2006年10月10日

「ゴドーを待ちながら」という芝居

これも晴佐久神父の説教集「あなたに話したい」から。
クリスマス前の「待降節」の説教です。

「ゴドーを待ちながら」という芝居をご存知でしょうか。ちょうど今から50年前の1953年にパリで初演されたサミュエル・ベケットという作家の作品ですが、これは演劇史の「分水嶺」ともいわれるほどに大きな影響を与えた作品です。「現代人の不安」をよく表している。

 一本の田舎道が伸びていて、真ん中に木が一本立っている。そこでボロをまとった男が二人「ゴドー」っていう人を待っています。二人は
「ゴドーはいつ来るんだ」
「もう来てもいいはずだ」
「待ち合わせ場所はここなんだろうな?」
「本当に来るんだろうか?」
「来なかったら?」
「明日また来てみるさ」
「来たんじゃないか?」
「いやあれはちがう」
「もう行こう」
「だめだよ」
「なぜさ?」
「ゴドーを待つんだ」
そんな会話を延々と続けているという、そういう作品です。大きな事件は何も起きない。ある意味退屈な作品です。観客は
「ゴドーっていったいだれだい?」
「ホントに来るのかな?」
と思いながら見ているのですけれど、次第にわかってくる。ゴドーっていう人が誰なのか、この登場人物ですら知らないということ。なぜ待っているのか、いつ来るのか、来たらどうなるのか、それすらもこの二人はわかっていない。それどころか、今が何曜日なのか、一幕と二幕の人物は同じなのか、何だかよくわからない。そしてついにゴドーは来ない。二人は動けない。

 
 この人類という歴史、この私の人生という道、私たちはそこで何かをずっと待っています。待っているけれど、いつまでたってもやってこない。それで不安です。……………。まさに現代社会の心象風景でしょう。
 ……………。一般にはこのゴドーとはゴッドのこと、つまり神のことなんだろうとかそんな説明もありますけれど、いずれにせよ、この不毛で神なき時代の不安な現代人の心をよく表している芝居ですし、それは現代人のみならず、人間存在の本質に関わる不安ではないでしょうか。
 ぼくは、この「ゴド待ち」というのは確かに現代社会を表していると同時に、何だか旧約時代に似ているなと感じています。なぜならイエス以前の旧約の時代というのは、まだ来ない救い主を
「いつ来るんだろうね」
「来たら幸せになれるのだろうか?」
「信じなくちゃね〜」
「でも来ないね〜」
そう言っていた時代だからです。

 さすが晴佐久神父。彼は無類の映画好きであることが知られています。説教の中でもしばしば映画や演劇の話しが出てきます。この話しもまさに「待降節」そのものの話しなのですね。






































のですね。
posted by mrgoodnews at 01:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック