先ずこんな文章に出くわした。
人間の行動原則の正し手を
宗教に求めたユダヤ人
哲学に求めたギリシャ人
法律に求めたローマ人
この一事だけでも、これら三民族の特質が浮かび上がってくるぐらいである。
ギリシャ・ローマに代表される多神教と、ユダヤ・キリスト教を典型とする一神教とのちがいは、次の一事につきると思う。多神教では、人間の行いや倫理道徳をただす役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである。多神教の神々はギリシャ神話に見られるように、人間並みの欠点を持つ。道徳倫理の正し手ではないのだから、欠点を持っていてもいっこうにさしつかえない。一神教の神になると、完全無欠でなければならなかった。放っておけば手に負えなくなる人間を正すのが、神の役割であったからである。
では、自分たちの道徳原理を正すことを求めなかった神々に、ローマ人は何を求めたのか?
《守り神》である。守護を求めたのだ。首都ローマを守るのは最高神ユピテルを初めとする神々であり………。
《守り神》の愉快な例がヴィリブラカ女神だ。夫婦喧嘩の守護神とされていた。
夫と妻の間に、どこかの国では犬も食わないといわれる口論が始まる。双方とも理は自分にあると思っているので、それを主張するのに声量もついついエスカレートし………つい手がでる、となりそうなところをそうしないで、二人して女神ヴィリブラスカをまつる祠に出向くのである。…………女神を前にしてのきまりとは、女神に向かって訴えるのは一時にひとりと限る、であった。
こうすれば、やむをえずとはいえ、一方が訴えている間は他の一方は黙って聞くことになる。黙って聞きさえすれば、相手の言い分に理がないわけではないことに気づいてくる。これを双方で繰り返しているうちに、興奮していた声の調子も少しずつ落ち着いてきて、ついには仲良く二人して祠をあとにする、ことにもなりかねないのである。
カトリック教会における、守り神的な役割は、聖者たちの受け持ちとしたのである。こちらのほうも、書き始めたらきりがない。なにしろ、寝取られ男にまで守り神がいたのだから。キリスト教では守護神とするわけにはいかなかったので、守護聖人といった。………とはいえ、夫婦喧嘩担当の守護聖人までは、折衷の才豊かなキリスト教でも配慮が及ばなかったようである。
こんな文章がたくさん出てくるのが「ローマ人の物語」である。読み進めていくに従って、ますます先が読みたくなる本である。
ところで「寝取られ男」の「守護聖人」というのは誰のことだろうか?