ことしの四旬節黙想会の指導はイエズス会の三浦功神父だった。マイクの調子と声が合わずに聞きにくいところもあったが、かえってそれで聴衆が一生懸命に聴くということもあってか、なかなかいい講話がなされた。
とくに午後からの話しはとても良かった。教会報に紹介した講話の内容を一部抜粋して紹介しよう。
不安というのは「ちゅうぶらりんの状態」におこります。
飛行機でグアムからハワイへ行ったときでした。飛行機の翼をみると大きなバンソーコーが貼ってありました。さらによく見ると羽から白い煙が帯状に出ているのです。どうしよう。マシントラブルです。アナウンスがありました。機内は不安を通り越してパニック状態です。
でも、わたしは不思議と不安にはなりませんでした。落ち着いて祈れたのです。「別にこれで死んでもいいや。きっと天国の片隅にでも入れてもらえるだろう」そういう気持ちになれたのですね。
神学生時代の哲学の試験はとても厳しいものでした。わたしは不安に襲われ、2〜3日前から眠れなくなり、鬱状態になってしまいました。イライラと不安が募り、このままだと神学も学べない、頭がおかしくなるのではないか、どうしよう、どうしようと思うとよけい眠れなくなりました。
でもあるときふっと思ったんです。「どうしよう」と思っていることを「そうなってもいいじゃないか」と逆さまにまわすようにしたんです。ねむれなくてもいい、試験に落ちてもいい、神父になれなくてもいい、ちょうど指に絡まった紐を少しずつほどいていくときのように少しずつ自分の心をほどいていきました。コチコチになっていた神経がすこしずつほぐされていきました。そして少しずつ眠れるようになりました。結局完全に治るまでには1年くらいかかりました。でも薬も飲まずになおったんです。
わたしは結核の薬害のために、耳が聞こえないという障害を負いました。そのために何度も不安に襲われました。そのたびにこの「いいじゃないか」を繰り返したのです。それによって心の安らかさを取り戻し、生きる自信のようなものを身につけたと思います。
考えてみたら、この「眠れなくてもいいじゃあないか」「死んでもいいじゃあないか」というこの「あきらめ」とも「いなおり」とも「達観」とも見られるこの態度は、じつは信仰の本質とも言える要素をもっていると思う。
三浦神父は話しの中ではいわれなかったが、「………してもいいじゃあないか。それが神さまの聖旨(みむね)であるならば」というように、「神の計画」「神の摂理」というものをうけいれることによって得られる「安らぎ」ということではないかと思うのである。