2009年01月13日

村山等安とその一族の生き方と殉教


村山等安「長崎代官村山等安 その愛と受難」(小島幸枝著 聖母の騎士社聖母文庫 1989年)を読んだ。
 長崎のキリシタンにこういう人物がいたということを初めて知った。

 村山等安は、1566年ごろ尾張の清洲に生まれ、長崎に1587年頃から住みついた。もとは武士だったらしい。南蛮貿易で栄えたこの町に野望を抱いてやってきた。「諸国を徘徊し、気、万人にすぐれ、風流の道にも疎からず、貴賤の選びなく、その気において愛敬よろしき者」「その利根の才知は万人にすぐれ、当地の頭人たちから用いられ出入り絶えず、ことに南蛮菓子料理の上手」であったと記されている。
 朝鮮出兵のおりに名護屋にきていた秀吉にみごとなまでに取り入り、ついにはその後ろ盾で長崎代官になる。さらに等安は生糸、金、鉛、水銀の貿易にみごとな手腕を示し、あらゆる方面の人との人間関係を利用し、気宇壮大にして芸の細やかな口八丁手八丁の商人でもあった。
 等安は自分の商売に役立つからということで洗礼を受ける。洗礼名はアントニオであった。
 しかし、富と権力を手にした等安は女遊びに興じ身を持ち崩していく。彼と接していたイエズス会の神父は彼を見限り、罪の許しのための懺悔も聞いてもらえなかったという。
 ところが等安は奇跡的に回心する。そのきっかけは分からない。キリシタン必読の書であった「こんてむつすむん地」(「キリストにならいて(イミタチオクリステ)」)が彼に影響を与えたのではないかと著者は推測している。
 そんな彼に接近したのはドミニコ会のモラーレス神父であった。モラーレス神父は「ロザリオの組」を組織し、特に貧しい民衆のなかにキリシタンを増やしていった。等安の子どもたちはこの「ロザリオの組」の有力なメンバーとなる。等安はドミニコ会やフランシスコ会の宣教師たちに積極的な援助を惜しまなかった。
 1614年の大阪冬の陣において明石掃部や小西行長、高山右近の家臣だった多くのキリシタン浪人たちが大阪方に加勢した。このときに等安の息子でフランシスコ村山神父は従軍司祭として大阪城にこもり殺される。それをきっかけにして弾圧の波は等安に忍び寄っていく。


家系図 弾圧に抗すべく「ロザリオの組」に続き、「クルスの組」「ゼズスの組」が結成されていく。これらはドミニコ会系の信徒組織であった。イエズス会系は「ミゼリコルディア(慈悲)の組」「ご聖体の組」「聖母の組」フランシスコ会系では「コルドン(紐)の組」などがこのときまでに結成されている。信徒の組織も修道会系列となっていることに注意。しかし、この組織がじつは、いずれいなくなる外国人宣教師に変わって、200年余の潜伏時代を支えた信徒の共同体になるのである。

 1614年のイースター前後、組の者は「拷問や迫害があっても」「キリスト教の信仰を守り通す」決意を記した血判状に署名し、組ごとに責め縄、むち打ちの苦行をしつつ長崎市内の教会を巡り歩く巡礼(大デモンストレーション)を敢行する。等安はこの日の行列に非常に重い十字架を背負って参加したという。
 しかしそれもむなしくその年の10月には高山右近、内藤ジョアンらのキリシタン武将、原マルチノらの宣教師、イルマンやセミナリオの生徒たち148名が国外追放となる。
 村山等安は1515年秋には台湾へ御朱印船にのった遣明使として派遣される。長崎代官村山等安に捕縛処刑までの罪を見いだせなかった結果の一時的な国外追放である。
 後にキリシタンから改宗する町人末次平蔵は等安のライバルだった。この平蔵のたくらみにより等安は代官職を剥奪され、さらにはキリシタンとして宣教師をかくまったかどで長男の徳安とともに告訴される。

 1619年はじめに徳安が長崎で火あぶりになった。火あぶりの薪は「皮屋」と呼ばれる、差別され獣の皮をはぐ貧しい人々が調える慣行になっていた。処刑場用の付け火と薪その他の処刑小道具には「汚れ」の「社会意識」が古くから存在し、封建武士身分は直接手を触れぬようにしていたのだ。が「皮屋」はもともと徳安を慕っていた。役人が火付けの日を求めてきたときに、彼らは全戸ひだねを落としてしまった。
「火を貸せ、皮屋」
「あいにく消えとるとです」
「今すぐ起こせ」
「ごらんの通りの貧乏暮らし、付け木にもこと欠いちょりまする」
 役人は足で蹴り、ものを壊し、言葉で脅して威嚇したが誰一人協力するものはいない。
「どげんせらるっともなかものはなかとです」
 役人はあきらめて自分でこの「汚れた」仕事をしなければならなかった。


 徳安は「ロザリオの組」員の純白の絹の制服の上にドミニコ会の紋章と縁飾りとしてロザリオのついた黒い短い上着をつけて西坂の処刑場に現れた。
 見物していた人々(多くはキリシタンであった)は口々にオラショを唱え、「諸聖人の連祷」をとなえる。そして「テデウム ラウダムス(われ神をほめたたえまつる)」の大合唱となった。
 徳安は民衆に向かって
「泣いてくださるな。デウスのお恵みによって今日マルチリヨ(殉教)がかなうことを喜んでくだされ。オラショをお願いしまするぞ。一足お先に」
「アンデレ殿、マルチルになられたらわれらのためにパライソ(天国)で祈っていてくだされ」


 等安は江戸で斬首、次男の長安は京都で斬首、かくして等安の一族13人が3歳の子までも含めてすべて処刑された。
 悲しいことにイエズス会士たちはこの一族の殉教には冷淡であったという。
 この書を読んでもっとも気になったのは、じつはキリシタンの間の修道会同士の確執であった。イエズス会とフランシスコ会、ドミニコ会、そしてアウグスチノ会の4つの修道会がこのときに活動していたが、それぞれの連携はあまりうまくいっていない、どころかお互いに足を引っ張り合う結果となっていることが実に悲しいのである。


posted by mrgoodnews at 00:29| Comment(2) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
至さん、おはようございます。林です。いつもありがとうございます。この本はわたしたち夫婦の回心のきっかけになった本でしたので、メールしてしまいました。私は幼児洗礼ですが、のほほんとカトリックを生きており、主人は受洗したものの、信仰生活の行先に不安を感じていた時、ちょうど仕事でベルリンに2か月滞在することになって携えていったのがこの本でした。「いい本だからぜひ読んで」とエアメールの便り。当時主人は国家公務員だったこともあって、身にしみる内容だったことを覚えています。どこが、どう、というわけではないのですが、なんとなく方向が定まったというか、焦点があったような気がしました。その後、主人は周囲を説得するかたちで、有名なザビエル像の絵画(よく教科書に載ってます)、高山右近縁の「マリア十五原義図」(ザビエルとイグナチオ、御聖体も描いてあるものです)の重要文化財の指定に奔走しました。カトリックの役人として、精一杯の恩返しだったと思います。大学に移って、あの、ある種の信仰と仕事の緊張感というものは薄れたのですが、そんなこともあったなあ、と、思い出してしまいました。
Posted by 林里江子 at 2009年01月19日 08:25
林さんへ
コメントをありがとうございます。
そうなんですか。この本が「夫婦の回心」のきっかけになったとは………。
確かに結構おもしろい本でした。私もこの本でいろいろと学びました。
Posted by mrgoodnews at 2009年01月23日 23:43
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