その「歌集」に載っているフランシスコの「平和の祈り」が問題となっています。この祈りはもっともすぐれた祈りの言葉として最近教会でも良く唱えられるようになりました。しかし、これにはいろいろな訳があるので、果たして今うちの学校で使っているものが一番いいものかどうかが問題となっているのです。
うちの学校で唱えられている「平和の祈り」は次のようなものです。私の教会でもこの祈りが唱えられています。
神よ、わたしを、
あなたの平和のために用いてください。
憎しみのあるところに、愛を
争いのあるところに、和解を、
分裂のあるところに、一致を、
疑いのあるところに、真実を、
絶望のあるところに、希望を、
悲しみのあるところに、よろこびを、
暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、
助け、導いてください。
神よ、わたしに、
慰められることよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されることよりも、愛することを望ませてください。
わたしたちは、
与えることによって、与えられ、
すすんでゆるすことによって、ゆるされ、
人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。
英語では次のような文が一番多いようです。
LORD,
make me an instrument of Your peace.
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
and where there is sadness, joy.
O DIVINE MASTER,
grant that I may not so much seek to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love;
for it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that we are born to eternal life.
こんな訳もあります。
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することをわたしが求めますように
わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠のいのちをいただくのですから
問題となっていることは
1.最初の部分の「平和の道具(instrument)」「平和の器」と訳されているこの言葉を生かすべきかどうかですね。
2.「争い→和解」とするか「いさかい→ゆるし」とするか 英語では「injury → pardon」です。
3.「疑い→真実」とするか「疑惑→信仰」とするか 英語では「doubt → faith 」です。
4.一番の問題は最後の部分です。
英語では it is in dying that we are born to eternal life
日本語では「人のために死ぬことによって永遠の命を得る」とあるものや「自分を捨てて死に永遠のいのちをいただく」とあるものもあります。
この二つには、それぞれの解釈がふくまれています。
英語文は「死において永遠のいのちに生まれる」だけです。
わたしはこの部分はもっともシンプルにしていろいろな解釈があり得るようにするのがもっともいいのではないかと思います。
5.「与えることによって与えられ、ゆるすことによってゆるされ……………。」とすると与えること、ゆるすことが与えられること、ゆるすことの条件になってしまいかねない。むしろ「ゆるすことのうちにゆるされ、与えることのうちにあたえられ、死ぬことのうちに永遠のいのちに生きる」としたほうが英語の「in giving」「in pardoning 」「in dying 」の表現には忠実なような気もします。
この祈りはフランシスコ自身の作った祈りではないとされています。しかしフランシスコの精神と生き方を実によく表現しているということで20世紀になってひろまったもののようです。あるところには次のように記載されていました。
この詩は、1913年に、フランスのノルマンディー地方で、「信心会」の年報『平和の聖母』(1913年1月、第95号)に掲載された。さらに、 1916年1月、バチカン発行の『オッセルヴァトレ・ロマーノ』紙で公認された。そして、第一次世界大戦の中、人々に広まっていった。
第二次世界大戦が終わった1945年10月、サンフランシスコで開かれた国連のある会議の場で、アメリカ上院議員トム・コナリーがこの「平和の祈り」を読み上げたという。それ以降、この詩が広く知れ渡るようになったらしい。
皆さんはどの祈りがいいと思いますか?
多少の訳の違いがあり、こめられた意味の違いもあったけれど、それでもこの祈りは「究極の祈り」といってもいいように思います。
特に信仰もない私ですが、以前から聖書など宗教関係の文章は日本語として解りにくい。こんな文章を本当に理解出来ているのか?と思ってました。
それが、ただ単に訳し方の問題だったとは!
これで何十年来のモヤモヤがスッキリしました。
とっても嬉しいです。有難うございました。
カトリック教会の主の祈りの中で
「私たちの罪をお許しください。
私たちも人を許します。」
プロテスタントの教会では
「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ」
とあります。
私はカトリックの信者ですが、
ずっと違和感を感じておりました。
私が若い頃になじんだ文語では
プロテスタント教会の文に近かったです。
それに言葉を与えていただいたよう思います。
そう許しが条件になっていることなんですね。
神が許すから、私たちも許す。
あるいは私たちが許すように、神も許してください。
そうではなく
許すことがゆるされることになり何だと思います。
イエスは私たちの罪を背負い許すために
十字架につけられて亡くなったのですから。
問題とされている箇所は、お悩みになっても仕方無い所だろうと思います。翻訳する上では、そうした問題に必ずぶつかります。
なによりも、この祈祷文はフランス語が原文で、そのフランス語でも諸事情により色々なバージョンがあります。細かく数えると60くらいはあるとも言われているぐらいです。もちろん英語でも日本語でも色々なバージョンがあります。
どうして、そんなにバージョンが出来てしまったかは、手前味噌ですが、以下のURLを参照ください。
http://ohta.at.webry.info/201212/article_1.html
さて、1のinstrument。確かに日本語に訳し難いのですが、原文のフランス語でも「私を平和のために使ってください」で済ませずに、わざわざinstrumentという言葉を使っているので訳した方が良いように思います。
ところでフランス語でも英語でもinstrumentには「楽器」という意味がありますので、そのように訳すのも「神の道化師」と呼ばれたフランチェスコに相応しいような気もしていますが、そのように訳した例は無いようですね。
2は、原文ではdiscord/unionなので「不和のあるところに一致を」が良いように思えます。
3は、原文ではdoute/foiです。素直に訳せば「疑いのある所に信頼を」ですが、教会の人は「信仰」と訳したがる単語でもあります。しかし、この祈祷文の文脈からすると「信仰」と訳するのはやりすぎだと私は考えます。
4は、原文を素直に訳せば「死によって永遠の命に復活する」です。「人のために死ぬ」という言葉はありません。
5の指摘は頷けます。ただ、「与えることのうちに与えられ」は日本語として解り難いように思えます。