今日のミサの司祭の説教を聞いていたときに、その司祭はこんな話をされていた。
「幸福には2種類ある。一つは幸運に恵まれて得た幸福であり、他の一つは何気ないごく普通のありふれたことの中に見つけた幸福である。」
この話を聞きながら、彼は「セレンディピティ(serendipity)」という言葉を思い出したのだそうである。「セレンディピティ」というのは WIKIPEDIA によると
何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。(平たく云えば、ふとした偶然をきっかけに、幸運を掴む事。)
とある。
英英辞典には次のようにある。
Serendipity: the natural ability to make interesting or valuable discoveries by accident (Longman Dictionary of contemporary English)
この言葉の由来は「セレンディップの3人の皇子たち」というスリランカの王子の話なのだそうである。
かつて私は『セレンディップの三人の王子』という童話を読んだことがあるのですが、そのお話において、王子たちは旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです。例えば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。何故分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためなのです。さあ、これで「セレンディピティ」がどのようなものか理解していただけたでしょう?
ここにもあるように、これは「偶然な荷かを発見すること」という意味合いが強いが、本来はむしろ日常的な出来事の中に「新しさを発見すること」にある、つまり「2種類の幸福」のなかの後者の「幸福」に結びつくものではないかと、彼は分かち合ってくれたのである。
私はこの彼の意見に共鳴して
「そうそうそれこそ『福音(Good News)』の極意だよ」
と思わずいってしまった。