せめてと思って、この書の最後に紹介されていたアウグストゥスのエピソードを一つ紹介しよう。
死の少し前のアウグストゥスが、ナポリ湾の周遊中に立ち寄ったポッツォーリでの出来事である。
エジプトのアレクサンドリアから着いたばかりの商船の乗客や船乗りたちが、近くに錨を降ろしている船の上で休んでいた老皇帝を認めたのだった。戦場から人びとは、まるで合唱でもするかのように、声をそろえて皇帝に向かって叫んだ。
「あなたのおかげです。われわれの生活が成り立つのも。
あなたのおかげです。私たちが安全に旅をできるのも。
あなたのおかげです。われわれが自由に平和に生きていけるのも」
予期しなかった人びとから捧げられたこの讃辞は、老いたアウグストゥスを心の底から幸福にした。彼の指示で、その人びと全員に、金貨10枚ずつが贈られた。ただし、金貨の使い道に条件が付いていた。エジプトの物産を購入して他の地で売ること、である。老いてもなおアウグストゥスは、現実的な男であり続けたのである。物産が自由に流通してこそ、帝国全体の経済力も向上し、生活水準も向上するのである。そしてそれを可能にするのが「平和(Pax)」なのであった。
いかにもアウグストゥスらしいエピソードである。かれはいくさこそうまくなかったが、産業を興し、経済を活発にすることが「ローマの平和(Pax Romana」の現実的な礎であることをよく知っていたということである。