
クラークをアメリカから招聘したのは北海道開発庁間だった黒田清隆でした。クラークはその条件として「聖書を教える」ことを黒田に認めさせます。国立大学では宗教教育はできなかったのですが、クラークは堂々とそれをするのです。そのクラークのもたらしたキリスト教精神は1期生の中に根付き、その先輩からの強い影響で新渡戸も内村も洗礼を受けてクリスチャンになるのです。
農学校を卒業した新渡戸は1883年東京大学に入学します。その面接の時に新渡戸は有名な言葉を熱っぽく語りました。
「願わくはわれ太平洋の架け橋とならん」
ただ外国の学問や文化を導入するだけにとどまらずに、日本の文化や伝統を外国に紹介するという使命をこのときから自覚していたわけです。この言葉は新渡戸の生涯をつらぬく生き方となりました。
1884年新渡戸は私費でアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学します。
内村もアメリカに留学していました。アメリカに留学した二人は、しかしクラークとアメリカに失望します。クラークは日本にいた1年足らずが教育者としてもっとも輝いていたときで、アメリカに帰ったクラークは実業に失敗してみる影もなく落ちぶれていました。クラークが語っていたキリスト教の国アメリカは、人種差別の国でした。
そのかわりに彼らは目覚めたのです。「大和魂」や「武士道」などの日本精神に。彼らはその日本精神をアメリカに伝えようとします。1900年に新渡戸は「武士道(Bushidou)」をアメリカで出版し、これはベストセラーになっていろいろな国の言葉に翻訳されます。

札幌時代にメリー夫人とともに力を注いだことは、遠友夜学校の創立でした。これは1894年に設立した貧しい子供や勤労青年が無料で学べる学校でした。
遠友夜学校では「リンカーンに学べ」を校是に札幌農学校(現・北海道大学)の学生が無報酬で講師をつとめ、1944年まで数千人が学びました。メリー夫人が受け取った遺産がその運営資金にあてられたといわれています。
1901年台湾総督府民政部殖産課長として、台湾の殖産興業に尽力します。特に製糖産業の基礎を築いたといわれます。彼は単なる学問の徒ではなく、実践の人でもありました。
1903年には京都帝国大学教授、1906年には第一高等学校長に就任、東京帝国大学教授も兼任します。
1918年には東京女子大学の初代学長になります。

彼が国際連盟を去ってから、日本は急速に軍国主義の道を歩むことになります。
彼の晩年は「憂国と愛国の間で」苦悩の連続でした。このころについてはここに詳しく書かれています。このことについてはいずれまた書きたいと思います。
1933年、第5回太平洋会議に出席するためにカナダのヴィクトリア市にて客死します。71歳でした。