せいぜい6,7人というところだろうと想像できるのだが、これはあることをすると倍くらいに増やすことができる。
そのあることってなんだろか?
つづきを読む
「『これはなんですか?』と聞くのと『これはなんでしょうか?』と聞くのとではどういう違いがありますか? グループで話し合いなさい」
「ある読み物に『○○は横浜に生まれた』という文があったが、『○○は横浜で生まれた』のまちがいじゃないのか」
A:田中さん、映画はお好きですか?
B:ええ、好きですよ。
C:映画のチケットが2枚あります。いっしょに……。」
学習者の質問は「A:田中さん、映画がお好きですか?でもいいですか?」
「大雨のために高速道路は通行止めになった」と「大雨で通行止めになった」は同じですか?
「財布をどこかに落としてしまいました。」「財布がどこかにおちてしまいました」これは他動詞、自動詞の区別ですね。
The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.
凡庸な教師は、ただ話す。
良い教師は、説明する。
優れた教師は、態度で示す。
そして、偉大な教師は心に火をつける。
並みの教師はしゃべるだけ、
良い教師は説明し、
優れた教師は手本をみせる。
卓越した教師であれば、生徒の心を刺激する
普通の教師はただ話す
よい教師はうまく説明する
すぐれた教師は自分でやってみせる
偉大な教師は生徒たちが自らやってみたくさせる
Do more than belong: participate.
Do more than care: help.
Do more than believe: practice.
Do more than be fair: be kind.
Do more than forgive: forget.
Do more than dream: work.
所属するよりも、参加する。
心配するよりも、助ける。
心で信じるよりも、実践する。
フェアーにこだわるよりも、親切を実行する。
許すよりも、忘れる。
夢見るよりも、努力する。
この言葉はよく学校の教員間の言葉にも出てくるのですが、私にとっては使いたくない言葉の一つです。なぜなら「嫌み・尊大・高慢な感じ」を受けるからです。
私は長年、小中学校に勤務してきましたが、子どもたちには「先生は」と一人称で言わないことを貫きました。
英語では先生は「一緒に勉強した○○さんです」と紹介するのが常と聞いています。
教員は長い人で38年勤務をします。その38年をどのように生きるかが、「教え子」と「先生は」に表れると考えます。
群馬などで立派な仕事をされた斎藤喜博先生は「私を斎藤さんと呼んでください」と「未来誕生」のなかで述べています。
先生と生徒、親と子の「タテの関係」や子ども同士の「ヨコの関係」とは違う、近所のお兄さん、お姉さん、おじちゃん、おばちゃん、おじいさん、おばあちゃんとの「ナナメの関係」。建物も柱と梁だけではなく、ナナメ方向の木材を入れることで強くなる、それと一緒です。
信仰
心悩みて苦しむ時
寄る辺無き身の 頽るる時
煌めく光 地の果てより
輝き照らす、我が心を。
この光こそ 神の賜える信仰の火よ
み神の賜える 信仰の火よ。
疑いは去り 我が行く手には
喜びの宴 我を待てり。
光はいづる。地の果てより。
ほとばしるごと 我に迫りぬ。
光の光、知恵の知恵よ。
光の光、知恵の知恵よ。
愛
愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん
愛に宿る主なる神
貧しき者に望みを与とう
愛に満てる心は
世に光をもたらさん
愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん
汝が光覆う所
憎み争い後を絶ちて
永久に知らす主の愛
戦いをうち沈め
憎み争い後を絶たん
愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん
愛に宿る主なる神
貧しき者に望みを与とう
希望
聖なるかな 我を守る
望みよ わが主よ
悩める我を救いたまえ
涙にみてる 悲しみの心をば
ぬぐい去りて 喜び満たしたまえ
心をば 喜びに満たしたまえ
よろずのもの なれを仰ぎ
いのりまつる わが主よ
聖なるかな わが魂の光なる
我を守る望みよ
涙に打ち沈む心より
憂いをば取り去り
喜びを与えたまえ