その名前は知らなくても、長崎に「ドロそうめん」という特産物があるのはご存知かもしれません。「泥でできたそうめん?」という意外なネーミングは案外記憶に残るからです。このそうめんは地元で「ドロさま」と慕われた明治期のフランス人宣教師が開発したものなのです。
図書館で「ド・ロ神父と出津の娘たち」(岩崎京子 田代三善絵 旺文社刊 1985年)という本を見つけて読みました。なかなかおもしろ本でした。この本をぜひ手に入れたくなって探してみたのですが、悲しいことに 絶版で「入手不可」でした。
著者の岩崎京子さんという方には「東海道鶴見村 偕成社, 1977」「鶴見十二景 偕成社, 1979」という本もあります。鶴見の方みたいです。
さてド・ロ神父さんですが、この本に次のような紹介が載っていました。
明治12年早春。長崎県外海の出津という村にフランス人のド・ロ神父がやってきた。神父は、貧しい村の人びとのために、農業や医療や教育その他さまざまな面で献身的な奉仕活動をし、多くのすぐれた業績を残した。
この物語は、ド・ロ神父とその協力者、出津の娘たちの愛と人生を描いた歴史小説。
Wikipedia にはこんな紹介が載っています。
マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz, 1840年 - 1914年)は、現長崎県長崎市西出津町(にししつまち、旧 長崎県西彼杵郡外海町)において、布教活動や貧困に苦しむ人達のための社会福祉活動に尽力したパリ外国宣教会所属のフランス人司祭である。
彼が行った社会福祉事業に関連する遺跡は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定一覧表へ登録された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の1つとなっている。
この物語を読んで驚きと感動をもったことがいくつかある。
まず、ド・ロ神父の多彩な能力である。キリスト教の宣教師としての能力だけでなく、実に多くのことを手がけた。建築、農業、漁業、織物、医療、福祉、工業、教育など、現在でいうならば「町おこし」事業を明治期に行っている「万能人」なのである。
教会の建築をおこなった。
印刷機を導入して石版印刷術を広めた。
パン、マカロニ。ソーメンの製造をはじめた。
それらの特産物を売り歩く行商隊をつくった。
機織り機を導入した。
イワシ網すき工場を造った。
原野を開墾した。
水車による製粉工場を造った。
防波堤を築いた。
赤痢や腸チフスが流行したときに救護隊を組織し、薬局をつくった。
県道を改修し、その工事に地元の労働者を雇った。
共同墓地をつくった。
お茶の農園をつくった。
身よりのない子どもたちを集めて保育施設をつくった。
などなど彼のなしたことは枚挙にいとまがないくらいである。
それらの事業を行うにあたって、村の若者特に娘たちを集め、授産所をつくった。これは「女部屋」と呼ばれ、のちに「お告げのマリア修道女会」となる。この娘たちが農業や機織り、医療、教育に活躍するのである。この本はその娘たちの活躍ぶりを描いた本である。
これらのド・ロ神父の活動を支えていたものは、その出身地からの援助であった。彼は豊かなフランスの貴族の出身であったのであるが、彼の家はド・ロ神父の活動を支えるのに財産をほとんど使い果たしたといわれる。
この本にはこんなことも書かれている。
最初は孤児や「捨て子」を育てることからはじまった。赤ん坊はどんどん増えていった。何人か子守をやとって「乳児院」をしようということになったが、設備もないので、赤ん坊は浦上に預けることにして、出津には保育所ができることとなった。「子部屋」である。
少年組、少女組、それは10歳前後の子でそれ以下は幼年組に分けた。子部屋の方も増えに増え、後には200人にもなってしまった。
少年組は「コツン組」物覚えの悪いことをこの辺の人は「こつんなか」というがド・ロ神父の耳には「コツン」が印象に残ったのであろう。神父は「コツン組」と名付けた。
少女組は「ペタ組」ペタは仕事ののろいことで、たぶん少女組の保母は二言目には「ペタ、ペタ」といったに違いない。
幼年組は「チンポロ組」これは小さいという意味である。すべて神父一流のしゃれであった。
子部屋の時間わりはだいたい決まっていた。朝、親とか兄弟が連れてくるのを受け取る。
整列
唱歌
おはなし
よみかき そろばん
戸外の遊び
そして夕刻帰宅させた。
「おはなし」の時間はド・ロ神父がした。
いちばん子どもたちが喜ぶ話は。ド・ロ神父の小さいころのことだった。………神父のいたずらばなしはきりがなかった。…………みんなの目の前にはちいさなかわいいマルコが目をりんとはって、がんばっている姿が見えた。
その後の戸外の遊びにも、ド・ロ神父はひっぱりだこ。それは神父が子どもを楽しませるくふうが上手だったからである。
ある朝、子どもたちが子部屋に来てみると、庭の大クスノキの張り出した枝にいすの脚のないようなものが綱でさがっていた。ちゃんと背もたれもついていた。
「これ、ブランコ、いいます」
フランスの学校や幼稚園の庭には必ずあって、体育にとてもいいからとパーテルさまがつけたものだ。
こどもたちは順番に座って、前後に揺する。ぐーんと空に近づいたり、海が遠くなったりして子どもたちは大喜びであった。
エッシンヨイサコマヨイサ
来いときゃ
クジラば つんでこい
行くときゃ
イモばつんでいけ
ド・ロ神父は実に多面的な技術と知識においてたぐいまれなる能力を持っていたが、それよりももっともみごとだったことは、人を活かすことだったとこの本を読んでいて思う。
ド・ロ神父に限らず、外国から日本に来た宣教師たちは実に多彩な能力と豊かな個性の持ち主が多い。これらの能力はもともと持っていたというよりも宣教地の必要性が生み出したと私は思うのである。
「神から与えられたミッションをはたすために、神は必ず必要な能力を授けてくださる」宣教師たちはみなそう信じて派遣されたのであろう。
POTES QUIA DEBES (You can because you ought) という言葉を思い出す。