本の帯にはこういう紹介があった。
死の海から73人のベトナム難民を救助した日本人船長の涙。20年前17歳だったソン少年は、今、神父となり、過去をたどる旅に出る。
著者はベトナム難民。1981年17歳の時にボートで南ベトナムを脱出、フィリピンの難民キャンプを経て、1982年に日本に来る。そして日本に定住。1994年カトリック司祭となる。
この本は、サイゴン陥落から南ベトナムを脱出。73人のボートピープルとして死の海を漂流。日本のタンカーに救助されて、フィリピンの難民施設を経て日本に来る時の様子がリアルに書き出されている。
日本のタンカーに救助され、マニラにて下船し、船長や船員と別れなければならなかった時に、彼らは真っ白い制服に身を包み、一列に整列して、敬礼していた。
「残念ながら、皆さんを日本に連れて行くことができなくなりました。とても申し訳なく思っております」
船長のその言葉だけで、ぼくらは充分であった。
ぼくらは整列する彼らの前をゆっくりと進んでいった。まるで大事なお客を送り出すかのように彼らはぼくらに向かって敬礼し続けた。言葉は通じなくても、ぼくらひとりひとりを「難民」という一線を画したものではなく、対等の人間として尊重してくれている彼らの気持ちが伝わってきた。3日間という短い時間ではあったが、彼らのおかげで涸れかけていたぼくらの命は息を吹き返した。
そのとき、ぼくは見た。ぼくら73人を見送る船長の頬には涙が光っていた。じっと敬礼のポーズを取りながら、彼は泣いていた。
ぼくは歩を進めながら、ゆっくりと船長の姿を追った。船長はなぜ涙を流しているのか? ぼくらを日本に連れて行けなかったことへの悔し涙なのか、ぼくらの行く末を案じる涙か。それともぼくらを助けることで何かあったのか、その問いばかりが、ぼくの頭を占めた。ほかの光景はまったく目に入らなかった。……………。
以後20年間、このときの船長が流した涙の理由への問いは、ぼくの心の中で種火のようにずっと消えずに残っていくことになる。
これが、この本のタイトルになった「涙の理由」である。
この本にはこのような感動的な文章がたくさんある。これは翻訳ではない文章だと思った。この著はソン神父と加藤隆子さんの「共著」とある。どのようなかたちで書かれたかはわからないが、これは翻訳ではない文章である。あまりにみごとで美しい日本語なのである。
彼は日本の難民施設を出て、甲府の夜間高校に通いながら会社で働きだした。しかし交通事故で大けがをして入院した。そのとき隣のベッドにいたおじさんが話しかけてきた。
「君は幸せだね。よその国から来ているのに、毎日のように友達が見舞いに来てくれて、私なんか家族もいるのに、来るのは集に一度か二度だよ」
ぼくは呆然として耳を疑った。ぼくが幸せ? 幸せだって? おじさんはなにを言っているんだ。彼の言葉がまったく理解できなかった。
ぼくが幸せなはずがない。本当ならいっしょにいるはずの兄弟は船に乗れず、ぼくはひとりぼっちだ。死を覚悟で家族と別れて国を出たのに、助けられたとたん、フィリピンのキャンプに8か月も送られ、ようやく辿り着いた定住先の日本でもぼくはずっと難民のままだ。おまけに交通事故で今ではほとんど寝たきりの生活。弁済の金銭トラブルだってふりかかっている。ぼくは誰よりも不幸の人間のはずじゃないか……………。
そのとき、頭ではなく心が何かに反応したぼくの中で何かが崩れ落ち、急に篤いものが胸にこみ上げてきた。ふと、右足の付け根から足の甲までを覆っている長いギブスに目をやった。白い地の色が見えないくらいに、見舞いに来てくれた人の寄せ書きでいっぱいだった。毎日のように来てくれる友達やマウリツィオ神父の顔が重なった。なぜだかわからないが、目から涙が止めなくこぼれた。……………。
ぼくは自分が不幸な人間だと思いこんでいた。自分の不運な状況にばかりにとらわれ、それを支えてくれている友人たちに感謝するどころか、その存在すら見えていなかった。考えてみたら、どんなときでも助けてくれる人たちがいた。船が漂流して死の淵に立った時も、フィリピンのキャンプでも、日本でも――冷たく突き放す人もいたかわりに、いつだって手をさしのべてくれる人たちもいたではないかぼくはいったい、今まで彼らに何を返してきただろう。
主人公が涙を流すところはそんなに多くはない。その数少ない涙を流すところが実に胸を打つのである。ここにも「涙の理由」がある。
この本の最後の方で、友人に預けておいた手紙の中から胃痛の出さなかった手紙を見つけた時の気持ちを綴った文である。その手紙は、先にフィリピンの難民施設から日本に向けて先に出国した友人に宛てた手紙だった。その手紙には
「元気かい? 日本での生活はどう? 暮らしやすい? こっちはなかなか大変だよ。フィリピンの難民キャンプでの生活は……………。
お願いがある。お金を少し送ってもらえないかな? 本津に大変なんだ。くれとは言わない。必ず働いて返すから……………。」
この行を読んだとたん、ぼくは泣いた。自分でも不思議なくらい涙が出た。
手紙のむこうには18歳になったばかりのぼくがいた。迷いながらこの手紙を懸命に書く、記憶からも消されていた自分の姿が目の前にあった。手紙の相手も慣れない土地で、しかもまだ収容施設にいる。自分のことだけでせいいっぱいで、とても人に手をさしのべる余裕などないであろうということはわかっていた。それでもぼくは彼に頼らざるを得なかった。そんな自分の立場が苦しく、みじめだった。たいして内容のないことを長々と書いていたのは、書かなければならない「お金を貸してくれ」の1行をなかなか書き出せずにいたからだ。
ぼくは気づいた。これは出せなかった手紙なのだと。今まで、どんなに昔のことを思いだしても悲しさで涙を流したことなどなかった。常に気持ちを据えて過去と対峙していたからだ。しかし、何の心構えもなく、突然目の前に表れた昔の自分にぼくは動揺した。そしてこの手紙をためらいながらも必死にしたためていた自分の気持ちを思い、ぼくは泣いた。
この本の故に、今度のクリスマスの前に、ソン神父を学校に招いて中学3年生とともに彼の話を聞く集いを予定している。彼の話を生徒たちはどのように受け取るであろうか?