「そういえば子どものときにそんなことがあったっけ」とおもいだしながら「ど〜れ、なおしてみよう」と試みた。何度か試しているうちにチェーンはうまくはまり、自転車は動くようになった。その生徒の喜んだ顔が忘れられない。
人が困っているときに助けられたということはとても大きな喜びであるということを改めて実感したのである。
私がコンピューター教室の管理をしていたころ、生徒が「コンピューターが動かなくなっちゃったのですけれど」とよく助けを求めてやってきた。私は喜々としてコンピューターの前に行き「ああ、これはこうすればいいんだよ」と生徒の前で即座に治してあげられたときのかっこよさ、わたしの教員生活のなかでもっとも得意になったときであった。
自分が必要とされていること、役に立っていることを実感できることはいきがいとつながるものである。
もう25年近く前、まだ教員になる前のことだった。その日私は次の日に廃車にする車を運転していた。それでガソリンをケチっていたら、案の定途中でガス欠になり、有料道路の出口をすぎたところの道路のまん中で止まってしまった。かなり車の通りの激しい幹線道路だったので、大変危険なところであり、途方に暮れてしまった。
近くのガソリンスタンドへ行って、ガソリンを少し買ってくるしかないと思っていたら、あるトラックに乗っていた青年が「どうしたんすか?」と止まってくれた。
「いあや、ガス欠で立ち往生です。実はあした廃車にしようと思っていたので、ガソリンをケチっていたらこの始末です。おはずかしい。」
「そりゃ、お困りでしょう。ロープで近くのスタンドまで引っ張ってあげますから、車に結んでください」といって車を近くのスタンドまで引っ張っていってくれたのである。
「ほんとに助かりました。どんなにお礼をしたらいいか。ほんのお礼のつもりです。受け取ってください」といって幾ばくかのお金を出して渡そうとした。
するとその青年「いやあ、いいっすよ。そんなことよりももし同じように誰か困っている人がいたら、助けてあげてください」と実にさわやかに言って、その場を立ち去っていった。その言葉のかっこよかったこと。私も「このかっこいい言葉を誰かに言ってやるぞ」とこころにきめ、牽引用のロープをいつも車に積んでおくことにしたのである。
程なくしてそのチャンスがやってきた。若いカップルが車の前で困りはてて助けを求めているのを見つけた。パンクらしい。
さっそく下りて、わたしもあのことばをはいた。
「どうしたんすか?」
「タイヤがパンクしてしまって」
「タイヤ交換くらい自分でできなくっちゃ。スペアタイヤはありますよね」
「さあ」となんとも頼りない声。
私がその車のトランクを開けて探したら、スペアタイヤは見つかった。まだま新しい車である。
「じゃ私が交換してあげるから、よく見ていてくださいよ。今度は自分でできるようになってくださいね」
と、自分の車からジャッキを出して車を持ち上げてともかく交換できた。
「ありがとうございました。今度から自分でなおします。お礼としては何ですが、せめてこれを受け取ってください」と出してくれたのがミカン数個。
「え、ミカンかよ」思ったが、これをことわる理由がすぐに思い浮かばず、受け取ってしまったら、あの言葉を言い出せなかった。
ホントはあのカッコイイ青年のように「いいっすよ。そんなことより今度パンクして困っている人がいたら、助けてあげてくださいね」と言いたかったのだが、ミカンじゃことわるわけにもいかず、言いそびれてしまった。残念!
あれから何度かこういうケースで人を助けたことがあり、あの言葉を言うチャンスがあったのでそれはいいのだが、あの青年のようにカッコよくはいかなかった。
助けようとして助けられなかったこともある。その時の情けなさ、ふがいなさも忘れられない。
是非Y先生に聞いてみてください。