作詞は佐藤春夫である。歌を聴きたい方はこちらでどうぞ。心にしみる歌である。
海辺の恋
こぼれ松葉をかきあつめ
おとめのごとき君なりき、
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。
わらべとおとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み、
入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海辺の恋のはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。
この歌はそのまま聞くと、少年と少女の初恋の歌かなという感じだけれど、よく読んでみると「おとめのごとききみなりき」「わらべのごときわれなりき」が暗示しているように、これは大人の恋しかも不倫の恋を詠っているという。
この詩の背景にあったできごとは、佐藤春夫が谷崎潤一郎の妻千代を恋するという事件なのである。大正10年、佐藤春夫が29歳の時のことである。結局谷崎は妻を佐藤春夫に「譲った」。昭和5年二人は結婚する。
佐藤春夫には「秋刀魚の歌」という詩もある。「さんま苦いか塩つぱいか。」というセリフをどこかで聞いたことがあるだろう。この詩のことばである。こちらの詩はもっとなまなましい。
秋刀魚の歌
あはれ
秋風よ
情(こころ)あれば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
思ひにふける と。
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝(なれ)こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼子とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
この歌のきっかけは、谷崎が妻千代の妹に心引かれ、しだいに千代に冷たくなっていくのを同情した佐藤春夫が今度は千代に引かれていく。谷崎は一度は二人の仲を認めるが、急変し再び千代のもとに帰って来て千代との生活を再開する。春夫は激怒して谷崎と絶交してこの詩を作ったという。
「海辺の恋」は美しい純愛の物語であるような、愛欲の渦巻くどろどろとした愛憎劇というか。それにしては美しいメロディである。
YOUTUBEのおかげで最近この曲が小椋さんのだと分かり聞けるようになり、また是非歌いたいと思い歌詞を探しましたがみつからず。
このページで「海辺の恋」の詩だと分かりました。「黄色い涙」ではなかったのですね。ありがとうございました。
<読み人知らずより>
コメントをありがとうございました。
私は「黄色い涙」は見ておりませんが、小椋桂の歌は、ずいぶん前から知っています。
ただ、この歌の背景が佐藤春夫と谷崎とその妻の三角関係であるということはつい最近知りました。
なんというか。でもますますこの曲が好きになりました。
「黄色い涙」を観て小椋桂さんのみならず、森本レオさん、原作者の永島慎二さんも大のファンになりました。
もう一度観てみたいものです。