パウロは、あちこちの教会宛にたくさんの手紙を出した。その手紙は教会の中ではどのように扱われたのだろうか? 会堂で読み上げられたり、あるいは掲示されたりしたことだろう。それに対してその教会のメンバーはどのように感じたのであろうか? なかにはその手紙に返事を書いたものもけっして少なくないのではないか。その手紙に賛意を表するものだけではなく、反論するものや、その手紙に対する教会の人びとの反応を報告するものもあったであろう。
この書は、パウロの手紙に対する返事を想像して書き、それに対するパウロの応答が書かれ、さらにそれに対するやりとりが書かれている。パウロの応答は彼の手紙の中からそれに関係する文をつなぎ合わせて書かれている。
たとえばこんな話がある。
婦人たちは教会では黙っていなさい。彼らは語ることがゆるされていない。律法も命じているようにこの規則に従うべきである。もし質問して聞きたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは,婦人にとって上品なことではない。
ブルネラからパウロへ
パウロ様
あなたはほんとうは偽善者です。わたしは、イエスの生涯や、教え、特に、彼に従った婦人たちに対する態度のことを聞いてクリスチャンになりました。それらの婦人たちは、いわゆる使徒たちと称する、ある人びとよりは、ずっとよくイエスを理解していたように思えます。冒涜も同然のことだとはわかっていますが、ほんとうのことだと思います。
あなたがガラテアの教会宛に「キリストにある」ものたちの間では男女の差別はないと書かれたと聞いたときに、私もとても勇気づけられました。ところが、今聞くところによると、あなたは婦人たちに、教会では黙っているように命じたということです。そして、もし、質問があれば家に帰ってその夫に尋ねるまで、じっと待たなければならないとのこと、なんとバカげたこと! 教会では大半の男性は説教中にぐっすりと眠っています。
さらに、私たち婦人は、ベールで顔を覆うという、あの時代遅れのオリエントの風習を守らなければならないのです。なんということですか。わたしたちは、まだ暗黒時代にいるのですか?……………。
パウロ様、どちらということになるのでしょうか。私たちはほんとうに、男性と女性との差別のない火事わりに属しているのですか。それともあれはただの大風呂敷にすぎないのですか。
ブルネラ
追伸 私には夫はありません。誰に説教の説明を聞けばいいのですか。
《わたしの教えの影にある意味は、こうだ》
男が女のかしらであり、神がキリストのかしらであることと同じように、キリストはすべての男一人一人の頭である。従って祈りをしたり、説教をしたりするときにかしらにものをかぶる男は、象徴としてその真のかしらたるものをはずかしめるのである。……………。
男は、かしらに物をかぶるべきではない。男は神の人格と栄光を表すからである。なぜなら女が存在するから男が存在するのではなく、その逆だからである。男はもともと女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。こういう理由から、女はかしらに外から見える男の権威のしるしをかぶるべきである。それはすべての天使が見るためである。
ブルネラから再びパウロへ
パウロ先生、バカを言うのはやめてください。「女が存在するから男が存在するのではなく、その逆だからである」ですって? 先生は男が何かを産んだなどと言うことをいつきいたのですか。男が産むのはそんな生半可の考えくらいです。あなたにもお母さんはあったと思います。あなたのお母さんがいたからあなたがいるのですか。それともその逆なのですか。
納得いかず ブルネラ
《あなたはわたしの言うことを文字通りにとっている》
もちろん、神の目には「男」も「女」も別々に存在するものではない。女がもともと男のために造られたとしても女以外から産まれている男はいない。そして男も女もすべてのものが生きているのは神によるのである。しかし、あなた自身の判断を用いてみるがよい、女のかしらにおおいをかけずに神に祈るのはただしくふさわしいことだろうか。自然の教えがあるではないか。長い髪は男には恥になり、女には栄光の美しさになるように感じさせられる。こう感じるのは、女には長い髪は自然によって備えられたおおいなのである。しかし、もしこのことについて議論をかまえたいならば、わたしたちと諸教会とは一般にこのきまりを大切なこととして保っていると言えるだけである。
ブルネラからパウロへ
すみませんが、これは神のしもべの言葉ではなく、タルソの老ユダヤ人の言っている言葉だと思います。納得できません。あなたにはまったく失望しました。
さようなら ブルネラ
もちろんブルネラの言っていることは正しいことであった。まさにパウロはタルソのユダヤ人として言っていることなのだ。パウロはこのオリエントの町で育ったが、そこでは、婦人たちは公の場でいつもベールをつけていた。中東の多くの所では今日に至るまでそうなのだが、ベールは婦人の尊厳と名誉のしるしである。ベールなしで公の場に出ることは、少なくても侮辱を招くことであり、売春婦と非難を招くことにもなりかねないのである。
パウロは時代の人であった。……………。パウロは最初のクリスチャンたちの中で多くの女性たちを深く尊敬していた。だからクリスチャンの集会で聖霊が女性をとらえたときに誰も黙らせる権利はないという彼の主張ははっきりと述べられている。彼はそういう女性預言者たちはベールをつけるべきだと思った。それは永年の風習を彼女が破ったがゆえに、集まった人びとが怒り出して彼女の言うことに耳を貸さないということがないようにするためであった。……………。
著者は、イギリスのメソジスト教会の牧師だが、まえがきのなかでこのように述べている。
キリスト教の牧師としては恐ろしい告白になるだろうが、比較的最近までのことであるが、わたしにとってパウロはその全部が魅力に乏しかった。いつ果てるとも思えない綿密な推論。現代には何の関連もないような割礼のような問題。明らかな自己顕示。非難癖。ただ救われるのは、時たま見えるすばらしく抒情的な美しい散文がぬかるみの山で見つけるダイヤモンドのように見えるときだけであった。
ここに、少なくとも何通かのパウロの初代教会宛ての書簡がある。だが、パウロが受け取った返書の記録というものはどこにもない。ただ、幾つかの書簡の中にはところどころの聖句でパウロに向けられた質問や非難を受けて書いたと思われるところはある。しかし、そういう質問や問題そのものは跡形もなく消滅している。…そこでわたしは、パウロ宛の手紙を幾つかこしらえてみた。
パウロの手紙は聖書にまつりあげられる前は、具体的な状況の中にある教会への手紙なのである。その時代のその教会の具体的な問題にふれたメッセージであった。だからこのように鋭くつっこまれることも多数あったに違いないのである。
著者はそこをイギリス人特有のユーモアを交え、さらに現代に当てはめて、時には現代を風刺する意味も込めてこの書を書いている。
ローマ帝国の支配下にあった人びとの政治的なことに対する質問や、奴隷からの手紙、割礼というユダヤ人の習慣についてなどなど、私たちもパウロに書きたくなるような返事をパウロに寄せていて、さすがのパウロのたじたじとなっている様子がよくわかる。
この本を出版したヨルダン社はバークレイの聖書注解などを出版したユニークな出版社であるが、今はもう倒産して存在しないので、古書を探すしかないのが悲しい。