内藤ジュリアは一度結婚するが、夫に先立たれ、夫の死後仏門に入り、比丘尼となる。彼女は小西行長の母小西マグダレナの導きにより、イエズス会のオルガンチノ神父から洗礼を授かり、京都で布教活動を精力的に行う。
さらに日本最初の女子修道会ベアタス会を5人の女性信者とともに創 立。その5人の女性の中には、筒井定次の娘マリア伊賀、大友宗麟の娘と言われるメンシア大友、ジュリアのいとこのマグダレナ中島らがいた。ベアタスとは生涯を神と人に愛をささげるために独身で修行する女性たちの共同体を意味する。
修道院は下京の教会に隣接していたが、1614年の大弾圧が開始されたとき、会員は18名あり、ジュリアは若い修道女9名を他所に隠したので、彼女を含め9名が逮捕された。彼女等は俵に入れられ縄で巻かれて首だけ出した状態で、刑場として使用されていた河原に晒された。
その後、高山右近や内藤如安がマニラに追放になった時に行動を共にし、如安とともにマニラ日本人町のリーダーとして生きた。如安の死後3年後に彼女も帰天する。享年62歳であった。
高山右近や内藤如安、小西行長らキリシタン武将とともに、細川ガラシア、おたあジュリアら、信仰を生きた数多くの女性たちがいたことも忘れてはならないであろう。