2007年10月05日

ギリシャ人とローマ人とユダヤ人

「ローマ人の物語」〔塩野七生著 新潮社刊)を学校図書館から借り出して読み出した。全1?巻もあるので、しばらくはその他の本が読めなくなりそうである。予想どおり面白い。この BLOG にて紹介したくなる事柄がたくさん載っている。少しずつ紹介しよう。

 先ずこんな文章に出くわした。

人間の行動原則の正し手を
 宗教に求めたユダヤ人
 哲学に求めたギリシャ人
 法律に求めたローマ人
この一事だけでも、これら三民族の特質が浮かび上がってくるぐらいである。


 ギリシャ・ローマに代表される多神教と、ユダヤ・キリスト教を典型とする一神教とのちがいは、次の一事につきると思う。多神教では、人間の行いや倫理道徳をただす役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである。多神教の神々はギリシャ神話に見られるように、人間並みの欠点を持つ。道徳倫理の正し手ではないのだから、欠点を持っていてもいっこうにさしつかえない。一神教の神になると、完全無欠でなければならなかった。放っておけば手に負えなくなる人間を正すのが、神の役割であったからである。

 では、自分たちの道徳原理を正すことを求めなかった神々に、ローマ人は何を求めたのか? 
《守り神》である。守護を求めたのだ。首都ローマを守るのは最高神ユピテルを初めとする神々であり………。

《守り神》の愉快な例がヴィリブラカ女神だ。夫婦喧嘩の守護神とされていた。
 夫と妻の間に、どこかの国では犬も食わないといわれる口論が始まる。双方とも理は自分にあると思っているので、それを主張するのに声量もついついエスカレートし………つい手がでる、となりそうなところをそうしないで、二人して女神ヴィリブラスカをまつる祠に出向くのである。…………女神を前にしてのきまりとは、女神に向かって訴えるのは一時にひとりと限る、であった。
 こうすれば、やむをえずとはいえ、一方が訴えている間は他の一方は黙って聞くことになる。黙って聞きさえすれば、相手の言い分に理がないわけではないことに気づいてくる。これを双方で繰り返しているうちに、興奮していた声の調子も少しずつ落ち着いてきて、ついには仲良く二人して祠をあとにする、ことにもなりかねないのである。

 カトリック教会における、守り神的な役割は、聖者たちの受け持ちとしたのである。こちらのほうも、書き始めたらきりがない。なにしろ、寝取られ男にまで守り神がいたのだから。キリスト教では守護神とするわけにはいかなかったので、守護聖人といった。………とはいえ、夫婦喧嘩担当の守護聖人までは、折衷の才豊かなキリスト教でも配慮が及ばなかったようである。


 こんな文章がたくさん出てくるのが「ローマ人の物語」である。読み進めていくに従って、ますます先が読みたくなる本である。
 ところで「寝取られ男」の「守護聖人」というのは誰のことだろうか?
 
posted by mrgoodnews at 01:54| Comment(0) | 歴史のおもしろさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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