2008年10月08日

蒲生氏郷が伊勢松坂、会津若松、福島を命名した

 戦国時代の武将蒲生氏郷は、自分の任地の行く先々でおめでたい名前を地名につけたという。

 かれは近江の国蒲生郡日野の生まれ、幼少時に人質として岐阜で過ごしたときに、信長にその才知を認められ、信長の娘の冬姫を妻に迎える。
 信長が本能寺で急死したあとに安土にいた信長の妻子を日野城にかくまい、光秀に対抗した。
 秀吉はその後氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えると、かれは新しい城を造り、そこを「松坂」と命名した。
 さらにかれは秀吉の奥州仕置により、陸奥会津に移封され、42万石を与えられる。このとき、この地は黒川と呼ばれていたが、ここを「若松」と命名した。そして城は氏郷の幼名鶴千代にちなみ「鶴ヶ島城」と呼ぶようにした。
 また伝えられるところによれば当時杉妻と呼ばれていた地を「福島」と変えたのも氏郷であるという。

 町作りは、町名をおめでたい新しい名前に変えるところからはじめたわけである。そして移封するたびにかれは商人を引き連れていき、商業を盛んにすることをこころがけた。
 三越の創業者であった三井家はもともと日野の商人で氏郷に引き連れられて松坂に移ったという。でも三井家は会津には移らなかった。
 ちなみに伊勢松坂は、本居宣長の出身地で宣長が賀茂真淵と出会ったところとして歴史に登場する。

 ちなみに氏郷はキリシタン大名高山右近の影響で彼自身もキリシタンとなり、レオンという洗礼名を持っていて、たびたびローマ教皇に手紙を送ったらしい。
 ただキリシタン大名としての足跡は会津には残っていない。
 1595年40歳で没。

 氏郷の死後家内不穏とのことで宇都宮に移封され、会津若松には上杉景勝が入ることになる。
 たしかNHKの来年の大河ドラマは上杉景勝と知将直江兼続の話だったと思う。

 諸大名からの人望も厚く、家臣を大事にして、商業を盛んにして町づくりを行うなど、経営的センスも持ち合わせていたとともに、千利休の弟子として「風流の利発人」であり、和歌も詠んだ。

 思ひきや人の行方ぞ定めなき
   我が故郷をよそに見んとは

 限りあれば吹かねど花は散るものを 
   心短き春の山風
 
 
posted by mrgoodnews at 01:20| Comment(3) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
時々覘かせてもらっています。話題が豊富で次は何の話かと、楽しみにしています。聖書の話。植物の話。歴史の話。科学の、実験の話。家族の話。町の話……。どの話題もとても興味深いです。今のところ月2回くらい開けています。
今日の部分では、氏郷の没年がおかしいように思います。
またゆっくりメールします。
Posted by Kazuhiko Iiduka at 2008年10月08日 18:13
Kazuhiro Iiduka 様
ご無沙汰しております。ご愛読いただきありがとうございます。
氏郷の没年は1595年でした。
さっそく訂正しておきます。
ご指摘ありがとうございました。
より福音的に興味深く更新していきたいと思っています。
またお越しください。
Posted by mrgoodnews at 2008年10月08日 23:08
ブログ拝見しました。多岐のテーマにびっくり。数字関連のブログは興味大です。
自分ブロのを見たら1年前から休刊、理由は?ですが。
Posted by nobuo watanabe at 2008年10月08日 23:20
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