2009年07月22日

十二所の「黙想の家」の坂道を掃きながら考えたこと

 鎌倉のイエズス会日本殉教者修道院(十二所黙想の家)に上る坂道を炎天下3時間かけて掃き掃除をしました。
 iPod を耳に当てて録音してあった「トーキング・ウィズ・松尾堂」を聞きながらの掃き掃除です。
 まだ夏はいいのです。秋の落ち葉の季節になるともっと大変です。排水溝に落ち葉がたまってつまって、雨の日になると水があふれ出して迷惑となってしまうので、もっと頻繁にしなければなりません。
 落ち葉を掃いていると、いろいろなものを発見します。水のわいているところにいる清水がにとか、名前の分からない木の実とか、落ち葉とか……………。

 でも、またすぐに落ち葉がつもってしまうので、ちょっと空しい感じになります。
 そんなときに、掃除当番の生徒とある先生のやりとりを思い出しました。
「教室掃除なんてしても空しいよね。すぐに汚れてしまうんだから。」ほとんど掃除する気のない生徒同士のグチです。
 それを聞いていたある先生。
「そんなことを言うんだったら、メシを食うんじゃないぞ。メシを食ってもすぐに腹は減るんだから。メシを食うことも空しいことだろう?」
 といったら、その生徒は黙って掃除をせっせとやり出したとか。
 なかなかうまいことを言う先生だと感心してしまいました。

 これと似たことがいよさんにもあります。彼女は記憶障害で(私たちふうに言えば「物忘れ名人」)3分前にしたことをすぐに忘れてしまうのです。うっすらとも覚えていないし、まったく思い出すことがないのです。
 こういういよさんにおいしいものを食べさせたり、どこかいいところに連れて行ったりしてもすぐに忘れてしまうから「空しい」ような気がすることもあります。
 どこか「シジフォスの神話」に似ていなくもないというか……………。。
 でも、私は「空しい」とは考えないようにしています。それでも意味はあると思うのです。そのときそのときを充実して生きるということに意味があるはずだからです。

 掃いても掃いてもすぐに落ち葉がたまってしまうはき掃除みたいなものでしょう。それをしないと排水溝がつまってしまうし、落ち葉を集めて堆肥にすることにも意味がありそうだからです。
posted by mrgoodnews at 02:16| Comment(0) | 母の「介護」体験 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。