私はこの本を生徒から薦められた。
私は小説を読むのが好きなのだが、今は小説は読まないようにしている。小説は私にとっては「時間泥棒」のように思えていたからである。しかし、最近これに例外を設けるようになった。生徒から薦められた小説はできるだけ読むことにしたのである。少し時間的にゆとりができてきたということかもしれない。
私は自分の授業の記録を生徒に輪番で取ってもらうことにしている。「授業ノート」と呼んでいるのだが、それには授業の感想なども書かれていたり、また彼女たちが最近感動した本や映画なども紹介されていて、読むのがとても楽しみとなっている。
最近、中3の「授業ノート」に「先生、この本泣けますから読んでください」ということが書かれていた。そしたら次の週の番になった生徒も「私もこの本を読んで泣きました。この本は図書館にあります」と書かれていたので、さっそく図書館に行ってその本を探したら、司書の先生が「この本はほとんどいつも貸し出されていて、なかなか戻ってこないのです。予約しておきましょうか?」といわれたので、「そうしてください」と頼んだ。
そしてしばらく立って、司書の先生から「あの本戻ってきました」といわれ、さっそく借りだして読んだ。
この本は「その日」つまりさまざまな死を前にした人のことを語った短編小説集である、と思った。一つ一つは確かに悲しい話しであるが、「涙を流すほどのこともないな」と思って途中まで読んできたが、最後の方の「その日のまえに」「その日」に近づくに連れて、おさえようもなく、堰を切ったように涙が流れ出してきたのである。
主に行き帰りの通勤電車の中で読んでいたので、ちょっと恥ずかしかったのだが、涙で先が読めないので、ハンカチで涙を拭きふき読まねばならなかった。
クライマックスのところで、この本にもこう書いてあった。
神さまより人間の方がずっと優しい。
神さまは涙を流すのだろうか。
涙を流してしまう人間の気持ちを、神さまはほんとうにわかってくれているのだろうか。
頼む、涙よ、邪魔をしないでくれ。僕の妻は、もう、こんなに透き通ってしまった。
それまで、独立した短編小説家と思っていたのが、最後の方になってみごとに繋がっていくのである。
生徒が「この本泣けます」といって薦めてきたのがよくわかった。私も友人にそういって薦めるであろう。今日実際にそういって3人の人にこの本を薦めた。
彼女たちはこういう「泣ける本」が好きである。感動して涙を流して、心を浄化してもらいたいのかもしれない。
そういえば、この前に読んだ「涙の理由」(ファン・ディム・ソン・加藤隆子共著 女子パウロ会)も「泣ける本」だった。
実は今日、「涙の理由」の著者のソン神父を、カトリック三島教会に訪ねて話しをしてきたところである。
クリスマスまえの「自己発見ワークショップ」という中3の生徒を対象とした特別授業で、彼に中3の生徒に話しをしてもらうことの打ち合わせに行ったのだが、そのときにもこの「泣ける本」の話しをしてきたところである。
彼も言っていた。
「みんな泣きたいものをもとめているのですね。涙を止めなく流して心を清めて欲しいと願っている。私の本の中ではそういう箇所が何カ所もあります。よく聞いてみると涙を流すところがみんな違っているのです。まさに『涙の理由』が人によって少しずつ違っているのかもしれません。」
そうだ、今度生徒に「涙の理由」という本を「この本泣ける本だから読んでみて」と薦めることにしよう。