祈り
一つの大きな主張が
無限の時の突端に始まり
今もそれが続いているのに
僕等は無数の提案をもって
その主張にむかおうとする
( ああ 傲慢すぎる ホモサピエンス 傲慢すぎる)
主張の解明のためにこそ
僕らは学んできたのではなかったのか
主張の歓喜のためにこそ
僕らは営んできたのではなかったのか
稚い僕の心に
( こわれかけた複雑な機械の鋲の一つ)
今は祈りのみが信じられる
( 宇宙の中の無限小から
宇宙の中の無限大への)
人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりのまえに僕は祈ろう
( ところはすべて地球上の一点だし
みんなはすべて人間のひとり)
さびしさをたえて僕は祈ろう
一つの大きな主張が
無限の突端に始まり
今もなお続いている
そして
一つの小さな祈りは
暗くて巨きな時の中に
かすかながらもしっかり燃え続けようと
今 炎をあげる
特に「稚い僕の心に(こわれかけた複雑な機械の鋲の一つ)今は祈りのみが信じられる( 宇宙の中の無限小から宇宙の中の無限大への)」という部分もいいと思うし、「人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりのまえに僕は祈ろう」というところもとてもいい。
クリスチャンの祈りとは違うものを感じます。「宇宙の中の無限大」というのが「神さま」なのかな?
ついでにおなじ詩集の中につぎのような詩もありました。
宿題
目をつぶっていると
神様が見えた
うす目をあいたら
神様は見えなくなった
はっきりと目をあいて
神様は見えるか見えないか
それが宿題
やはり祈りは目をつぶってしなければいけないのですね。でもなんで「宿題」なのかな? この宿題はいつまでにしなければいけないのだろうか?