わたしは、最後の1年を除き、ずっと高校生のクラスを担当してきた。最後の1年は、開講したが生徒が集まらず不成立となってしまった。悲しかった。わたしが「潮時」を感じた理由の一つでもあった。
学年が上がるごとに、参加者、出席者が減っていき、しかも全体的にも参加者が減少傾向にあるというのは実は深刻な問題である。
わたしにとって、この時間は学校の時間の中でとても楽しみにしている時間であり、また好きな時間でもあった。
この「宗研」の時間をどういうふうにやってきたのか、ちょっと紹介してみよう。
もっとも、わたしがこのやり方に固執してきたのが、参加者の減少、ついには参加者ゼロとなって不成立になった理由だという厳しい見方もあるのだが…………。
まず「瞑想」の時間から入った。「瞑想」については前にも書いたので、そちらを参照してほしい。その1週間をふり返る「瞑想」が多かった。
つぎに、参加者一人一人に「最近、心を動かしたこと」というテーマで発表してもらう。「3分間生活報告」とか呼んでいたこともあった。
つまり、最近感動したこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、怒ったことなどを短く報告してもらうのである。これは一般的には「分かち合い」とも呼ばれているが、わたしはこの言葉を使わずに「分かち合い」をする。
生徒が発表したあとに、わたしも報告する。
生徒たちが何を感じ、何を考えているのかを理解し、またわたしが感じていることを理解してもらうのにはもっともいい時間である。
はじめは一言で終わってしまうことが多いのだが、繰り返すごとにぽつりぽつりと語り出す。
「わかちあい」であるので、生徒の述べたことを批判したり、説教や忠告をしたり、解説してはならない。ただ、短い相づちを打ちながら、聞いているだけである。教員は実はこれが苦手である。すぐに解説・忠告をしたがるのだ。
ときには、一人の述べたことに生徒みんなが共鳴して話が盛り上がることもある。そういうときはそれだけで時間となってしまう。それもまたいい。
ある生徒がこんなことを言ってくれたことがある。「はじめはこの部屋に来て瞑想をしているときに、『なにがあったっけ?』と思い出していた。
つぎに、この部屋に来る途中で階段を上りながら考えた。
さらに、学校に来るバスに乗りながら、今日の宗研で何を報告するかを考えた。
そして『明日は宗研だ。何か報告しなくちゃ』と寝る前に考えるようになった。
ついには、何か感動したことがあったそのときに『そうだ! 今度の宗研でこれを報告しよう』と思うようになった。」
わたしは、これに対してこう付け加えた。
「できたら、この次までにこれをやってその結果を報告しようというのができたら最高だ」と。
つまり、「わかちあい」をくりかえすことによって「わかちあい」が生活の場と時間にだんだんと近くなっていくことであり、さらに「分かち合いが生き方を変えていく」ことに発展していくのである。「分かち合いの進化」である。
生徒とわたしの報告が終わると、その日のために私が用意したテーマにはいる。それは時に聖書の話であり、詩を読んだり、文章を読んだり、短いビデオを見たりして、それを読んだり見たりして感じたこと考えたことを話し合う。
最後に、B6版の用紙を渡して、そこにこの宗研で感じたこと考えたことを記録してもらう。もちろん私も書く。
1年の最後の「宗研」が終わったら、その記録用紙を生徒ごとにまとめ表紙をつけて製本し、生徒に返す。このときにかつて製本工であったわたしの技術が役立つのである。よく出席した人は本が厚くなり、少なく参加した人には出席の数に比例して薄くなっていくのである。
実は、学校にはこのように「生徒と教員が対等にわかちあう」という時間がまったくと言っていいほどないのである。生徒と教員という身分と役割の違う間では難しいのかもしれないが、実はそれを乗り越えてする価値があるとわたしは思う。
わたしがこの「宗研」の時間を好きになった理由がわかっていただけたであろうか。
書いてアップしてから気づいたのだが、この「宗研」については以前書いたことがあった。