(ブラフマン)と我(アートマン)」が一体となる境地が「解脱」である。
たとえば、老子の「無為自然」荘子の「万物斉同」「胡蝶の夢」
たとえば聖徳太子の「和の精神」たとえば「禅の境地」たとえば西田哲学の「純粋経験」。

いずれも、我が世界や自然に溶け出して融合するという考え方であり、相互関係と相互依存の「関係を見る哲学」が東洋思想なのである。
自分が何かをゲットするということによって、自我を成り立たせ、自我は他者とは無関係に自分の意志で行動するという西洋思想に対して、東洋思想は「与えあう」ことによって存在する。
ヒンズー教では「ソーハム(彼は我なり)」「君あり、故に我あり」という。
私たちは「アニマ・ムンディ(世界の魂の一部)」なのである。

確かに自然科学は、分類して分析するというデカルト的原理の上に、主体と客体とを切り離して分析するという西洋思想のの上に発展してきただろう。
しかし、それは同時に環境破壊、生命操作や核兵器の開発を必然的につくり出す。それを留めようがないことも確かなのである。




posted by mrgoodnews at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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