「不干斎ハビアン−神も仏も棄てた宗教者」(釈徹宗著 新潮社刊 2009年1月刊)を読んだ。たまたま私は別の本でこういう人物がいたことを知り調べようとしていたら、この本の新刊案内が新聞にあり、市立図書館で検索したら見つかった。涙が出るくらいにうれしかった。
このひと、どんな人なのか。本の表紙に書かれていたことを引用しよう。
世界初、仏教・神道・儒教・キリスト教を相対化した男。
禅僧から改宗、キリシタン全盛の時代にイエズス会の理論的主柱として活躍するも、晩年に棄教。世界に先駆けて東西の宗教を知性で解体した男は、宗教の敵か味方か? その宗教性と現代スピリチュアリティとの共通点とは? はたしてハビアンは日本思想史上の重要人物か―。謎多き生涯と思想から、日本人の宗教心の原形を探る。現役僧侶による画期的論考。
この著者は、クリスチャンでも歴史学者でもなく、浄土真宗の僧侶であるというところも面白い。
クリスチャンはこういう人物を研究しないだろう。調べてもぼろくそにいうだけのことかもしれないが、わたしはそうは思わなかった。この人物からも多くのことを学べるような気がするし、なぜかとても親しみを持ったのである。
不干斎ハビアン。
その名はほとんど知られていない。でもキリシタンのなかにはこういう人物もいたのである。
1565年ころ北陸うまれ。母は北政所の侍女であり後にキリシタンになった。
禅僧であったが、1583年キリスト教に改宗し高槻のセミナリオに入学。1586年イエズス会のイルマン(修道士)となる。同期生に26聖人のパウロ三木がいる。
また秀吉禁教令後の1590年にイエズス会士が召集され全国会議が長崎加津佐で開かれるが、この会議に26歳の彼も参加している。
日本人のキリスト教理論家として京都で活躍。当時、この種の人物としてイルマン・ロレンソ・了斎、養方軒パウロ、そしてこの不干斎ハビアンがいた。かれらはしばしば言葉のできない宣教師の通訳みたいな形で歴史上の人物と宗教論争した。とくにイルマン・ロレンソは天才的な説教師であり、論争家であった。ちなみにイルマン・ロレンソ誕生の地は先日訪れた平戸市生月島にあった。
また不干斎ハビアンは、キリシタン版の平家物語やイソップ物語の編者として解説を書いている。さらに「ドチリナ・キリシタン」というキリスト教の教義書を著したのもこの人物ではないかといわれている。
1605年「妙貞問答」を出版。この本は妙秀と幽貞という二人の尼僧の対談形式で、仏教、儒教、道教、神道、キリスト教を比較することによって、キリスト教が最も優れていることを書いた書である。
1606年キリシタン大名の黒田如水の3回忌追悼演説や京極マリアの娘マグダレナの追悼演説を行っている。
そしてこの年ハビアンは林羅山と論争をしている。羅山とハビアンを引き合わせたのは俳諧師で仏教徒であった松永貞徳であった。羅山はこの松永にとっては儒仏論争をした論敵であった。羅山はこのハビアンとの論争をもとに「排耶蘇」という書を著している。
そして1608年、ハビアンは44歳にして突然ひとりの修道女(ベアタス会)と駆け落ち、イエズス会を脱会して行方不明となる。
つまりハビアンの棄教は、迫害や拷問のためではなかったということである。
しかしハビアンはこの女性とその後別れている。
1616年頃、ハビアンは長崎奉行長谷川権六のもとでキリシタンの取り締まりに協力する。なぜか村山等安の事件においては等安の弁護をしてイエズス会を批判している。
1618年には江戸に行き徳川秀忠と面談。キリスト教批判を展開。
そして1620年キリシタン批判書の「破提宇子(ハダイウス)」を出版した。当時のイエズス会管区長はこの書を「地獄のペスト」と称しすぐに禁書とし、更にこれに反駁する本を作成したというが、その書は現存していない。
明治期になって、キリスト教に脅威を感じた政府は「破提宇子」を復刊してキリスト教に対抗しようとした。
1621年ハビアンは長崎にて死去。56歳であった。