金綱次兵衛神父は1600年頃大村に生まれる。6歳(!)のとき有馬のセミナリオに入学、その後イエズス会の少年同宿(志願者)となった。1614年宣教師の国外追放の時に原マルチノやペトロ岐部らとともにマカオに追放。
司祭を志しマカオで学んだが、日本人学生に対する偏見と資金難のためにマカオのセミナリオは閉鎖。ペトロ岐部たち3人はローマを目指して旅立つが、かれは日本に戻り、伝道師として信徒の世話にあたった。しかし、司祭への志しはやみがたく再びマニラに行き、アウグスチノ会に入会、1628年セブ島で司祭になった。
そして1630年日本に上陸。昼は長崎奉行所の馬丁になりすまし、投獄された宣教師や信徒を訪ねては励まし、夜は隠れ家でゆるしの恵みを与え、ミサをささげた。
長崎奉行所は金鍔神父をとらえようと、必死になって捜索するが、彼はあるときは江戸に出現し、将軍家光のおひざもとである小姓たちに教えを説いたりもする。
しかしついに1636年11月1日、長崎の片淵でとらえられ、長崎の西坂で、1637年11月6日過酷なる拷問のすえ、穴吊りの刑によって殉教した。
この写真は長崎西坂の26聖人記念館中庭にある金鍔神父の像である。かれは金の鍔のついた刀を常に所持していたという。もっともかれは金鍔という地名の出身であったがゆえにこの名前を持っていたのであるが、この金の鍔の刀はまさに彼のトレードマークだったということなのか。
次兵衛岩は外海山中の隠れ家の一つである。
私たちは今回の巡礼地の一つとしてその「次兵衛岩」を訪れた。車から降りて、1本の竹の杖と、荒縄2本が渡された。くつを荒縄で縛って、沢ぞいに登ること1時間半。こけが生えた岩はすべりやすく、荒縄はとても役立った。沢を離れてがけを登っていくとその「次兵衛岩」はあった。
そこには人一人がやっとくぐって入れるような洞窟がある。金鍔神父がここで祈りを捧げ、ミサをあげ、そして生活していたのだと思うと、そこには今でも祈りの「霊」がこもっているような場所であった。
隠れ家はもうひとつ長崎の戸町というところにも発見されている。
彼はこれらの山中のいくつかの隠れ家をてんてんとして山野を駆けめぐっていたのであろう。