
さあ、あたらしい、朝へ
移り変わる時代、流れゆく時の中で
私たちの暮らしも、一日として同じ日はありません。
時には、心を痛めることも
思い通りいかないことも、あるでしょう
それでも、どんなときでも。
私たちは、あたらしい朝を迎えます。
空を仰いで、すくっと立つ「花」のように。
うつりゆく日々に、凛としたまなざしをたたえる「月」のように
自分をたいせつに、育んでいくこと。
毎日をていねいに、つづっていくこと。
それこそが、「こころ豊かな暮らし」を
支える力になるのだと、私たちは信じています。
私たちはそばにいて、わかちあいたい。
たとえば、あなたが、その髪、その肌に触れるとき、
お日さまの光をたっぷり浴びた衣類につつまれるとき、
安らかなよろこびや、笑顔で満ちていくことを。
あなたというたった一人の存在が
背筋をすっと伸ばし、あたらしい朝にむかって歩き出す瞬間を。
そう、花であり、月であり、
――――あなたです。
でもこれって詩というよりもやはり広告のコピーなのですね。なんでそう感じるかというと、「着物の下から鎧が見えてしまう」のです。「花と月」というと「花王」ですものね。
広告として成立しません、
スポンサーにとってはどんな優れた詩であれ
大枚をはたいて元旦の全面広告に掲載する意味がありません
だけどその広告が「考え落ち」というところに
広告の質の高さを感じてあげてください。
今年のお気に入りはなんと言っても,これでした。
どんな人がこんな広告を考えるのかと,そして,どれぐらいの時間を費やしているのかと。こんな詩を創る人とはどんな人なのかと。
実に感銘を受けたものです。
ただ,6連の2,3行目は,やはり花王なんだろうと。
これをはずしてもこの詩はすばらしいものです。
他のみんなにも紹介します。
もちろん,花王も宣伝します。
「作:心豊かなあしたへ。花王」として。
コメントありがとうございました。
1965年頃 S.I.ハヤカワという人が「思考と行動における言語」(岩波書店)という本の中で、「現代詩はなぜ難解なのか?」という説明として、「広告がわかりやすい詩の位置を奪ってしまったから、広告コピーと区別するために現代詩は難解になった」というように書かれてあったことを記憶しています。今手元にその本がないので、正確にこの文章を書くことができないのですが、またその本が見つかったら改めて書くことにしましょう。
この花王の広告をみているとまさにそういう感じがしますね。
もちろんこの詩は広告なので「着物の下の鎧」は見え隠れするのは当然のことなのでしょう。
それをわかっていてもこの詩、この広告文は秀逸だと思っています。
はなしはそれますが、このハヤカワという日系の言語学者はその後サンフランシスコ大学だったかの学長になって、大学紛争を収拾するのに辣腕をふるったことでも記憶に残っています。
多分、サンフランシスコかオークランドの学校が
舞台だったような。
フラワーチルドレンとかヒッピーとかピースとか
サイケデリックとか、楽しい時代でした。
映画は最後に警官隊が突入して来る所で
終わっていました、確か。
随分古い話しです。
再度の書き込みをありがとうございます。
「いちご白書」私もみました。
警官隊が突入する前に、体育館かどこかに学生たちが集まって歌った歌が思い出されます。
そういえば「いちご白書をもう一度」とかいう歌もありました。バンバンだったっけ?
あの歌もステキでした。ときどきカラオケで歌います。
ということは、aki さんも私とおなじ「フラワーチルドレン」の世代(日本名「団塊の世代」)なのでしょうか?
この曲を創ったのは荒井ユミでした。
私はもう少し下の生まれですがヒッピーまがいの
長髪にベルボトムのジーンズに花柄シャツで
街を闊歩してました、なつかし〜。