この文章を読んで、高校生時代の数学の授業を思い出した。
わたしはあまり数学は得意ではなかった。嫌いではなかったが、試験であまりいい点が取れないので、苦手意識を持っていた。
そんなわたしが、ある日数学の予習をしていて、ある問題を独力で解くことができた。その問題は次の授業でやる問題である。
数学の先生は、なぜか「カレーパン」というあだ名のある先生で、かれは「だれかこの問題を解けたやつはいないか?」ときいたので、わたしはすぐに手を挙げて黒板の前に出た。
カレーパンはわたしが出てきたことにちょっと意外そうな表情をみせていたのをわたしは見逃さなかった。
その問題は、空間幾何学だった。この分野は今は受験数学からはずれているとか。「三垂線の定理」を使って解く問題であった。
わたしは、黒板をいっぱいに使って、解法を書き、ちょっと得意げに手をはたきながら黒板から席へ戻った。
するとカレーパンは「この証明は失敗だ」といって「もっといい解法はないか」ときいたら、数学のよくできるやつが黒板の前に出て、私が書いたものを消して、10行くらいで解いてしまった。こういうのをスマートな解法というのであろう。
わたしはちょっとした屈辱感を味わった。せっかく問題を自力で解いて、勇気を出して前に出て黒板いっぱいに解法を書いたのに、これを「証明の失敗だ。もっといい解法はないか。」といって数学のできるやつにそれを解かせるのは、数学の得意でないわたしに、ますます苦手意識を植え付ける以外の何ものももたらさないだろう。
ここは、この証明をしたわたしを「よくできた」と誉めるべきであったと思う。そしてその上で「ほかの解法はないか」と他の生徒に聞くべきであった。
たしかにその解法は10行くらいで終わるスマートな解法であったろう。でも黒板いっぱいを使ったわたしの解法はスマートではなくてもまちがいではないのだ。
これは少なくても数学の教員がするべきことではなかったと、教員になって思う。あそこでわたしを誉めていたら、数学の苦手意識は消えてしまったかもしれないからである。
書きながらもちょっと憤慨してしまった。