ニコラ・テスラはエジソンと並ぶ大発明家であるが、エジソンほどには名前が知られていない。
この人の生涯を見ると、平賀源内を思い出す。
テスラは1856年ハンガリー王国(現在のクロアチア)の生まれ。プラハ大学を卒業後、アメリカに渡り、エジソンの電灯会社に就職するが、エジソンと対立、会社を辞める。
エジソンが直流による電気システムを考えていたのに対し、テスラは交流電気システムを主張したのが原因である。
この対立はのちに「電気戦争」といわれる。
直流システム」を主張したエジソンは、たとえば死刑執行の時に用いる「電気いす」が交流によるものだなどと述べて「交流」の危険性を指摘する。
それに対してテスラは、自分の体を通電体として利用してその安全性を証明しようとしたと伝えられている。
この論争は結局はテスラの理論の正しさが証明されることになり、現在は「交流」による発電、送電、あるいはモーターが使用されている。
1901年には、巨大な無線送電塔を築き、大西洋をはさんで無線で電気を送る実験をしようとするが、これは挫折している。
テスラは、このほかにも、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明を行う。
1915年には、エジソンとともに「ノーベル物理学賞」候補になるが、テスラは受賞しなかった。
またエジソンの名言「天才は1%のひらめきと99%の努力」を皮肉って、「天才とは、99%の努力を無にする、1%のひらめきのことである」(「天才とは、1%の直観と99%の徒労である」とも訳せる)と述べたといわれる。
1947年、ニューヨークのホテルでさびしく死去するが、彼の発明に関する書類は、アメリカ軍とFBIに没収されたとも、ユーゴスラビアを経て旧ソ連の手に渡ったともといわれている。
「交流」を生み出したテスラは、エジソンも及ばないほどの天才的発想力の持ち主として敬服するのである。
川崎市にある「電気の史料館」の電気の歴史コーナーに、ニコラ・テスラの銅像が設置されているという。今度見学に行くことにしよう。