2010年01月22日

「新聞紙にどれだけ多くの人が乗れるのか」エクササイズ

 宗教倫理教育担当者ワークショップで「新聞紙見開き一枚(2ページ)に何人が乗れるか」というエクササイズをしたことがある。
 せいぜい6,7人というところだろうと想像できるのだが、これはあることをすると倍くらいに増やすことができる。
 そのあることってなんだろか?

 つづきを読む
posted by mrgoodnews at 20:51| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月19日

Does God Exist?

YouTube Video “Does God Exist?”をみてみてください。

なかなかおもしろいです。
ドイツ語のビデオのようです。英語の字幕があります。

続きを読む
posted by mrgoodnews at 15:21| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

ダイアローグ・イン・ザ・ダーク

 The BIG ISSUE 131号(11月15日号)に「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」なるユニークな試みが紹介されていた。
 これはいわば「真っ暗闇体験」とでもいったらいいか。

続きを読む
posted by mrgoodnews at 20:59| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

音楽部「秋の定期演奏会」にいきました

私が昨年まで勤めていた学校の音楽部第23回「秋の定期演奏会」に
11月14日90歳の母と妻と3人で行きました。

実はここの高校音楽部は、ことしの日本合唱連盟の合唱コンクールにおいて全国大会金賞に輝いたという実績を持っています。

続きを読む
posted by mrgoodnews at 01:26| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月02日

children-centered movie by KRO

SIGNIS World Congress@ChiangMai のWORKSHOP で、オランダのヤン・ウィリアム・ブルトさんが children-centered movie by KRO について紹介した。つまり、子ども中心のムービーというか、子ども目線のムービーといったらいいだろう。

続きはこちら
posted by mrgoodnews at 16:45| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月05日

ショートエクササイズ「カウントアップ」

 第20回宗教倫理教育担当者ワークショップが今年も行われました。これはおもにカトリック系の中高で「宗教」「倫理」を教えている教員たちの研修会です。
 前にも書きましたが、おそらく教員研修会でこれほどパワフルで実戦的な研修会はないだろうと自負しています。
 その盛り上がりぶりですが、私の睡眠時間は1日目の夜が2時、2日目が3時、3日目が5時でした。3泊の合計睡眠時間が12時間でした。24人の参加者でこの3泊4日に飲んだビールが缶ビール84本、ワイン25本、日本酒1升なのですね。

 さてそのワークショップで学んだことを少しずつ紹介していきましょう。

 セッションの始まるときに、ちょっとしたフィジカルエクササイズやゲーム、歌などが紹介されます。これがまた勉強になるのですね。休みが終わって授業がはじまったら、ぜひ生徒たちとやってみたくなるようなものです。
 今回のそれは「カウントアップ」というゲームみたいなものでした。勝ち負けがあるわけではないので、ゲームではないでしょう。もちろん対抗ゲームにすることはできます。

 それは20人くらいでするといいゲームです。1,2,3,4…………とカウントアップします。誰でも自由にカウントアップできるのですが、同時に数をいったり、まちがった数をいったりしたら、はじめからやり直しです。この同時に言ってはいけないというのがけっこう難しいルールなのです。
 せめて15くらいまでいってほしいなとインストラクターは言っていますが、あせればあせるほど重なってしまいます。

 これの必勝法ってないかな、考えてみるとおもしろそうですね。
posted by mrgoodnews at 23:49| Comment(2) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月14日

「数学の日」にちなんで思い出したこと

 今日3月14日は、朝日新聞 BE on Saturday の日野原重明氏の文章によると「数学の日」なのでそうである。なぜこの日がそうなのか、すぐにピンと来る人は多いと思うが、円周率 3.14 にちなんだものである。
 この文章を読んで、高校生時代の数学の授業を思い出した。

 わたしはあまり数学は得意ではなかった。嫌いではなかったが、試験であまりいい点が取れないので、苦手意識を持っていた。
 そんなわたしが、ある日数学の予習をしていて、ある問題を独力で解くことができた。その問題は次の授業でやる問題である。
 数学の先生は、なぜか「カレーパン」というあだ名のある先生で、かれは「だれかこの問題を解けたやつはいないか?」ときいたので、わたしはすぐに手を挙げて黒板の前に出た。
 カレーパンはわたしが出てきたことにちょっと意外そうな表情をみせていたのをわたしは見逃さなかった。

 その問題は、空間幾何学だった。この分野は今は受験数学からはずれているとか。「三垂線の定理」を使って解く問題であった。
 わたしは、黒板をいっぱいに使って、解法を書き、ちょっと得意げに手をはたきながら黒板から席へ戻った。
 するとカレーパンは「この証明は失敗だ」といって「もっといい解法はないか」ときいたら、数学のよくできるやつが黒板の前に出て、私が書いたものを消して、10行くらいで解いてしまった。こういうのをスマートな解法というのであろう。

 わたしはちょっとした屈辱感を味わった。せっかく問題を自力で解いて、勇気を出して前に出て黒板いっぱいに解法を書いたのに、これを「証明の失敗だ。もっといい解法はないか。」といって数学のできるやつにそれを解かせるのは、数学の得意でないわたしに、ますます苦手意識を植え付ける以外の何ものももたらさないだろう。
 ここは、この証明をしたわたしを「よくできた」と誉めるべきであったと思う。そしてその上で「ほかの解法はないか」と他の生徒に聞くべきであった。
 たしかにその解法は10行くらいで終わるスマートな解法であったろう。でも黒板いっぱいを使ったわたしの解法はスマートではなくてもまちがいではないのだ。

 これは少なくても数学の教員がするべきことではなかったと、教員になって思う。あそこでわたしを誉めていたら、数学の苦手意識は消えてしまったかもしれないからである。

 書きながらもちょっと憤慨してしまった。
 
posted by mrgoodnews at 15:25| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月29日

「日本語教師養成講座」受講中です。

「森林インストラクター」の試験は残念ながら不合格でした。4科目のうちの2科目を落としてしまいました。また来年の試験に挑戦します。
「おもしろ科学体験塾インストラクター」は一応「養成中」の身に一区切りついて新しく出発です。

 9月にプノンペンのハイスクールを訪れたときに、ある少女から日本語で話しかけられたということを紹介しました。あれから日本語を教えられるようになれたらと思い立ち、10月から始まる教室を見つけて通い出しました。これがなかなかおもしろいのです。
 しかしなんとまあ、気の多いことだと我ながらあきれているのですが……………。

 先日の「日本語教師養成講座」ではこんなことを学びました。テーマは「日本語を客観的に見る」です。

 まず問いかけがなされた。
「『これはなんですか?』と聞くのと『これはなんでしょうか?』と聞くのとではどういう違いがありますか? グループで話し合いなさい」

というのである。
「日本語はあいまいな表現が多いから、ほとんど同じと答えたほうがいい」とか、「前者の方が丁寧なだけだ」とかいうことがあげられた。
 すると講師がこういうふうにいう。
「日本人はこの2つの表現をはっきりと使い分けているのです。でもそれを説明せよというとなかなかできない。『丁寧』とか『婉曲』とかいう言葉で簡単に片づけてはいけません。日本語を教えるためにはこのように客観的に日本語を見ることができなくてはならないのです。生徒から必ずそういう質問が出てくるし、それにあいまいに答えるわけにはいかないのです。」
 講師によると「『これはなんですか?』という表現は相手がその答を知っているだろう時に使います。『これはなんでしょうか?』というのは相手も自分も知らない時に使います。」
 そういわれてみると確かにそうだ。確かに私たちはこの2つの表現を使い分けている。

 次の質問は
「ある読み物に『○○は横浜に生まれた』という文があったが、『○○は横浜で生まれた』のまちがいじゃないのか」

というのであった。
 またグループで話し合った。講師はいう「こちらはかなり上級ですね。こちらの方が難しい」と。
「『横浜に生まれた』というのは今も横浜に住んでいるのであり、『横浜で生まれた』というのは今は横浜に住んでいない」というもっともらしい答を私は発表したが、講師に「ほんとうですか?」と改めて聞かれると「確かにそうでないこともある」と気づいてしまう。
「これはこういうふうな例を出して説明したらわかりやすいでしょう。『私は医者の家に生まれた』と『私は医者の家で生まれた』この二つはどう違いますか?」
「なるほど、前者は親が医者をしているのですね。でも後者は必ずしもそうではない。たまたま出産したところが医院だったということもある」と納得した。
 つまり「横浜に」というのは、横浜が持っている特別な背景(ハイカラだとかエキゾチックだとか)が含まれるのである。「横浜で」は単に場所を述べているにすぎない
 「医者の家に生まれた」というのは、その背景として金持ちの家という意味や代々医者の家系であるという意味を含むのである。
 このように、似ている別な表現を出して考えるとわかりやすいこともある。だから生徒から聞かれたら、そういういい実例や悪い実例をすぐに思い浮かべられることが大事で、日本語教師になるためには必須なのであるという。そのためには日本語を客観的に見られる訓練をしなければならない。

 次の質問である。これもかなり難問である。
 A:田中さん、映画はお好きですか?
 B:ええ、好きですよ。
 C:映画のチケットが2枚あります。いっしょに……。」

 学習者の質問は「A:田中さん、映画がお好きですか?でもいいですか?」

 たしかに、こういうケースに「映画がお好きですか?」とはいわない。なぜだろうか?
 日本語の助詞の使い方は確かに難しい。とくに『が』と『は』の使い分けは。
 講師は「『が」と『は』は一般的にはその違いは説明できない。『映画が好き』『映画は好き』というこの事例のようにできるだけ具体的な表現でないといけない。」ともいわれた。
 答は、前者が「好きかどうかわからない」のであり、後者は「好きなようだという情報が得られている」場合に使う。

 その他にもこういう質問があった、
「大雨のために高速道路は通行止めになった」と「大雨で通行止めになった」は同じですか?

「財布をどこかに落としてしまいました。」「財布がどこかにおちてしまいました」これは他動詞、自動詞の区別ですね。

 確かに日本語を客観的にみることができるようになるためには訓練が必要なようである。これは結構大変そうである。
 日本語ができるようになるにはよい教師が必要で、教師の能力によって大きく違いがでてしまうという。

 日本語を教える人の資質も大きな影響力があるが、やはり母国語がなにかによっても学ぶはやさが異なってくる。日本語を最も早くできるようになるのは韓国人なのだそうである。韓国語の語順は日本語と似ているところがあるからだそうで、順番はそのままで単語を置き換えればいいからなのだという。ただし日本人が韓国語を学ぶのが早いかというと、必ずしもそうではないらしい。

 日本語を教えるということはたいへんだけれど、結構おもしろそうである。

 
posted by mrgoodnews at 02:04| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月28日

William Arthur Ward の格言集から

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師は、ただ話す。
良い教師は、説明する。
優れた教師は、態度で示す。
そして、偉大な教師は心に火をつける。


これは20世紀アメリカの哲学者であり、教育者であったWilliam Arthur Ward のことばである。

問題は最後の inspires だと思う。この言葉をなんと訳すか? 
上の訳文では「心に火をつける」であった。この訳文も悪くはないが、次のような訳文もある。

並みの教師はしゃべるだけ、
良い教師は説明し、
優れた教師は手本をみせる。
卓越した教師であれば、生徒の心を刺激する


これも今ひとつである。demonstrate の訳は「手本を示す」というのはいいと思う。
私だったらこう訳すだろうか。

普通の教師はただ話す
よい教師はうまく説明する
すぐれた教師は自分でやってみせる
偉大な教師は生徒たちが自らやってみたくさせる


理科とか数学とかはこの訳が適当であると思うがどうだろうか?

ところで William Arthur Ward にはこんな言葉もある。これもなかなか含蓄の深い格言である。

Do more than belong: participate.
Do more than care: help.  
Do more than believe: practice.  
Do more than be fair: be kind.  
Do more than forgive: forget.  
Do more than dream: work.  

所属するよりも、参加する。
心配するよりも、助ける。
心で信じるよりも、実践する。
フェアーにこだわるよりも、親切を実行する。
許すよりも、忘れる。
夢見るよりも、努力する。

これも4行目と5行目が問題だと思う。上の訳でいいのだろうか?

posted by mrgoodnews at 02:11| Comment(1) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月09日

「教え子」という言葉と「先生は」という言葉

 8月24日の毎日新聞の投書欄に「『教え子』に変わる言葉を知りたい」という「無職 59蔡」というかたのものがありました。

 この言葉はよく学校の教員間の言葉にも出てくるのですが、私にとっては使いたくない言葉の一つです。なぜなら「嫌み・尊大・高慢な感じ」を受けるからです。


 私もこの言葉はたしかに「使いたくない言葉」です。私の教えた生徒の中には、有名なオリンピックのフィギアスケートの選手になった生徒もいましたが、彼女は「教え子」などと呼ぶのはおそれおおくてできません。もちろん彼女が卒業生であることは「誇り」ではありますが……………。

 そうしたら、9月7日の投書欄に、「教え子」投書に呼応して「『先生は』と私は一人称で言わず」という「ナチュラリスト 70歳」氏の投書がありました。

 私は長年、小中学校に勤務してきましたが、子どもたちには「先生は」と一人称で言わないことを貫きました。
 英語では先生は「一緒に勉強した○○さんです」と紹介するのが常と聞いています。
 教員は長い人で38年勤務をします。その38年をどのように生きるかが、「教え子」と「先生は」に表れると考えます。

 
 これには私も大賛成です。教員には生徒の前で自分のことを「先生」と読んでいる人が多いことも確かです。私もこの言葉はけっして使いません。
 だいたい私は生徒の前でも同僚を「○○先生」といわずに「○○さん」と言うように勤めてきました。でもこれはなかなか難しかったです。
 学校でないところたとえば教会などで、私のことを先生呼ばわりする人には「わたしはあなたを教えた覚えはない」と言って答えないことにしています。
 生徒から呼ばれるのもあまり好きではなかったのですが、これはしょうがないかと思っていました。

 群馬などで立派な仕事をされた斎藤喜博先生は「私を斎藤さんと呼んでください」と「未来誕生」のなかで述べています。


 とその投書は結んでいました。さすが斎藤喜博さんですね。
 

 
posted by mrgoodnews at 00:56| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月04日

教育に「ななめの力」を 藤原和博氏の提案

 8月31日の朝日新聞の全面広告に、杉並区和田中学校の前校長の藤原和博氏の記事が載っていました。

 私は、この人がやった「塾の力を借りた夜の補習」という試みはどうも賛成できないのですが、「地域の力を学校に結集」とか「よのなか科の学習」という主張には大いに賛成するものです。
 文中にこんなことが言われていました。

 先生と生徒、親と子の「タテの関係」や子ども同士の「ヨコの関係」とは違う、近所のお兄さん、お姉さん、おじちゃん、おばちゃん、おじいさん、おばあちゃんとの「ナナメの関係」。建物も柱と梁だけではなく、ナナメ方向の木材を入れることで強くなる、それと一緒です。


 まったくその通りだと思います。学校はこの力を教育に生かせなかった。特に地域と結びつきの弱い私立は、これがまったくできないのですね。
 この力をどう生かしたらいいのか「よのなか科」はそれを生かすにふさわしい場だと思います。

 私がこれからしようとしている「森林インストラクター」も「おもしろ科学体験塾インストラクター」もまさにそのような「ナナメの関係」を学校現場に構築することなんだと思いました。



 
posted by mrgoodnews at 00:18| Comment(1) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月14日

学びをとどめるために

 今日の「森林インストラクター講習」で教えられたことです。
 
   学びをとどめるために

人は
      聞いたことの10%
       見たことの15%
見たり聞いたりしたことの20%
    話し合ったことの30%
   直接体験したことの80%
   そして
      教えたことの90%
を忘れずに心にとどめている。

  教育とは人生のための準備ではなく
          人生そのものです。

ジョン・デューイ

ということなのだそうです。
直接体験することは、心にとどまっているものです。
そして教えることがもっとも効果的な教わることなのですね。
このぎゃくせつとてもおもしろいと思いました。

posted by mrgoodnews at 22:19| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月25日

中1の女の子たちが全員で演歌を歌うの図

 これは10年以上前のことです。
 中学1年生が5月にするオリエンテーション合宿の帰りのバスの中の出来事です。

 生徒(女子校だったので全員女の子)が、カラオケをしたいと言い出しました。上級生だったら自前でカラオケテープを用意していくのですが、そこはまだ入学したての中学1年生、そんな用意はしていません。
 担任の先生は「あなたたちカラオケテープを用意してきたの?」と聞くのですが、「バスの中にあるテープでいい」と生徒たちはいうのです。
 担任の先生がバスガイドさんに聞くと「演歌ならある」ということです。生徒たちは「それでもいい」といって、曲を選んで歌い出しました。

「矢切の渡し」だとか「津軽海峡冬景色」だとか「北の宿から」だとか、演歌のスタンダードナンバーを歌詞カードを見ながら代わる代わる歌うのです。ほとんど歌ったことのない曲だろうに、どこで教わったのか、これがコブシがきいたりしてけっこううまかったのです。
 そして「川の流れのように」ではついに全員で大声で歌っていました。中学1年生の女の子たちが全員で「川の流れのように」を歌う光景はなかなか見られないでしょう。
 かわいいというかかれんというか、とにかく見ほれて、聞き惚れてしまいました。
 私の教員生活のなかでも忘れられない思い出です。

posted by mrgoodnews at 00:34| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月24日

「勉強」という言葉

 中国語の漢字と日本語の漢字で意味が異なるものがけっこうあります。

 いちばん有名なのは「手紙」中国ではトイレットペーパーを意味します。
 「汽車」は自動車です。
 「娘」は既婚女性です。
 「愛人」は配偶者だったりします。
 「改行」は転職するという意味だし、
 「湯」はスープです。湯麺(たんめん)です。
 「麻雀」は日本語です。中国語は「麻将」だとか。
 「走」は中国語では「歩く」なのです。
 「切手」は中国語では「泥棒」を意味するから驚きです。

 前に「楓」や「柏」という漢字が示す植物が、日本と中国では違うということを紹介したことがあったようなきがします。

 「迷人尓裙」はなんと「ミニスカート」だとか。「人を迷わす」のですね。「迷人」がミニに近い音だからという当て字だとか。

 ところで中国人が日本語の漢字を見ていちばんびっくりするのは、「有難い」という言葉だとか。「難有り」と読んでしまう。それがなぜ「感謝」なのか。

 「勉強」という言葉もびっくりなのだそうです。日本人は強制されて嫌々ながら勉強しているというイメージなのです。でもそういわれてみると確かに日本人は「強制されて」勉強しているのかもしれないので、あながち間違えではないのかもしれません。

 私は教員をしていたときに、この「勉強」という言葉と「頑張る」という言葉を「禁句」にしてできるだけ使わないようにしました。
 しかしこの言葉を使わないと生徒を指導するときや励ますときに困ってしまうのです。「学習」とか「学び」とか使っていましたが、「もっと勉強しなさい」と生徒を叱責するときの迫力がないのですね。親が子どもに「勉強しなさい」というときもやはり「勉強」でないといけません。

 イギリスに留学していた友人が、こんな話をしてくれたことを思い出します。
「何のために勉強するのか?」と聞かれたときに、日本人は「大切なことだから」「生きていくために必要だから」「社会に出て役に立つから」とか答えるのですが、イギリス人は「学ぶことが楽しいから」とか「おもしろいから」とか答えるのだそうです。

 日本の子どもたちが「学びからの逃走」をしていると嘆いた教育学者がいましたが、子どもたちの「学力低下」の根本的な原因はこういう「勉強」にあるような気がするのです。

 
posted by mrgoodnews at 23:59| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月12日

「自殺について」という高校生のロングホームルームの話し合い

 私が教員として働きだした1年目、今から20年以上前のことです。高1のあるクラスのロングホームルームに招かれました。テーマはなんと「自殺について話し合う」というのです。あのころ、岡田何とかいう女性タレントの自殺の「後追い自殺」というのが頻繁に起きていたときでした。
 いまでは、ロングホームルームでディスカッションをするというのが難しくなっています。ましてやこのテーマですることは考えられないことですが、あの時は大胆にもこういうテーマでの話し合いができたのですね。

 生徒委員が二人司会をしていました。その司会者はいきなりこんなことをクラスの生徒にきいたのです。
「自殺したいと思ったことのある人は手を挙げてください」
 生徒たちには「え!そんなこと、答えなければいけないの」とぎょっとした反応もありましたが、司会者たちはそういう反応をものともせずまた深く考えさせずに手を挙げさせるのです。まわりを見渡しながらおずおずと手を挙げた生徒が10何人か、3分の1くらいいたでしょうか。
 司会者は続いて「なんで死のうと思ったのですか? 手を挙げた○○さん、答えてください」とまた大胆にも指名して聞いてきます。
 さされた生徒は「え! 答えなきゃいけないの」といいながらも「大失敗をして人に迷惑をかけてしまったから死んであやまりたかった」と答えました。
 では「○○さんは?」と冷静に事務的に次の人を指名します。「自分に絶望したから」という答えも出てきました。
「ほかの理由で死にたいと思った人がいましたか?」とまた聞きました。
「親にこっぴどく叱られて、死んでやると思った」とか「友人に裏切られてはらいせに」とかいう理由もあがりました。
 司会者は「死にたいと思った人」にその理由を次々と聞いていきました。何となく答えることを拒否しにくい雰囲気があったので、みんなためらいながらも正直に答えていきました。
 そしてこんなふうにまとめました。「死にたいと思った理由は、自分に絶望したタイプとだれかに思い知らせるために死んでやろうとする腹いせ型タイプがあるようですね。」私の記憶ではけっこう腹いせ型が多かったという印象が残っています。

 そして続いての質問です。「今みんなが生きているということは、そのときは思いとどまったということですね。どうして思いとどまったのでしょうか?」とまた指名して答えさせました。
「死ぬのが怖くなった」という理由が多かったようです。
「親や友人に説得されて」というのもありました。
「自分が死んだらまわりの人がどんなに悲しむかを想像したら死ねなくなった」というのもありました。
「一晩寝たら忘れてしまった」とか「死んだらおいしいものが食べられなくなるんだと思った」と言ってみなの笑いを誘うのもありました。

 最後に「先生はどう思いますか?」と聞かれて私は何を話したかをよく覚えておりません。おそらく、私は死にたいなんて考えたことがなかったので、正直にそう答えただろうなと思います。
 今だったら「親友が自殺してしまったことにショックを受け、それを思いとどまらせなかった自分を責め続けて苦しんでいる例を出して、いかに家族や友人が悲しむか、それだけでなく深い傷を生涯負いつづけることになるか」を話しただろうと思います。
 生徒の誰かが、涙ながらにそういう話を出したら、この話はそこで終わりになっただろうと思います。

 この話し合いは、司会をしていた生徒たちが「あっけらかん」と半ば強引に質問して答えさせたところがよかったのかもしれません。教員の指導がよかったからというのではなかった、むしろ教員たちはハラハラしながら、話し合いの展開を見つめていただけでした。

 このテーマでの生徒間の話し合いは、このとき一度きりでした。はじめに述べたように、今ではこういう話し合いはできないだろうなと思います。むしろ「自殺を誘引してしまう」とかいって危険視されるでしょう。私もこの話し合いを指導できる自信はまったくありません。
 あのころはリストカットなんていう現象も見られなかったし、今の子どもはもっと複雑なのかもしれません。
 でも、生徒たちは心のどこかで、こういう話し合いができることを望んでいるかもしれないとも思えるのですね。
 

 
 
 
posted by mrgoodnews at 01:36| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月11日

「札掛まるごと森体験!」にいってきました。

 5月10日〜11日と県立札掛け森の家主催の「札掛まるごと森体験!」にいってきました。この時期の「森の美しさ」を満喫してきました。楽しく有意義な体験で、すっかり森の魅力にとりつかれてしまいました。

 これは「県のたより」にで広報されていたもので、参加者は家族連れも含めて10名でした。


札掛地図 あいにくの雨のために「人工林の整備」はできませんでしたが、丹沢資源保護協会会長の話を聞いたり、森の散策を雨の中行いました。雨の森もまたよしです。
 なによりも青葉若葉の森の美しさはこの時期だけに体験できるものなのですね。


ケヤキ林 黒龍尾根散策コースの中には、樹齢100年以上のモミの木の林があったり、ケヤキの美林があったり、モミの木の考証林があったりしました。これらは神奈川県の美林50選に選ばれている森なのだそうです。

 ここで学んだこと、体験したことを少しずつ紹介していきたいと思います。乞うご期待というところです。
posted by mrgoodnews at 23:52| Comment(1) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月05日

「宗教研究」の時間の「わかちあい(sharing)」

 わたしの勤めていた学校には「宗教研究」の時間という課外活動があった。毎週水曜日の朝8時から、40分くらいの集いで、希望者が参加する。学校は8時30分の朝礼から始まるのだが、「宗研」に参加する生徒は朝礼への参加が免除されている。学年ごとに1〜2グループがあって、それぞれ教員が担当している。中味はそれぞれの担当者にまかされていて、あるグループは聖書を読んだり、キリスト教的なビデオを見たりしている。もっともカトリック学校らしい時間であっただろう。

 わたしは、最後の1年を除き、ずっと高校生のクラスを担当してきた。最後の1年は、開講したが生徒が集まらず不成立となってしまった。悲しかった。わたしが「潮時」を感じた理由の一つでもあった。
 学年が上がるごとに、参加者、出席者が減っていき、しかも全体的にも参加者が減少傾向にあるというのは実は深刻な問題である。

 わたしにとって、この時間は学校の時間の中でとても楽しみにしている時間であり、また好きな時間でもあった。
 この「宗研」の時間をどういうふうにやってきたのか、ちょっと紹介してみよう。
 もっとも、わたしがこのやり方に固執してきたのが、参加者の減少、ついには参加者ゼロとなって不成立になった理由だという厳しい見方もあるのだが…………。

 まず「瞑想」の時間から入った。「瞑想」については前にも書いたので、そちらを参照してほしい。その1週間をふり返る「瞑想」が多かった。

 つぎに、参加者一人一人に「最近、心を動かしたこと」というテーマで発表してもらう。「3分間生活報告」とか呼んでいたこともあった。
 つまり、最近感動したこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、怒ったことなどを短く報告してもらうのである。これは一般的には「分かち合い」とも呼ばれているが、わたしはこの言葉を使わずに「分かち合い」をする。
 生徒が発表したあとに、わたしも報告する。

 生徒たちが何を感じ、何を考えているのかを理解し、またわたしが感じていることを理解してもらうのにはもっともいい時間である。
 はじめは一言で終わってしまうことが多いのだが、繰り返すごとにぽつりぽつりと語り出す。
 「わかちあい」であるので、生徒の述べたことを批判したり、説教や忠告をしたり、解説してはならない。ただ、短い相づちを打ちながら、聞いているだけである。教員は実はこれが苦手である。すぐに解説・忠告をしたがるのだ。
 ときには、一人の述べたことに生徒みんなが共鳴して話が盛り上がることもある。そういうときはそれだけで時間となってしまう。それもまたいい。

 ある生徒がこんなことを言ってくれたことがある。「はじめはこの部屋に来て瞑想をしているときに、『なにがあったっけ?』と思い出していた。
 つぎに、この部屋に来る途中で階段を上りながら考えた。
 さらに、学校に来るバスに乗りながら、今日の宗研で何を報告するかを考えた。
 そして『明日は宗研だ。何か報告しなくちゃ』と寝る前に考えるようになった。
 ついには、何か感動したことがあったそのときに『そうだ! 今度の宗研でこれを報告しよう』と思うようになった。」
 わたしは、これに対してこう付け加えた。
 「できたら、この次までにこれをやってその結果を報告しようというのができたら最高だ」と。

 つまり、「わかちあい」をくりかえすことによって「わかちあい」が生活の場と時間にだんだんと近くなっていくことであり、さらに「分かち合いが生き方を変えていく」ことに発展していくのである。「分かち合いの進化」である。

 生徒とわたしの報告が終わると、その日のために私が用意したテーマにはいる。それは時に聖書の話であり、詩を読んだり、文章を読んだり、短いビデオを見たりして、それを読んだり見たりして感じたこと考えたことを話し合う。

 最後に、B6版の用紙を渡して、そこにこの宗研で感じたこと考えたことを記録してもらう。もちろん私も書く。
 1年の最後の「宗研」が終わったら、その記録用紙を生徒ごとにまとめ表紙をつけて製本し、生徒に返す。このときにかつて製本工であったわたしの技術が役立つのである。よく出席した人は本が厚くなり、少なく参加した人には出席の数に比例して薄くなっていくのである。

 実は、学校にはこのように「生徒と教員が対等にわかちあう」という時間がまったくと言っていいほどないのである。生徒と教員という身分と役割の違う間では難しいのかもしれないが、実はそれを乗り越えてする価値があるとわたしは思う。
 わたしがこの「宗研」の時間を好きになった理由がわかっていただけたであろうか。

 書いてアップしてから気づいたのだが、この「宗研」については以前書いたことがあった。




 

 
posted by mrgoodnews at 00:13| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月13日

私の学校の卒業式とロッシーニの「信仰」「希望」「愛」

今日は、私の学校の卒業式についてお話ししましょう。
ことしは3月10日に卒業式がありました。

卒業式自体は、何の変哲もない普通の「厳粛」なものです。
卒業証書授与式にはじまり、皆勤賞の表彰、聖書朗読、校長による卒業生への言葉、来賓祝辞、卒業生の歌「信仰」、卒業生を送る歌「愛」という式次第です。

変わっているといえば、卒業生、在校生の歌でしょうか。ロッシーニの「信仰」「愛」が歌われます。ロッシーニにはもうひとつ「希望」という歌がありますが、これは入学式の時に在校生が歌います。

これがけっこううまいのですね。
なにせ、合唱祭は高校、中学別にあるし、中学音楽部は合唱連盟のコンクールで、全国大会の文部科学大臣賞をもらうくらいだし、高校音楽部も関東大会金賞ものです。
クリスマスミサでは、管弦学部の伴奏付きの「ハレルヤコーラス」が全校生によって歌われるくらいだし、本校の合唱のレベルはきわめて高いと思います。
しかも全校での練習は、わずかに1時間くらいの練習が2回しかないのに、3パートに分かれて歌うのですね。
いつもなかなかみごとだと感心していますが、これもいよいよ聴き納めとなりました。

もう20年前になりますが、卒業生が「あおげばとおとし」を歌わせてほしいといってきたときがありました。でも当時の校長は「あおげばとおとし」の「身を立て名をあげいざ励めや」というセリフが、本校の精神と合わないとかいう理由で、これをきっぱりと拒否していました。仕方なくその時の卒業生たちは祝賀会でロック調にアレンジして歌っていましたが……………。
あの歌のほうが「泣ける」という理由だったようです。
卒業生にはみなで涙を流しておいおいと泣きたいという欲求があるようです。
「卒業生の言葉」や「歌」の間には、目頭を押さえている生徒も多いし、学年によっては「卒業生の歌信仰」が歌えなくなってしまう学年もありますが、おおむね静かで厳粛な卒業式になります。

そこで、ロッシーニの「信仰」「愛」「希望」の歌詞を以下に紹介しておきましょう。

信仰

心悩みて苦しむ時
寄る辺無き身の 頽るる時
煌めく光 地の果てより
輝き照らす、我が心を。
この光こそ 神の賜える信仰の火よ
み神の賜える 信仰の火よ。
疑いは去り 我が行く手には
喜びの宴 我を待てり。
光はいづる。地の果てより。
ほとばしるごと 我に迫りぬ。
光の光、知恵の知恵よ。
光の光、知恵の知恵よ。




愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん

愛に宿る主なる神
貧しき者に望みを与とう
愛に満てる心は
世に光をもたらさん

愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん

汝が光覆う所
憎み争い後を絶ちて
永久に知らす主の愛
戦いをうち沈め

憎み争い後を絶たん
愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん

愛に宿る主なる神
貧しき者に望みを与とう


希望

聖なるかな 我を守る
望みよ わが主よ
悩める我を救いたまえ
涙にみてる 悲しみの心をば
ぬぐい去りて 喜び満たしたまえ
心をば 喜びに満たしたまえ

よろずのもの なれを仰ぎ
いのりまつる わが主よ
聖なるかな わが魂の光なる
我を守る望みよ
涙に打ち沈む心より
憂いをば取り去り
喜びを与えたまえ


けっこう「宗教臭い」歌詞のうたですが、カトリック学校ではよく歌われている歌のようです。
この歌を歌っている学校がありましたら、お教えください。
posted by mrgoodnews at 01:09| Comment(7) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月05日

学校でやり続けたこと デジタル写真館

 私はもうじき23年間勤めてきた今の学校をひきます。

 私は学校では「しなければならないこと」はほどほどにして、「しなくてもよかったこと」を一生懸命にやり続けてきたような気がします。
 その「しなくてもよかったこと」で5年くらい続けてきたことの一つに、コンピューター教室の前の掲示板に、おもに学校内外の植物のデジタル写真を掲示し続けてきたことがあります。だいたい1か月に1回くらい更新して、ちょっとしたメッセージを添えてA4判にプリントした4枚の組写真を紹介してきました。
 はじめはこの掲示板が、だれかに傷つけられてしまい、それを隠すところから始まりました。
 これらの多くは学校の中や通勤途上に撮影した花や木、草の写真です。4枚組写真になっていて、どこか共通の特徴を持った写真です。そのいくつかはこのブログでも紹介しています。


掲示板 たとえば、このブログでも「冬の樹木」シリーズがいくつかありますが、2月のそれはその「冬の樹木」シリーズでした。
 生徒からはほとんど反応がないのですが、職員からはいろいろと花や木についてのことを教えてもらったり、感想があったりして、励まされました。

 私がいなくなるとこれはなくなるかなと思うとちょっと寂しいですが、どなたか受け継いでくれるといいなと思うのですがね。

 
posted by mrgoodnews at 21:40| Comment(1) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月03日

プラスティック消しゴムの話

 学校には名前がその実態とそぐわないものがけっこう多い。

 たとえば「ゲタ箱」。今時学校に下駄を履いてくるものはめったにいない。

 たとえば「筆箱」。エンピツやシャーペン、ボールペンは筆箱に入っているが、筆の入っている筆箱は皆無ではないか。
 
 たとえば「黒板」。ほとんどの学校の黒板は今は「黒」ではない。おそらく「緑」であるだろう。

 そして「消しゴム」。これもゴムでできていない。今の趨勢はプラスチック消しゴムである。

 ところで今回の話題はその「プラスチック消しゴム」
。物理を教えている女の先生がこんなことを教えてくれた。
「プラスティックのケースの上にプラスティック消しゴムを裸のままで置くのはよくない。」
「じつはプラスティック消しゴムにはそれ自体をやわらかくするための軟化剤が含まれていて、これがプラスティックのケースに置いてあると、接しているプラスティックを溶かしてしまう」
「だからプラスティック消しゴムは紙に巻いてあるのであって、あれは意味があることなのだ」
posted by mrgoodnews at 23:57| Comment(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする