フランスの作家アンドレ・モロアの哲学の先生はアランだった。「幸福論」や「精神と情熱に関する81章」の著者で「神を信じるものも信じないものも」という「人民戦線によるレジスタンス」を呼びかけた人でもある。
ルアンのリセの教授であったアランはモロワの卒業試験として次のような問題を出した。
「いま、ここに人生に絶望した一人の女性がその運命をはかなみ、セーヌ川に身を投じようとしている。君はなんと言って彼女の自殺を思いとどまらせるか?」
たしかにこれは卒業試験にふさわしい哲学の「究極の問題」の一つであろう。
これに対する一つの答は、アメリカの「いのちの電話」が持っている。アメリカの電話には数字のほかにアルファベットがふってあって、FRIENDとダイヤルするとこの「いのちの電話」につながる。
ここにつなぐとボランティアの女性が受ける。
「どなた……」
返事がない。彼女はすぐにこう応える。
「いま、どこにいるの? ええ、××橋のたもと、どちら側? 私はペパン、ミセス・ペパンよ。すぐにそこへいくわ。15分位よ。待っててね。」
彼女はそこへいくと、すぐにそれとわかる女性が放心状態でたたずんでいる。
「ねえ、お茶でも飲まない」
二人は近くのレストランへ。
「おなかすいてるでしょう?」
温かいスープが運ばれてくる。おずおずと女がスープを口に運ぶ。
「どうしたの? どんな困ったことがあったの?」
静かにやさしく問いかける。女がスープを飲み終えると、ポツリ。ポツリと身の上話をはじめる。ボランティアは熱心にあいづちをうちながら耳を傾ける。サンドイッチとコーヒーが運ばれてくる。女の口は前より少しばかり軽くなる。そしてそれを食べ終えるころには彼女の顔には生色がさしはじめる。
「元気を出してね。私、何かお仕事の世話をするわ」
こういって別れるころには彼女はもう再起の決心はつけているのである。彼女は、自分の話を聞いてもらったことで悩みの大半は解消したのである。
この問の答として、この本ではもうひとつの例を紹介していた。チャップリンの「ライムライト」という映画の一場面である。
クレア・ブルームの扮する踊り子が、関節炎を患い絶望してガス自殺を図る。かつて盛名を誇り、今は落ちぶれた老喜劇俳優(チャップリン)が、それを見つけ、自分の部屋に運び込み、いろいろ手当てを加え、気を取り戻したところで、彼女の自殺の動機を親身になって聞いてやる。今や彼女にとって、彼はただひとり頼りになる人間である。何もかも話し終えて彼女の気分はすっかり落ち着く。するとチャップリンはここで彼の哲学を述べる。
「人生は、どんなにつらいことがあっても生きるに値する。そして、人が、この人生を生きていくためには3つのことが必要だ。希望という名の想像力と勇気、そしてサム・マネーだ」
とうのである。希望と勇気という抽象的なものと、サム・マネーのとりあわせにいかにもチャップリンらしい人生哲学がにじみ出ている。
このいずれの答えにも、先ず「聞くこと」がある。人の話をよく聞くことには、人を救う力があるというわけである。
実はわたしにもこの問いへの答がある、それはまた改めて紹介することにしよう。