
金鍔次兵衛神父がマニラにいて日本に潜入する前に書かれたもので、その文面には日本に戻りたいという執念がこめられている。
以下に書いた手紙は、必ず日本国から届く事を固く信じています。
われらの会祖の聖アウグスティヌスの全隠遁者修道会の、最も注意深い牧会者であり、われらの最も尊敬する、父である総長様に、絶えざる恵みを《私は祈ります》
最も尊敬する総長様、私は、最初に、少し《物事を》理解し始めた頃[・・・その頃は平和な良い時代でした・・・]、世間とは異なる考えを持ち始めた頃から、常に、徳の装飾よりも、徳そのものを得ることの方が、はるかに優れており、そして、より一層希求すべきことと、考えて来ました。
それゆえに、私は、両親が嫌がるにも関わらず、人文学の勉強のために、自分の意志で神学校へ進みました。それは、日本の国が、キリスト教的平和を享受していた間、イエズス会が司教の権威により経営していた、本当にすべての徳の神学校でした。
そしてそこで、哲学と神学の中で、私の少年期と青春期の全てを鍛練しました。
しかし、数年後に、すさまじい迫害の嵐が起きました。その嵐は、荒廃した日本から、様々な修道会を追い出し、(このようなことを語る時に、誰が涙を流さずにおられましょうか)礼拝堂を破壊し、全ての聖器と全ての聖物を冒とくの手で汚しました。
学校の多彩な生徒は三分され、世界の異なった地方へと旅立って行きました。ある者たちは、活動を継続するために、背嚢一つ背負う旅姿で、日本全国に散って行きました。それはキリスト信者の集会に粉骨砕身するためでした。他の者たちは、フィリピン諸島に追放されてしまいました。
私はと言えば、残りの者と一緒に、日本の海の、実に広大な海面を、ジグザグに帆走して、マカオ島に上陸しました。そこの城砦都市は、島と同じ名前が付けられていて、土地が豊かなだけでなく、中国商品も豊かでした。何故ならば、ポルトガルの商人によって少なからず《交易が》自由だからです。
ここでは、私たち学生にとって、目新しいものばかりでした。だから《一層のこと》、私たち学生は、かの地の神父たちの承認を得て、人文学の勉強と、さらに信心と業の最高の実践をもって、《自己本来の姿を》回復《確立》しようと、決意をどんなに新たにした事でしょうか。
さて五年後、私は同修道会の神父たちの協議に基づき、日本に帰国しました。要理を教えることに、キリシタンの至上の歓喜にあふれて、−−そのキリストの葡萄畑では、今なお、このやりかたを行うことが許されているのです−−そして、私は大きな辛苦をしのぎ、集会をし、《教理を》説明しました。そして、生命の危険を冒しながら、《霊的な葡萄の実を》産み出しました。
すなわち、昼間は隠れ家や洞窟に、【転々と場所を変えながら、】身を潜め、(キリシタンに対する迫害者の激怒は、決して和らぐことはありませんでしたので) 夜になると、キリスト教信仰の反対者との戦いを雄々しく始め、全力を尽くし、しかも、慎重に【その求道者を】教育しなければなりませんでした。
最も尊敬する総長様、これらをしている間に、私は強く感じました。ある熱烈な望みが、あたかも神の霊感によって、私の内に燃え立つのを。 それは【その望みは】、《現在従事している任務を》より完全に行うために、修道士の服を着て修道士となるという事でした。そして、【その望みは】《さらに》私を熱烈に駆り立てて行くのでした。このような事情で、【何もかも】そのままにして、私はこのフィリピン諸島に渡航しました。そして、誰をも見捨てない神の恵みにより、このアウグスティノ修道会で、私は選択したことに関して、望みを達成しました。
しかし、ここで、私は祖国に帰る希望なく時を過ごして、もう十年近くの歳月が流れました。尊敬する総長様。率直に述べる事にします。それ【帰国の希望が持てないの】は、この管区の神父たちの、ひどい生温さと大きな怠慢のためです。彼らは日本の迫害の噂を怖がっていました。《そのため》修道者が日本へ渡航をすることを申し出ても、誰一人も許されていません。
実際、迫害の力は更新された【一層激しくなった】ので、非常に大切にされて【それまでに】残存していた、神聖な神殿は、残らず毀損されてしまいました。迫害者は、すべての日本人に対して、この《フィリピン》諸島の住民との、修好同盟の契約の締結や、商取引や航行を、禁制にすることが出来たのです。
尊敬する総長様。しかし、何故、福音を伝えるために日本へ行くことが、ドミニコ会会員やフランシスコ会会員そしてイエズス会会員には許されていて、独り私たちアウグスティノ会にだけ、許されていないのか、私には分りません。彼らは 毎年日本に上陸して、喜ばしい布教の最も豊かな収穫を得ているのです。
しかも、彼ら【日本に上陸した神父たち】は自分のものをではなく、神に属するものを探し求めているのです。反対に、私たちは、財宝を求め、(私はこの管区の神父たちについて話しているのですが)労苦を拒み、私たちの修道会の名誉を軽んじています。
しかし、良いすべてのことは神から出ていること、そのことに頷[うなず]きながら、すべては神の摂理により治められていることを、私達はしっかりと理解します。そしてまた、これらの事【=日本への潜入宣教】も神の御旨なしにはなく、少なくとも、《神の》許しにより行われることを、私は自分に言い聞かせています。
そこで、私は最も尊敬する総長閣下に、ローマに行く許可を私にお与え下さいますよう、謙虚にお願い申し上げます。なぜなら、もしそこで、神聖な教皇様の御足と、総長様の御手に接吻することが出来るなら、私は自分が十二分に《この世に》生きたと思うでしょうし、仮に私がこの人間界から消え去ろうとも、私の喜びは溢れるに違いないからです。
更に、私には最も尊敬する総長様と、私たち日本管区の、宣教が行われている事情および状況について、《話すべきことが》たくさんあります。それ【日本管区】は、《迫害当時の》ローマと大変よく似ています。【そのローマは】多数の神聖な殉教者の証明により、最も豊かな輝かしい栄光へ高められ、そしてその聖なる民と選ばれた民族の故に、司祭的で王者にふさわしい都と呼ばれ、使徒ペトロの聖座によって、世界の頭となり、地上の支配力と言うよりはむしろ神的な教化事業によって、広く治めています。
その上、尊敬する総長様と御一緒に語る沢山の事柄、それらはただ単にこの【日本】管区と日本の教会の益と保護に役立つだけでなく、私たちの修道会全体の名誉と栄誉にもなるのです。
その上、私がローマ市の聖地を見ることは、日本で【基本的・信仰的な】教理を教える時だけでなく、【体験的具体的な】説教をする時にも、大きな助けになります。それは、多くのイエズス会員の例が示すように明白であります。
私は、尊敬する総長様に謙[へりくだ]ってその許可をお願いします。そして、その許可を、あなたが好意を持って私に与えて下さるであろうことを、私は主にあって、固く信じています。
ここ【フィリピン】にいる間は、私はその許可の命令の期待を楽しむでしょう。当然のことながら、尊敬する総長様が、私たちの修道会全体の光栄と名誉のために、いつまでも無事・無傷でおられることが許されますようにと、私は主に祈ることを決して止めません。さようなら。
西暦1630年8月2日、マニラ発。
総長様の、最も小さい僕であり卑しい子供、
修道士 トマス・デ・サン・アウグスティノ、日本人
この「修道士 トマス・デ・サン・アウグスティノ、日本人」が金鍔次兵衛神父と同一人物であることが発見されたのは1926年宗教学者姉崎正治氏によってのことだそうである。
コメントをありがとうございます。あなたに読まれたことをとても嬉しく思います。
これを書いたあとに、わたしは「魔法のバテレン」という本を読み直しました。これは前にも紹介したとおり、詩人松永伍一氏によって子ども向けにかかれた金鍔次兵衛神父の伝記です。
そのなかにもこの手紙のことが紹介されておりました。
それによると、彼はマニラでペトロ岐部神父と会い、ともに日本に帰って宣教することを誓い合います。ペトロ岐部はルパング島から漁船を買い取ってこれで日本に潜入することに成功するのですが。次兵衛神父にはマニラのアウグスチノ修道会管区長の許可が出なかった。それで日本に潜入することの許可を求めるために直接ローマの総長に手紙を書いて直訴したのです。
結局この手紙の返事が来なかったのだが、かれは長崎に行く中国船に乗り込んで日本に潜入することに成功します。
この手紙に表現されている「激しさ」は日本に帰ろうとしても帰ることがゆるされない悔しさによっているのですね。
この「魔法のバテレン」を読んでますます金鍔次兵衛のこの手紙の激しさに心を打たれます。