ベアタス会のシスターと恋に陥り、駆け落ちして、隠れざるを得なくなり、あげくのはてに棄教した、つまり理屈は後からついていったのではないかというのが私の感触なのだが、どうだろうか。
いろいろな説がこの書で紹介されていた。
不平不満説
当時の外国人宣教師たちの宣教思索への不満や、あるいは自分をはじめ日本人を司祭としない方針への不満、イエズス会内部での日本人への差別的な態度などが不満の原因だとする。
信仰浅薄説
遠藤周作、三浦朱門などは、そもそもハビアンは信仰はもっていなかった、「妙貞問答」からはあまり宗教心がかんじられないという。
思想転向説
哲学者三枝博音は「ハビアンは<創造者を第一義とする宗教>と<無常・空に立脚する宗教>との相克を表現しようとしたのだが、それに失敗して、日本という宗教的土壌に屈したという説。
そもそもそういう宗教者説
バビアンは自由人であり、キリスト教という枠内で思考することができなかったとする説。山本七平はかれこそ「日本教」の権化だととらえている。
キリスト教国への不信
これは遣欧使節のひとり千々石ミゲルの棄教や、ローマに留学して司祭になりながら棄教したトマス荒木らにも見られる理由である。つまりキリスト教がヨーロッパの植民地主義の先兵となって機能したことへの批判がこれである。
宗教学者の姉崎正治は、「破提宇子」を評して「ハビアンは棄教のあと、その同じ材料を倒用して、キリシタン破折を企てた」つまり「妙貞問答」と「破提宇子」の論点と思想内容はおなじでありながら、結論が正反対の双子の書なのであるという。
ハビアンは、「妙貞問答」でかいたことを「破提宇子」において自分で批判していった。ちょうどディベートのターンアラウンド(肯定側と否定側が攻守所を変えてディベートを再開すること)と類似するというのである。
「妙貞問答」では「この世界をデウスがお創りになられたなら、なぜ今まで日本を放っておいたのですか?」と妙秀が問いつめると幽貞は「教えを広めるのは人間なので次第次第に広まっていくのです。でも遅いとか早いとかは気にしなくていいのです」と応答する。
これが「破提宇子」では、「デウスがこの世界のすべてを創造なさったのです」とキリシタンが主張すれば「では、キリシタンが日本に伝わるまでの数千年間、デウスは日本のことをどう考えていたのか、それで全知全能者といえるのか」と指摘する。
まるで「妙貞問答」のQとAをいれかえて「破提宇子」を作成した印象さえ受ける。
ハビアンはこのようにキリスト教を理解していた。つまり、ハビアンは比較宗教学者ではあってもキリシタンの内的な信仰をもっていたのかどうか、疑われるのである。だからこの「比較宗教学者」としてのポジションをキリスト教から少しズラしたにすぎないことなのであろうか。
このような書はなかなか難しいですね。私は合目主義者ですので、絶対という観念には違和感を覚えますが、そんな意味ではハビアンの生き方には興味を覚えました。
いろいろな説があるものですね。
ハビヤンの主著である「妙貞問答」と「破提宇子」は、現代語訳が出版されていますので、実際に読まれるのもいいと思います。
平凡社東洋文庫14の「南蛮寺興廃記・妙貞問答他」です。
そういう私も読破したわけではありませんので、読み返してみます。
原文で読むなら岩波思想体系25『キリシタン書・排耶書』があります。(こちらは挫折しました)
ザビエルやヴァリニャーノなど会の中枢だった人物は日本人を敬愛し、順応主義を取ったけれど、実際には日本人に差別意識を持つ宣教師が多かったことは否めないと思います。
ハビアンと対照的なのはペトロ岐部ではないでしょうか?(と言っても遠藤周作『銃と十字架』のペトロ岐部像ですが・・)
岐部も中々司祭に叙階してもらえず、自分の足でローマまで行きますよね。世界を巡り歩く過程で西洋の植民地政策や教会の傲慢を肌身で知る。そしてローマで叙階されたあと、“ローマ教会ではなく、キリストそのものを知らせんがために”禁教下の日本に潜入し布教するわけです。
この二人はキリシタン史の中でも殊に重要な人物だと思います。