それによると、第50代天皇平城天皇にさかのぼった大江氏宮城家系譜とある。家紋は「丸に揚羽蝶」。
その系譜にはいろいろな歴史上の人物が現れる。
まず、万葉歌人の大江音人。その兄弟に在原業平、行平の兄弟がいる。
音人の子大江千里は「月見ればちぢにものこそおもわれね我が身一つの春にはあらねど」と歌った古今集の歌人である。
大江家の系譜からは、大江匡衡(道長の信篤かった文章家)大江匡房、さらには頼朝の侍所別当であった大江広元がいる。さらにここからは戦国大名の毛利の系譜が始まる。
この大江広元のときに奥州の地頭となったあたりから宮木の姓が表れ、さらに宮城家が起こる。宮城家の3代目宮城賢輔は信長秀吉に仕える。
秀吉に仕え、播州三木城の攻防戦で手柄を立て、小田原攻めや朝鮮出兵に出陣。対馬に領地5000石を得る。朝鮮の役後、講和使節として渡海。また京都黒谷の金戒光明寺の本堂再建の時に奉行となる。関ヶ原においては西軍に参戦するも、戦後本領安堵をされ、家康にも仕える。西軍に加わりながらも戦後本領安堵をされているということは、関ヶ原で寝返ったということだろうか。
豊盛が朝鮮通であったことも重視される理由であったことが予想される。
黒谷の金戒光明寺は、法然ゆかりの浄土宗の大本山であり、幕末の京都守護職であった会津藩主松平容保がここを本拠として活動したことで有名である。
江戸期になって宮城家は御三家の一つである尾張松平家に仕えていた。
この家系図は、江戸から東京に変わった頃書かれてあったようである。
私ども現在家系図作成中です。先祖は丹後宮津と由緒帳に書かれております。9世祖父一色五郎のことでなぞの部分があり、宮城家系図の中で解明できれば幸運です。
由緒帳より
9世祖父幼少の内一色五郎(本国丹後宮津出生)天正4年生まれ
慶長2年秀次公家来宮木(城)次部左衛門殿の養子となり、宮木(城)忠右衛門知行200国、宮木(城)次部左衛門殿の従兄宮城越前守殿に仕えたと書かれています。
宮城氏と一色との関係と一色五郎の父の名前が判ると家計図画完成できると思いますので、判ることがありましたらご連絡いただきたいと思います。宜しくお願いします。
この宮城家とつながりはあるのでしょうか?
先日 滋賀県栗東市にある歴史資料館にお願いし
「阿弥陀寺墓地調査概要報告書 2008.3 NPO法人文化財の資源化を考えるかい 」を送付していただきました。調査によれば墓地の奥には 寛永611月29日 青地五郎左衛門と書かれた五輪塔があるそうです。
もしよろしければ青地家所有の宮城系図を拝見させていただけたらと思っています。
よろしく御願い致します。