FARC というのは Food Addiction Recovery Center、つまり摂食障害の人たちの自助更正の集まりである。前に教会にアルコール依存、薬物依存やギャンブル依存症の人たちが話しに来たことがある。いずれもすさまじい体験である。それらの話を聞いてaddiction(依存症)といわれる人たちの更正運動にある共通の「福音的な原理」があることに気がついた。
FARC の人はこんなことを言っていた。
アルコール依存も薬物依存もギャンブル依存もそこから立ち直るためにしなければならないことははっきりしている。アルコールや薬物を断てばいいのだから。もちろんそのためにどのくらい苦しまねばならないか、それがどのくらいたいへんなことかはよくわかる。
でも摂食障害はそれができない、人は食べなければ生きていけないのだから。アルコールも薬物もギャンブルも、それがなくても生きていくことはできるが、食べるのだけはそうはいかないのだ。そこに摂食障害(特に過食症)の独特の苦しみがある。だからなんどもなんどもスリップする。絶望の連続だったという。
それがあるとき、ほんのちょっとしたきっかけで、こうしたらこの地獄のような苦しみからすこし救われるのではないかというのに気がついたことがある。
それは同じ悩みを持つ女性の話を聞き、その女性を助けようと一緒に生活をするようになったときであった。自分がスリップしたらその女性もダメになってしまう。その女性がスリップしたら自分もダメになってしまう。そういう関係になったときに、これならひょっとして自分もその人も救われるのではないか。
人を救うことによってはじめて自分も救われる。人を救わなければ自分も救われない。ひとりでは自らを救うことはできないのである。
わたしは、この原理こそもっとも「福音的な原理」であると思った。
アルコール依存症には AA(Archoholic Anonymous)という自助更正運動があり、薬物依存には DARC がある。摂食障害者にもこれが必要なのだ。彼女はこう思いたって、FARC をたちあげたという。
AA も DARC も同じだと思うが、これらを推進している人たちは、完全にその依存症から更正した人ではない。そのミーティングにいくことによって、かろうじてその日酒を飲まずにすごせたひとなのである。一人になってしまうとすぐに酒を飲んでしまう。だから AA のひとたちは今日はどこ、あすはどことミーティングを渡り歩く。
さらに同じ苦しみを持っている人をそのミーティングに誘う。自分がスリップするとその人もスリップしてしまう関係をつくることになる。他人を救うことによってかろうじて自分も救われるというあの「福音的な原理」がここにもある。
まえに「アリがなぜ繁栄しているのか」という理由について書いたことがある。
アリは社会胃と個体胃を持っていて、社会胃にもっている食べ物を他のアリに分け与えることによって自分の個体胃に食べ物がいくようになっている。つまり他のアリにわけ与えることによって自分も与えられる。この生活原理をもっていることがアリを繁栄させているのである。
これも福音的な原理ではないか。
これも前に書いたことである。
バークレーという聖書学者が「希望と信頼に生きるバークレーン一日一章」という本の中で紹介していたことである。
「自分の重荷を軽くするもっともいい方法は他人の重荷を背負ってやることである。」
これも似たような福音的な原理ではないか。
宮澤賢治はこんなことを言っている。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない(農民芸術概論綱要より)」
フランシスコの「平和の祈り」のなかの「与えることによって与えられ、ゆるすことによってゆるされ、死ぬことによって永遠に生きることができる」というのもまったくこの「福音的な原理」そのものだと思う。
人間の社会の中に(もちろん国境を越えてグローバルな意味で)こういう「福音的な原理」を組み込むことによっておそらく人類は救われるようになるのだと思う。
自分だけが、あるいは自分の家族だけが、あるいは自分の国だけが、さらには今生きている人間だけが、そして人間だけが救われればそれでよいという限り、この地球に救いはないのではないか。
自分だけが、あるいは自分の家族だけが、あるいは自分の国だけが、さらには今生きている人間だけが、そして人間だけが救われればそれでよいという限り、この地球に救いはないのではないか。
創造主は、ご自分で何もかも成し遂げられることを望まれず、取るに足りない小さな手と足と心が寄り集まって、神の国が築かれていくのを望まれているんですね!