2008年06月10日

女と男の「意地」くらべ

 6月7日の「余録」によると「意地」という言葉は、もともとは仏教語で「人間の意識のはたらきを一切のものを生み出す大地にたとえたサンスクリット語の翻訳」だったという。

 そこで「広辞苑」
い‐じ【意地】‥ヂ
1.こころ。気だて。心根。「―が悪い」
2.自分の思うことを通そうとする心。「―を張る」「―を通す」
3.物欲。食欲。「―がきたない」
4.連歌論で、作句上の心のはたらき。連理秘抄「骨こつのある人は、―によりて句がらの面白き也」

 このことば、現在では「意地悪」「意地汚い」「意地っ張り」「片意地を張る」「意地を通す」など「心の偏り」を示してあまりいい意味では使われない。昔は「意地がいい」という使われ方もしたようであるが………。

 似たような言葉に「意気地」がある。
 「人生劇場」といううたにこんなセリフがあった。
 人生劇場 - 村田英雄
作詩:佐藤惣之助 作曲:古賀政男

やると思えば どこまでやるさ
それが男の 意気地じゃないか
義理がすたれば この世は闇だ
なまじとめるな 夜の雨

あんな女に 未練はないが
なぜか涙が 流れてならぬ
男ごころは 男でなけりゃ
解るものかと あきらめた

時世時節(ときよじせつ)は 変ろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界

 この「意気地」はほとんど「意地」と同じ意味である。もっとも正式の唄のセリフは「意気地」ではなく「魂」であったかもしれない。
 「広辞苑」には
いき‐じ【意気地】‥ヂ
事を貫徹しようとする気力。他にはりあって、自分の思うことを立て通そうとする気性。いじ。いくじ。いきはり。

 ところが、この漢字を「いくじ」と読むと「意気地なし」という使われ方をする。これは「意気地」がたりないことをいう。

 私はこの「意地」という言葉が嫌いではない。
「意地でもやり通す」「(おとこの)意地にかけても」断固としてやり抜くという気迫が感じられる。
 ただ、この言葉が「男」と結びついてしまうところが問題であると書こうとしたら, 「女の意地」という唄を思い出した。西田佐知子の唄だったと思う。
女の意地(昭和40年)
作詞:鈴木道明  
作曲:鈴木道明  
 
こんなに別れが苦しいものなら
二度と恋などしたくはないわ
忘れられないあのひとだけど
別れにゃならない女の意地なの

二度と逢うまい別れた人に
逢えば未練の泪をさそう
夜風つめたくまぶたにしみて
女心ははかなく哀しい

想い出すまい別れた人を
女心は頼りないのよ
涙こらえて夜空を仰げば
またたく星がにじんでこぼれた


 そういえば「意固地(依怙地)」という言葉もあった。これも同じような意味だった。
いこ‐じ【意固地・依怙地】‥ヂ
かたくなに意地を張ること。えこじ。「年を取って―になる」「―な態度」


 「いじ」「いきじ」「いくじ」「いこじ」みな同じ意味なのに、違うのはなぜだろうか?

  


 

posted by mrgoodnews at 21:42| Comment(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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