2008年12月05日

キリシタン武将黒田如水のこと

 以前紹介した「風渡る」(葉室麟著 講談社刊)は黒田如水と修道者ジョアンを主人公にした歴史物語ですが、そこに黒田如水についてこんなことが書かれていました。

 官兵衛は、いと(清原マリア 細川ガラシアの小侍従)の言葉に応じて策をめぐらすことに不思議なたかぶりを覚えた。そして小西隆佐(小西行長の父 キリシタン 堺の商人)からジョスエ(旧約聖書のモーゼの後継者ヨシュア)についてきかされたことを思いだした。ジョスエは指導者を失った民を率いて難関を越え、地上の楽園を目指したという。
 官兵衛は、自分はジョスエになれるだろうか、と自問した。ジョスエが難攻不落の城塞を落としたように、豊臣という巨城を落とせるだろうか。
(知恵を絞ればできぬことはあるまい)
 官兵衛の胸に不敵な思いが浮かんだ。それとともにこれからは如水という号を使おうと思いついた。
(水の如く自在に生きよう)
という意味である。だがもうひとつの意味があった。
 後に官兵衛はローマ字で
 Josui Simeon
と刻んだ印刻を用いるようになる。如水、シメオンである。語尾が一字違うがポルトガル語で Josue はジョスエすなわちヨシュアのことだ。
 ヨシュアとして戦うことを官兵衛は選んだのだった。



如水 秀吉の軍師として生きた官兵衛がどこまでキリシタン武将として信仰の道を守り続けたかはこの小説には書かれていない。
 しかし「如水」が旧約のヨシュアを意味していたということにちょっとした驚きとともに感動を覚えたのである。
posted by mrgoodnews at 12:16| Comment(0) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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