書評
『在日コリアングラフィティ ─お互いの愛で胸をいっぱいにして─』
崔 友本枝 著 文藝書房 刊
著者は、私と同じ教会に所属し、またカトリック学校において「宗教」を教える教員である。
この書に表れている軽妙で率直でなおかつ親しみやすい文体は、私が接している著者の日常の姿そのものである。著者が中学生や高校生にこのようなスタイルで聖書を語っているのかと思うと、その授業を聴いてみたいという思いに駆られる。
この書では、在日コリアンとして生きることを通じて体験してきたこと、感じたことがありのままに率直にリアルに語られている。「韓国名を名乗って生きること」「指紋押捺」「日本人に帰化するということ」「朝鮮人戦争慰安婦のこと」さらに「教科書の問題」など、在日コリアンとしてこれらのことに対する気持ちがかくまでに繊細であり、かつ豊かな感受性に裏打ちされたものであることを読んで、感動を抑えられなかった。私たちは、ここまで深く、ここまで豊かに日本人であることを味わえるのであろうか?
日本人と結婚した在日3世の友人が帰化の申請をして、それが受理されたときの話が紹介されている。
法務局への膨大な資料を提出し、警察の訪問を受けていろいろと質問もされたという。そしてやっと認可が下りたというので、法務局に出向くと、彼女を待ち受けていたのは「○○様、あなたは○年○月、法務大臣の許可により、帰化が許可され、日本人となりました」という宣言と「おめでとうございます!!」という担当職員たちの祝辞と笑顔と拍手喝采であったのである。
著者とその友人は、その話を「腹が立つねぇ」といいながらも「結局二人で大笑いした」と書いてある。腹を立てながらも大笑いをしたというのに驚く。
そういえば、この書には「告発調」がない。怒りは感じられる部分はあっても、それはなぜか日本人を告発し、責める方向には向かわない。
私たちはこの種の本を読むときは覚悟をして読まなければならないものと思いこんでいる。日本という国がしてきたこと、日本人がしてきたことが告発され、非難されるのも当然だと思うからである。
だからこの本を読むときにも相当の覚悟を決めて読もうとした。しかし、この本を読みすすめていくうちにそういう「覚悟」は「共感」へと置き換えられていく。それが「こういうことなのか」と一挙に解きあかされるのは、次のようなくだりである。
在日韓国人は、韓国人でもあり、日本人でもある。しかし、日本からも韓国からもしっかりと抱きしめてもらっていない。本人たちも、どちらの国で生活しても違和感をぬぐいきれない。………私たちは、人間としてみると、なんと情けない存在かと思う。しかし、だからこそ、この人たちでなければ果たせない役割があるのではないか? イエスの十字架の勝利のように、人の目にもっとも恥ずべきことに見えるもののなかに宝が隠されている気がする。
在日韓国人は、二つの国をある程度の距離をおいて見ている。どの家の屋根の下にも入らないので、どの家(国家)も絶対に良い、とか絶対に悪い、という国家に対する「信仰」のようなものがない。………在日韓国人は、無意識の愛国心にもっともだまされない人たちだと思う。そして、だからこそ国家や民族を越えた価値を必死で求めて生きることになる。それは、人の都合によって動かされない真理のようなものだ。
私はこの書を他人に薦めるときにここの部分をコピーして読んでもらうことにしている。そしてこの部分を読まされた人の多くは、この書を読んでみたくなるという。